毎日新聞 より転載
記者の目:いわき市、避難者と市民の溝=町田徳丈(特別報道グループ)
毎日新聞 2013年05月30日 東京朝刊
◇互いの実態直視、糸口に
東日本大震災で大規模な津波被害を受けた福島県いわき市では、東京電力福島第1原発事故で受け入れた約2万4000人の避難者と市民との間にあつれきが生じている。被災者同士の溝がなぜできてしまうのか。24日朝刊の特集「検証・大震災」の取材で内情に迫ろうとした。
いわき市民から漏れ出す苦情はきりがなかった。賠償金の差から始まり、人口増加に伴う混雑、住宅不足、ごみ出しや交通マナーの問題。震災後のマイナスの現象が避難者流入と結び付けられていた。正直、胸が痛んだ。
◇世間の目向かず、底流には疎外感
しかし、そう受け止めざるを得ない市民感情がたまっていた。震災以降、市民は疎外感を持ち続けていたように思う。私は震災12日後に市内に入ったが、441人が亡くなった被災地にもかかわらず「やっと記者が来てくれた」と言われた。震災直後は原発事故で物資の配給も滞りがちで、他の被災地同様に混迷していたのに「世間の目が届いていない」との嘆きがあった。
今春、市民の心中は震災直後と変わっていなかった。津波で家が全壊し、市内の仮設住宅で暮らす新妻美郎(よしお)さん(63)は語気を強めた。「私らのつらさは、いつになっても分かってもらえない」。ずっと続くもどかしさが、住民間の不和の根っこになっていると感じた。
避難者への鬱憤を市民すべてが感じているわけではない。人づてに聞いた避難者への不平が独り歩きした側面もある。一方で不快感が広がるのは、市民の多くがひずみを感じながら暮らしているからだろう。だから、不満を口にすることを、私は責められない。
ただ、分断が続く状況は見過ごせない。そんな中、今年1月、「いわき未来会議」という市民活動が始まった。原発の廃炉を見据え、いわきをどうするのか、30年間単位で話し合いを続けるのが基本姿勢だ。中心メンバーの一人でいわき市の僧侶、霜村真康(しんこう)さん(37)は「自主避難者もいて、いわきはモザイクの状態。でもモザイクのままでいい。まず違いを認め合うことから始まる」と語る。
4月の会合では、自然発生的に集まった市民2人と双葉郡の避難者4人らが、あつれきについて初めて率直に語り合った。「なぜ働かないの。賠償をもらっているからなのか」「職種が合わず働けない人もいる」。いわき市の建設業の男性(45)は「話をして、互いに分かり合えていないことに気づいた」と言う。
◇「帰れぬ家」訪れ、目線同じ高さに
未来会議から派生して動き出した取り組みもある。避難者で富岡町の飲食業、藤田大(だい)さん(43)が提案した旧警戒区域への市民らの同行だ。発想の元は富岡町民のエピソード。いわき市に避難した町民は、最初は市在住の知人に厚遇されたが、東電の賠償金の差などからやっかみを受け始めた。一時帰宅があり、知人もカメラを持参して一緒に行った。だが、避難から時がたった家の惨状を目の当たりにして撮影できなかった。その後、知人のわだかまりは薄れたという。
帰還を前提とする国の方針に疑問を持つ藤田さんは「現状を見て感じてもらえば同じ目線で会話できるのでは」と警戒区域が解除された自宅や勤務先を案内する。私も今月10日、いわき市民4人に同行した。自宅に入るのに靴カバーをして土足であがらなくてはならない。小動物のふんが散乱した室内、きついにおいを発する大型冷蔵庫。雨漏りで腐ってずり落ちる天井。
帰りの車内では無言が続いた。いわき市の弁護士、菅波(すがなみ)香織さん(37)は、こんなことを考え始めたという。「現場で当事者の話を聞いて、抽象的ではない、一人一人の人生への想像をかきたてられ、住んでいた人たちの失ったものの大きさを感じた。生活のすべてを奪われて家に帰れないという異常なことへの感覚がどんどん鈍麻して、現実を直視せずに、この2年ちょっとの間、生きてきてしまったのではないか」
この取り組みに手がかりが隠されている。相手が置かれている境遇にじかに触れることが、分断を修復する糸口になるのかもしれない。いわき市と原発避難者は気を使うあまりに「近くて遠い存在」同士になりがちだ。震災から2年が過ぎた今、試みたいのは、印象やうわさに左右されず、お互いの状況を直視することではないか。あつれきを一枚めくると、人のひがみや欲深さを含んでいて、向き合うのは簡単ではない。だが、何が気に障っており、どうすれば解決に導けるかの出発点は、実態を冷静に捉えることだと信じたい。
記者の目:いわき市、避難者と市民の溝=町田徳丈(特別報道グループ)
毎日新聞 2013年05月30日 東京朝刊
◇互いの実態直視、糸口に
東日本大震災で大規模な津波被害を受けた福島県いわき市では、東京電力福島第1原発事故で受け入れた約2万4000人の避難者と市民との間にあつれきが生じている。被災者同士の溝がなぜできてしまうのか。24日朝刊の特集「検証・大震災」の取材で内情に迫ろうとした。
いわき市民から漏れ出す苦情はきりがなかった。賠償金の差から始まり、人口増加に伴う混雑、住宅不足、ごみ出しや交通マナーの問題。震災後のマイナスの現象が避難者流入と結び付けられていた。正直、胸が痛んだ。
◇世間の目向かず、底流には疎外感
しかし、そう受け止めざるを得ない市民感情がたまっていた。震災以降、市民は疎外感を持ち続けていたように思う。私は震災12日後に市内に入ったが、441人が亡くなった被災地にもかかわらず「やっと記者が来てくれた」と言われた。震災直後は原発事故で物資の配給も滞りがちで、他の被災地同様に混迷していたのに「世間の目が届いていない」との嘆きがあった。
今春、市民の心中は震災直後と変わっていなかった。津波で家が全壊し、市内の仮設住宅で暮らす新妻美郎(よしお)さん(63)は語気を強めた。「私らのつらさは、いつになっても分かってもらえない」。ずっと続くもどかしさが、住民間の不和の根っこになっていると感じた。
避難者への鬱憤を市民すべてが感じているわけではない。人づてに聞いた避難者への不平が独り歩きした側面もある。一方で不快感が広がるのは、市民の多くがひずみを感じながら暮らしているからだろう。だから、不満を口にすることを、私は責められない。
ただ、分断が続く状況は見過ごせない。そんな中、今年1月、「いわき未来会議」という市民活動が始まった。原発の廃炉を見据え、いわきをどうするのか、30年間単位で話し合いを続けるのが基本姿勢だ。中心メンバーの一人でいわき市の僧侶、霜村真康(しんこう)さん(37)は「自主避難者もいて、いわきはモザイクの状態。でもモザイクのままでいい。まず違いを認め合うことから始まる」と語る。
4月の会合では、自然発生的に集まった市民2人と双葉郡の避難者4人らが、あつれきについて初めて率直に語り合った。「なぜ働かないの。賠償をもらっているからなのか」「職種が合わず働けない人もいる」。いわき市の建設業の男性(45)は「話をして、互いに分かり合えていないことに気づいた」と言う。
◇「帰れぬ家」訪れ、目線同じ高さに
未来会議から派生して動き出した取り組みもある。避難者で富岡町の飲食業、藤田大(だい)さん(43)が提案した旧警戒区域への市民らの同行だ。発想の元は富岡町民のエピソード。いわき市に避難した町民は、最初は市在住の知人に厚遇されたが、東電の賠償金の差などからやっかみを受け始めた。一時帰宅があり、知人もカメラを持参して一緒に行った。だが、避難から時がたった家の惨状を目の当たりにして撮影できなかった。その後、知人のわだかまりは薄れたという。
帰還を前提とする国の方針に疑問を持つ藤田さんは「現状を見て感じてもらえば同じ目線で会話できるのでは」と警戒区域が解除された自宅や勤務先を案内する。私も今月10日、いわき市民4人に同行した。自宅に入るのに靴カバーをして土足であがらなくてはならない。小動物のふんが散乱した室内、きついにおいを発する大型冷蔵庫。雨漏りで腐ってずり落ちる天井。
帰りの車内では無言が続いた。いわき市の弁護士、菅波(すがなみ)香織さん(37)は、こんなことを考え始めたという。「現場で当事者の話を聞いて、抽象的ではない、一人一人の人生への想像をかきたてられ、住んでいた人たちの失ったものの大きさを感じた。生活のすべてを奪われて家に帰れないという異常なことへの感覚がどんどん鈍麻して、現実を直視せずに、この2年ちょっとの間、生きてきてしまったのではないか」
この取り組みに手がかりが隠されている。相手が置かれている境遇にじかに触れることが、分断を修復する糸口になるのかもしれない。いわき市と原発避難者は気を使うあまりに「近くて遠い存在」同士になりがちだ。震災から2年が過ぎた今、試みたいのは、印象やうわさに左右されず、お互いの状況を直視することではないか。あつれきを一枚めくると、人のひがみや欲深さを含んでいて、向き合うのは簡単ではない。だが、何が気に障っており、どうすれば解決に導けるかの出発点は、実態を冷静に捉えることだと信じたい。