青い鳥を常に求めて

人生の理想を追求する姿勢で何事にも当たりたい。

学校まで車

2007-01-25 15:28:00 | Weblog

朝の冷え込みは緩んで気温は昨日並み。ただし、風が強くなる。

小学校の授業参観と父兄会。子供が歩いて通学なのだから、当然。母親も歩いて行かせる積りだった。

弟(下の孫)が呼びに来た「じいじ!行くよ」家内に「お願いします。連れて行って」と言わされて言い直した。

昨日は「何時だと思ってるの。早く!」と言って、親が言い訳をしていた。

子供たちが動かないのでママが子供に言った。その通りを孫が鸚鵡返しで言ったという。

良いことも悪いこともすぐに覚える年頃。油断が出来ない。

まして、最近起こるいじめから犯罪まで、社会もあろうが、親が子供を躾けていない。

教育改革、ゆとり教育の修正で喧々囂々だが、改革は是非行うべきで、遅すぎる。

丸×入試で点数重視を改正しないと問題は片付かないと思う。

昔、名古屋時代、大勢の子供たちを教えた。中学生、高校生から大学生までだが、ある親に言ったことがある。

東大に入学させたかったら、何時でも合格させると。不通の親の能力を受け継いでいれば誰でも合格の可能性はある。

合格するためだけの詰め込みをして、点数をとる勉強をさせる。

われわれ世代の東大組は優秀だった。がり勉するのでもなく、普通にすいすい合格した。

これは親からもらったずば抜けた才能を持っていた。生まれながらの秀才以上の天才に近かった。

どの科目も優れていた。われわれはどこかで隠れて勉強していた。人前で勉強する振りは、恥ずかしかった。

皆と一緒に馬鹿をして、騒いだ。彼らは短い勉強時間で全部頭に入る能力の持ち主だった。

われわれの嫌ったががり勉組みが、こんにちは当たり前になった。

終には、予備校のように、確率で、傾向と対策などを売り込み、合格率を高める競争となった。

この辺りから、教育が根本から狂ってきた。中学、高校までが進学率を重視し、それが校長の成績になった。

人格形成、友情、スポーツ精神、男らしさ、女らしさなどの当たり前の教育が疎かになった。

修身という科目が無くなったという人もいるが、そうではない。集団の中でひとりでに学ぶ社会学なのである。

友達を競争相手にしか思えない。団塊の世代の人たちは特別だ。否応なしに過当競争の渦に巻き込まれたのだから。
 
だから、その世代の人全部がそうだとは言い切れない。立派な親や祖父母に躾けられ
た立派な人もいる。

半分は学校。残りの半分は家庭なのだ。それがいえない政治家さん、特に、安倍首相は気の毒だ。

懸命に、真剣に、取り組んでもすぐに成果が出るものでもない。

すぐに対処して、変えようとする姿勢に賛同し、協力すべきである。

派手で、交わし方の旨い前首相の幻を追っている愚か者が多いのには情けない。