こんにちはー!!
明日の朝はめっちゃ早起きなので、夜になる前に今日のブログを書こうかな、というわけで、お送りします。
オンラインサロンの中で、素晴らしく広い見地を持ってらっしゃるしんみょーさんが研究され始めた内容をシェアしてくれたんですけど、
いやはや、めちゃくちゃ考えさせられる内容だな、、と思って。
元々は世界的スーパーパーカッショニスト エヴェリン・グレニーは耳が聞こえないのですけど、ちゃんと音を感じているし、我らなんかより、振動で体全体感じていて、むしろ豊かな音世界にいるのではないか????的なところが、スタート地点。
で、その中で上げてくださった参考文献たち。
以下リンク貼ります。
これは、アフリカのケニアで、耳の聞こえない子たちが、自然と友だちとダンスに興じているって話。そこからいろんな考察も書かれているんですけど、
耳が聞こえなくても自分だけで踊るなら可能なような気もする。でももっと深く考えると、リズムが耳から入ってくるんだとしたら、リズム取れないはず…だとすると、リズムは決して耳から入ってくるだけじゃない。自分の心臓とか歩くこととか、何かをかき混ぜるのでも、なんでも実はリズムがあるってことと、めちゃくちゃ関係がありそう。
それと、この筆者がアフリカに行って、当たり前と思っていた部分を1から見直すことでたくさんの気づきが得られているってところ、これも大事なことだな、と思いましたねー。。。
これは、心に刺さりました。
耳の聞こえないご両親が、子どもを育てる中で、ふと気がついたら子守唄を歌っていた、っていう普通には感動のお話なんですけど、
この中の主人公の方が子どもの頃に、音楽の授業の合唱で歌っていると、周りが奇異な目で見る。それはやっぱり音が聞こえてないから出してる声がおかしかったってことなんだろう。で、周りはそれによって「いじめ」たりなんかはしてないんだけど、それでも音楽が嫌いになっていく、というこの構造。
教えるということが、まさかの嫌いな子を生み出す。。。これはよく起きることだと思うし、自分だってそういう風にやってることが後々考えたらある気がする。
「音楽」ってモノがなんなのか、そこなんだよな、結局。
いわゆるクラシックってものを考えると、「苦労して」「我慢して」「自分を殺して」みたいな部分って絶対あると思う。そして、それが正しいと。芸術というのはそういうモノだという考え。
それは一理あると思うんだけど、それは音楽のほんの1側面なんじゃないか、と世の中が共有しておく(いろんなものを許容する)だけで、全然違ってくるような気もして。
やはり、クラシックというモノが、もともと貴族社会や教会という場所から発生しているってことが大きく関わってるように思うなぁ。
奴隷を連れてきて、その人たちを人とお思わず使ったり、神の教えを推し進めるために他国の人々を押し潰したり、そういうことを「正当化」するためには、何かしらの権威とか決まりとか思想とかで「縛りつける」必要があったのかもしれず。。。
何しろ、演奏する&作曲するのは「使われてる側」ですしね。
そういうことも関係あるのかな?
貴族は聴く側だものね。
一方、いわゆるポピュラーとかフォークソング的なものは、元は演奏する側が主役だったように思う。ダンスなんかとも切ってもきれない関係だっただろうし。
ダンス、といっても今の「ジャンル」として確立されているものというよりは、一緒に体を動かしたり、生活の一部であったり、お祭りみたいなものであったり、意思の疎通の手段であったり。。。時にはシャーマン的な、自然や神さまとの交信であったり。。。
んー、そうだなー、、、だからなんだ?!ってことなんだけど、
そういう多様さも受容できる世の中なら良いのかな、、、って思ったりしております。
で、実際の自分の生活や活動(レッスンや演奏)の中に、どう落とし込んでいくかってのがね、そこがこれからどんどんやって行かなきゃいけないところ。ふむふむ。。。
まだ、ご紹介したい動画があったんですけど、長くなっちゃったから、それはまた改めてお伝えしますね。
朝から泣きましたよ、それ見て。なので、きっとご紹介しようと思います。忘れてたら、催促してください(笑)
それではまたねー!!!
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