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夏は、空から始まる。
もはや太陽の光を遮るものもない。真っ青な空だけがある。
草の上を、風のはざまを、キラキラと光るものがある。トンボの翅だ。無数の薄いガラス片のように輝いている。
少年のこころが奮い立った夏。
トンボの空に舞い上がり、トンボを殺すことが、なぜあんなに歓喜だったのかわからない。
置き去りにしていたものを、ふと取りに戻ってみたくなる時がある。
もはや少年の日には帰れない。けれども古い荷物を、駅の待合室かどこかに置き忘れたままになっている。そんなものを探しに帰る。久しぶりに郷里の駅に降り立ったような戸惑い。
薄汚れた時刻表はいつのものかわからない。行先を見い出せないでいると、乗客の少ない気動車がしずかに通過する。
置き去りになっているのは駅そのもの、あるいは少年のぼくかもしれなかった。
回想の夏空をひらく。細い竹の鞭が、空(くう)を切った。
その一閃に全神経をそそぐ。中空でかすかな手ごたえがある。
つぎつぎにトンボが川面に落下する。トンボは4枚の翅を開いたまま瀬にのって流れていく。
残酷な夏の儀式だった。
虫の命を奪いながら、ぼくは太陽に焼かれ、体だけは確実に大きくなり、いくつもの夏を乗り越えた。
久しぶりの夏を郷里で過ごしたとき、ぼくは突然トンボの記憶に遭遇した。
大きなオニヤンマが、ぼくの頭上をかすめた。かれは細い山道に沿って、行ったり戻ったりしていた。かれのテリトリーに入ってしまったぼくを威嚇していたのかもしれない。
少年のこころが動いた。
そばに落ちていた竹の棒をひろって、かれの行く手に振り下ろした。
戯れのつもりだった。けれども命中してしまった。ぼくの中の少年の記憶は、あまりにも正確すぎたのだ。
オニヤンマは、トンボの中では最大級ではなかろうか。
その大きな図体がアスファルトの上に落ちていた。翅を広げたまま、まるでそこに休んでいるようだった。黄色と黒の縞模様もくっきりとして、美しい緑色の大きな目も、あたりを睥睨するように輝いていた。
ただ気絶して、そこに落ちているようだった。そうあってほしいと、ぼくも願った。
だが手にとっても、動こうとしなかった。
いつでも飛び立てる格好で、トンボを生垣の上においた。
それまでオニヤンマが徘徊していた空に、ぽっかりと大きな穴があいていた。
そこだけ夏の空が失われたようだった。
少年の日に、赤トンボが無数に飛び交っていた空を思い出した。その空から、どれだけのトンボの翅を剥ぎ取ったことだろう。
ぼくはそこに、トンボの空があったことを初めて知った。
蜻蛉の夢や幾度、杭の先 (漱石)