
ぼくの森は、いまは冬の森だ。
落葉樹はすっかり裸になって、細い枝々が葉脈のように冬空にとり残されている。深い海のような空があらわになって、そのぶん森は明るくなったけれど、森にひそむ神秘な影が薄くなった。
この森はとても小さな森なのだが、冬はいちだんと侘しくなったみたいだ。
シカもリスもいない。ヘビくらいはいるかもしれないが、いまは地中に隠れて冬眠中なので、この森の中で動くものは小鳥しかいない。
森といっても、ぼくだけが勝手にそう呼んでいるだけで、造成地に残された、かつての山林のわずかな名残りにすぎない。そこが森だなどという人は誰もいない。だからそこは、ぼくだけの森でもある。
サワグルミやトチノキ、ヒマラヤスギなどの大木も幾本かはある。落葉や倒木なども放置されたままなのが、かえって原始的な森にみえる。ぼくが森であると容易に錯覚できる所以でもある。
ぼくの日々は錯覚することで、幾分かの生活の空白を満たしているようなものだから、この森はある意味、ぼくの生活の大事な一部分であり象徴でもあるといえる。
それは単なる森であるけれど、森でもない。そんな幻想にちかい森が、そこにある。
このところ、熊楠の本を読んでいた。
熊楠とは南方熊楠(1867-1941)のことだが、和歌山の熊野の森にこもって粘菌の研究をした学者である。
ぼくの森の妄想は、熊楠がえがく森の残像に侵されているのかもしれない。
熊楠の森に比べると、ぼくの森など、すぐに消えてしまいそうな貧弱な森だけど、熊楠の深い森を想うとき、ぼくの森は無限の森へと広がっていくような気がする。
熊楠の森には、「奇態の生物」というものがいる。
熊楠は、柳田國男への手紙の中で、「粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物」だと書いている。
この「奇態の生物」は、生きているかとみれば死んでいる。死んでいるかとみれば生きている。この変形体の生物は、動物のように捕食活動もするところから、熊楠は粘菌を「原始動物」と呼んだ。
このような粘菌の不思議の中に、彼は生命の神秘を見、さらには仏教的な輪廻の思想にまで接近していったようだ。
熊楠が粘菌の活動の中に、重層構造をもつマンダラをみていたとするのは、宗教学者の中沢新一だ。
「粘菌と森が、彼をして、生命の秘密をにぎるマンダラの中心部へと、導いていった」(『解題 森の思想』)と述べている。
「鬱蒼と生い茂る熊野の森。そこで、熊楠は生と死の向こう側にある、マンダラとしての生命の本質を見たのである」と。
熊楠にとって、熊野の森は単なる森ではなかったのだ。
「森の樹木に包まれて、生命の秘密儀に向かって自分を開いているときにだけ、熊楠は実存の輝きを体験することができたのだ」という。
なんだか難解な森に迷い込みそうだ。
要するに、森の中にいるとき、熊楠は真に生きていることを実感していた、ということだろうか。
森は、真性に出会える聖域として、日本人が古代から手つかずで護ってきたものであり、神の鎮まる場所でもあった。その森の深くで、熊楠は実存の輝きを見つめていたのだ。
彼の森は、神そのものでもあったといえる。だから、そんな森を冒涜しようとするものは許せなかった。
明治政府による神社合祀の動きに、いち早く反対運動を起こしたのも熊楠だった。
村々の小さな神社が壊され、粘菌が棲息する森が失われるということは、熊楠の研究にとっては切迫した問題だった。それまで保たれてきた自然の有機的なバランスが崩れてしまうことを、彼は何よりも危惧したのだった。
さらには「神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし」(『神社合祀に関する意見』)と、熊楠は書き残している。
それは自然界のバランスのみでなく、そこに暮らす人々の心のバランスまで壊してしまうというものだった。
小さな森を散策しながら、ぼくがいつも考えることは、熊楠の森はいまも生き続けているだろうかということだ。
自然のあらゆるものに八百万(やおよろず)の神が宿るという、日本人の宇宙的な宗教感覚が育まれるとしたら、あらゆるものが有機的なつながりをもって生きている、そんな森の存在が大きいと思われる。
いま、ぼくの森は冬で、この索漠とした寂しさは、熊楠のいう奇態の生物も森の神も、どこかに隠れてしまつているからだろうか。
南方熊楠の世界は惹き込まれます。
曼荼羅を塗り絵してみたことがありました。
もしかしてコンピューターグラフィックスで立体的に処理すればなにかみえてくるのかなぁ?とか思いました。
自分のブログの宣伝とかではぜったいに無いのですので、もしよろしければ、おばさん 南方熊楠 とかで検索してみてくださいm(_ _)m
いつも読んでいただき、
さらにコメントまでいただき、ありがとうございます。
コンピューターグラフィックスで曼荼羅を描く、とても
おもしろい発想ですね。
うさぎさんのブログも拝見させていただきました。
熊楠マンダラのことは知りませんでした。
なかなか面白い絵というか図形というか、熊楠の頭の中を覗いたようでした。
曼荼羅を塗り絵してみるという、うさぎさんの好奇心もあっぱれです。
ミロの絵にも似てるかな。