風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

白い道

2024年12月20日 | 「2024 風のファミリー」

 

スマホなどない頃だった。パン屋でパンを買う。そのとき口にだす短い言葉が、その日に喋った唯一の言葉だという日もあった。
地方から東京に出てひとりで暮らすには、ときには孤独な生活に耐えなければならなかった。ひとと繋がることが、現代よりもずっと厳しい環境だったといえる。
学生の頃、友人のひとりが心を病んだことがある。下宿を訪ねたがドアを開けてくれない。激しくノックして呼びかけても、室内で妙なことばかり口走っていて、まともに応答してくれない。

仕方ないので無理やり開けようとしたら、入れ替わるように、すばやく彼は部屋から飛びだしていった。いつもと違う態度と異常な表情に危ういものを感じた。急いで追いかけたが、路地の多い街中では見つけることが容易ではない。近くの交番に助けを求めたが、そのようなことで警察は動けないといって拒絶された。
夜になってもういちど彼の部屋を訪ねると、ドアには鍵がかかっていたが、中から彼の歌声のようなものが聞こえてきた。
「チャペルにつづく白い道……」
そんな文句だった。詩だか歌だかはわからなかったが、節が付いていたので歌だったのだろう。ずっと同じ文句をくりかえしていた。彼もとうとう都会の生活に敗れたか、と思って悲しかった。

とにかく近くの病院に連絡をとった。翌日、訪ねてきた屈強な看護人たちによって、彼は注射で眠らされ、郊外の精神科病院に運ばれた。彼も私も東京には身内がいなかったので、取り敢えず私が身元保証人にされ、毎日のように彼を見舞うことになった。
病棟に入るところには鉄格子があった。鍵がはずされ病室に通じる廊下へ入ると、私の背後で再び鍵がかかる。
彼はいくぶん落ち着いた様子で、会うなり私のことを、きみの様子は変だ、きみは病人だと言った。隔離された暗い部屋で、そのような彼を見るだけでも、私は憂鬱な気分だったのだ。異様な鉄格子の中では、確かに私もまた病人のようだったかもしれない。

その後、彼はいくどか入退院を繰り返した。例の歌をふたたび聞くようなことはなかったが、退院しても、強い薬を与えられているようで、始終あくびばかりしていた。起きているのか眠っているのか、会話もあまり進まない。無気力な彼と付き合うのが、私は次第に苦痛になった。
彼の郷里の両親には、彼の状態をあまり心配させない程度に報告はしていたが、ついには母親が出てきて、彼を説得して郷里の北海道に連れて帰った。
その後しばらく彼の消息は絶えた。私はしばしば、白い道を歩いている彼のことを思った。おそらく都会生活への復帰は無理だろう。わが身のことを考えても将来の風景は暗かった。

それから何年か後に、彼から突然連絡が入った。わざわざ大阪まで訪ねてくれたが、まるで別人のように元気になっていた。あれから彼は大学も卒業し、地元で英語の学習塾を開いていると言った。結婚して3人の子供もいるという。いや4人だったかもしれない。子供達はいずれも優秀だといって自慢した。
その後の彼は走るのが趣味で、あちこちの市民マラソンに参加しているようだった。九州の私の郷里でも走ったといって写真を送ってきた。いまや、マラソンランナーとなった彼は、白い道のゴールを目指して走っているのだった。




「2024 風のファミリー」




 

この記事についてブログを書く
« 栗のイガは痛いのだ | トップ |   
最新の画像もっと見る

「2024 風のファミリー」」カテゴリの最新記事