すっかり裸木になったケヤキの枝先に、白い凧が引っ掛かっていた。
凧糸が枝に絡んでいるから、風に煽られると凧はもがいているように見えた。
その木の根元では、数人の子どもたちが輪になって凧を見上げている。細い木切れを伸ばしている子もいるが、大人でも無理な高さだから凧までははるかに届かない。凧の枝まで木登りができる子もいないようだった。
凧は糸がついているから高く上がるのだが、その糸が厄介なこともある。
ウォーキングコースの途中に、太陽電池で動いている時計がある。そこでいつも時間を確かめる。とくに確かめる必要もないのだが、時間を確認するという安心感がある。
コースは大体決まっているので、時間を気にすることもないのだが、その場所で時計を見ることが習慣になっていて、いつも何気なく見ている。そして、なんとなく納得して通り過ぎる。
時間を確認したつもりが、ときどき、時間の記憶が残っていないことがある。時計を見たことは確かなのだが、何時だったかがどうしても思い出せない。
朝のさまざまな風景を何気なく見過ごしているように、見てはいるのだが、いちいち記憶には残っていないものがある。公園の時計も、そのようにして記憶から消えていることがある。
確認したものが思い出せない。そのことだけで、だいじな目印を失ったような心もとなさを覚える。
歩きながら、半分の意識が時間をさがしている。歩き慣れている道なのに、足裏の感覚が地面から浮きあがって不安定になる。
歩くということからも自由に歩きたいから、時計も万歩計も持たずに歩くことにしている。でも、意識を自由にして歩くというのは難しいものだ。
時間から解き放たれているはずでも、体の中の時間感覚に動かされている。ときどき時間を確認して安心する。そんな習性をなかなか捨てきれない。
凧の糸のように、時間の糸にしっかり繋がれているのかもしれない。頭の隅で凧のことも気になっていた。
時間を見失った瞬間から、時間をさがす感覚と道を踏みしめる感覚が交雑しはじめる。無意識のうちに2本の糸が絡み合って歩調を乱してしまう。