今年の大相撲は実に多彩な話題を提供してくれた。
先年から八百長相撲が取沙汰されて久しい、報道した週刊誌を協会が名誉毀損で訴えて争っている。
大相撲に限らず個人対個人が相対するスポーツには、手加減も可能なことから疑惑が生ずるのは止むを得ない。
しかし大相撲にも長い間に絶えず疑惑があったのも確かである。
そして今年に入って横綱の朝青龍問題である。地方巡業を負傷の為に欠場しながら、母国でサッカーに興じていることが判明して出場停止になってしまった。そしてだんまりを決め込み、母国での療養を協会が認めたためにモンゴルへ帰省した。その間判明したのはモンゴルでも有数の実業家として、手広くサイドビジネスを手掛けている朝青龍の姿だった。モンゴルの英雄は今月末には日本に戻るらしいがどんな態度を見せるのだろうか?
さらに時津風部屋の若い力士の暴行死はショッキングな事件だった。「カワイガリ」と称する稽古?の噂は絶えずあったが死亡するまでの「カワイガリ」があったとは今でも信じられない。
11月の九州場所で4連勝に挑んだ我が贔屓の力士の「高見盛」関。相手を一気に土俵際まで押し込んだが、見事な打っちゃりを食い無念の負傷負け。今場所も気合充分にゴリラ張りの胸を叩きながら吼えまくったが無念の休場だった。これで小生もヒートダウン。毎日相撲の放送は見ていない。高見盛の取り組みに懸賞を出していた「永谷園」も懸賞を取り止めた。
相撲界の「八百長」の語源を説いたコラムによると、もともと大阪相撲界では「たにまち」と言はれた贔屓筋が多かった。そして八百屋を営む「八百長」さんという方が相撲界を贔屓して、同時に各相撲部屋やお茶屋さんに野菜を納入して大儲けをしたらしい。そこで相撲界の贔屓筋を「八百長」と呼んだそうだ。だから元々の語源はわざと負ける「八百長相撲」のことではなかったらしい。
しかし江戸の相撲界で有名な横綱「谷風」が、弱くて有名だった「佐野山」という力士が、毎夜毎夜お宮で水コリをして郷里の親の病気回復を祈っていることを知った。そこで名医を手配して、薬代を与えて元気をつけてあげた。それだけでは佐野山の暮らしが立たない。そこで一番負けてやろうと、土俵で一世一代の芝居を打って負けてやった。大喜びした満場の観衆は「佐野山」にご祝儀金を雨あられの如くあたえた。佐野山はそれで借金を返し郷里に帰り米屋になったという。
あとでその相撲が「八百長」と分かった江戸の人達は、「いい話じゃないか、八百長じゃない人情相撲」だと喜んだという。江戸っ子の心意気は「八百長」相撲にも寛大だったらしい。
先年から八百長相撲が取沙汰されて久しい、報道した週刊誌を協会が名誉毀損で訴えて争っている。
大相撲に限らず個人対個人が相対するスポーツには、手加減も可能なことから疑惑が生ずるのは止むを得ない。
しかし大相撲にも長い間に絶えず疑惑があったのも確かである。
そして今年に入って横綱の朝青龍問題である。地方巡業を負傷の為に欠場しながら、母国でサッカーに興じていることが判明して出場停止になってしまった。そしてだんまりを決め込み、母国での療養を協会が認めたためにモンゴルへ帰省した。その間判明したのはモンゴルでも有数の実業家として、手広くサイドビジネスを手掛けている朝青龍の姿だった。モンゴルの英雄は今月末には日本に戻るらしいがどんな態度を見せるのだろうか?
さらに時津風部屋の若い力士の暴行死はショッキングな事件だった。「カワイガリ」と称する稽古?の噂は絶えずあったが死亡するまでの「カワイガリ」があったとは今でも信じられない。
11月の九州場所で4連勝に挑んだ我が贔屓の力士の「高見盛」関。相手を一気に土俵際まで押し込んだが、見事な打っちゃりを食い無念の負傷負け。今場所も気合充分にゴリラ張りの胸を叩きながら吼えまくったが無念の休場だった。これで小生もヒートダウン。毎日相撲の放送は見ていない。高見盛の取り組みに懸賞を出していた「永谷園」も懸賞を取り止めた。
相撲界の「八百長」の語源を説いたコラムによると、もともと大阪相撲界では「たにまち」と言はれた贔屓筋が多かった。そして八百屋を営む「八百長」さんという方が相撲界を贔屓して、同時に各相撲部屋やお茶屋さんに野菜を納入して大儲けをしたらしい。そこで相撲界の贔屓筋を「八百長」と呼んだそうだ。だから元々の語源はわざと負ける「八百長相撲」のことではなかったらしい。
しかし江戸の相撲界で有名な横綱「谷風」が、弱くて有名だった「佐野山」という力士が、毎夜毎夜お宮で水コリをして郷里の親の病気回復を祈っていることを知った。そこで名医を手配して、薬代を与えて元気をつけてあげた。それだけでは佐野山の暮らしが立たない。そこで一番負けてやろうと、土俵で一世一代の芝居を打って負けてやった。大喜びした満場の観衆は「佐野山」にご祝儀金を雨あられの如くあたえた。佐野山はそれで借金を返し郷里に帰り米屋になったという。
あとでその相撲が「八百長」と分かった江戸の人達は、「いい話じゃないか、八百長じゃない人情相撲」だと喜んだという。江戸っ子の心意気は「八百長」相撲にも寛大だったらしい。