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あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?

2013-11-02 22:55:18 | 日記
ウインザー通信より転載
あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?
2013年05月02日 | 日本とわたし
今朝一番に、このビデオと出会た。
50分の、長いものやけど、どうしても記録として残しておきとうて、家事や仕事の合間を縫って、ほぼ一日かかって字起こしした。
わたしは、この『焼き場に立つ少年』の写真を、先日、迷彩色の軍服を着て、うれしそうに戦車に乗ってた男に突きつけたい。

その男は権力者で、我々を権力(者)から守るために生まれ、権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかける憲法を、いじりとうて必死になってる。
まず、96条をいじり、その後、自分らの都合のええように変えていくつもりでいる。
特に、平和憲法と呼ばれてる9条は、暴力の連鎖を断ち切り、人類の進むべき道を指し示す、世界にも誇れるもの。
それが、戦争がしとうてしとうてたまらん、あの男らのような輩には、邪魔でしゃあない。

わたしら主権者は、今ほどしっかりせなあかん時はない。
この今をうっかり過ごしてしもたら、過ちをまたくり返すことになる。
歴史の中には、往々にして、そういう繰り返しが存在してるけど、
くり返してええことと、絶対にくり返したらあかんことがある。

戦争に向かわされること。
知らんうちに巻き込まれてしまうこと。
もうそんな、世にも愚かな、悲しいことにならんよう、『焼き場に立つ少年』の写真を、心に血がにじむまで、刻み込んでほしい。



報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]


ビデオは、残念なことに、この記事の画面に載せることができないので、以下の紫の文字をクリックしてください。
ぜひ、ビデオの中の現実を、みなさんの目で見てください。
お手間をかけてすみませんが、よろしくお願いします。


解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI Dailymotion

NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子

一枚の原爆の写真が今、注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと、その写真について述べられたのです。

宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。

今から63年前、長崎の火葬場で撮影された、ひとりの少年。
背負っているのは、原爆で死んだ弟です。
弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。
歯を食いしばるその唇には、血がにじんでいたといいます。

撮影したのは、アメリカ海兵隊第5師団に属していた、ジョー・オダネル軍曹。
去年の夏、85才でこの世を去りました。

1945年、8月9日、一発の原子爆弾が、長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。
占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き、密かに、30枚の写真を撮影していました。
しかし、写真はその後、長い間公表されることなく、封印されてきました。

写真が隠されていたトランク。
オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し、公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが、今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに、戦争の意味を問いかけています。

オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ』

アメリカ・ネバダ州での収録

長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。
ホテルで働き、写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として、写真を引き継ぐことになりました。

父は、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には、絶対に開けるな、と告げていました。
しかし、アメリカに帰国してから43年後、父は67才の時、突然トランクを開けたのです。
そこには、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。
当時アメリカ軍は、決められたカメラでしか撮影を許していませんでした。
しかし、父オダネルは、密かに持ち込んだ自分のカメラで、撮影を続けていたのです。
残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。

なぜ父は、命令に背いて写真を撮影したのか。
タイグさんは、父の死をきっかけに、その思いに迫ろうとしています。
タイグ氏:
「どうして撮影したのか、なぜ43年間も隠したのか、父は何も話さなかった。僕はその真相を知りたいんです」

今年タイグさんは、遺品の中に、父の肉声を録音したテープを見つけました。
それは5年前、地元の図書館の学芸員が、戦争体験を集めるために聞き取っていたものでした。
長崎で何があったのか。
父オダネルは、軍隊に志願した理由から語り始めていました。

テープより
「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。
日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。

日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。
『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。
とにかくこれで、戦争は終わりだ』

終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。
被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。

テープより
「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」

長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。
爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。
千人を超す従業員が、亡くなっていました。
爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。
オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。

辿り着いた爆心地です。
アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。
新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。

テープより
「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」

爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。
アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。

父の写真を調べていた息子タイグさん、写真の変化に気づきました。

タイグ氏:
「人が写ってるみたいだ」

アトミック・フィールドの瓦礫の奥に、人影が写っていたのです。
それは、遺骨を抱えた家族の姿でした。

タイグ氏:
「また一人、人が写っている」

許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。
爆心地の近くで撮影された写真です。
この少年は、チョコレートを持っていたオダネルの後を、ついてきました。
周りに親の姿は見当たらず、背中に、傷ついた赤ん坊を背負っていました。

テープより
「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」

オダネルが出会った、幼い兄弟です。
瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルは、持っていたリンゴを差し出しました。

テープより
「年上の子どもが、私の手からりんごをもぎ取った。
彼らは飢えていた。
3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」

オダネルは廃墟の町で、祝いの衣装に身を包んだ少女に出会いました。
写真を撮った後、近づいてきた母親が、オダネルに言いました。
「この子は、爆音で耳が聞こえなくなったのです」

日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。
そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。

日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。
オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について、語っています。

テープより
「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。
彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。
彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」

あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。
ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。

テープより
「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。
あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。
私には理解できない」

父はどのような気持ちで撮影を続けたのか。
息子のタイグさんは、同じ任務についていた、元アメリカ軍のカメラマンを訪ねました。
ノーマン・ハッチさん(アメリカ海兵隊・元少佐)、87才です。
1945年の9月以降、GHQは、原爆報道の規制を強化していました。
記録班は、個人の感情を捨て、記録に徹しなければならなかったといいます。

ハッチ氏:
「私は、撮影対象との接触を避けた。
たとえその人が傷ついていても、死んでいたとしてもだ。
記録班が感傷的になる必要はないのだ。
私用のカメラなど許されない」

タイグ氏:
「あなたは、記録班は感傷的になってはいけないと言ったが、僕は、父は日本人の姿に心が動いたのだと思う。
確かに父は、軍人として失格かもしれない。
でも父は、感情を捨てきれなかった」

爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。
廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。
浦上天主堂です。
原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。
熱線に焼かれた彫像。
オダネルは、その目線の先を追いました。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。
長崎を南北に貫く浦上川。
そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。
少年は、背中に小さな弟の亡骸を背負っていました。

テープより
「ひとりの少年が現れた。
背中に、幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。
彼は黙って立ち続けていた。
まるで、敬礼をしているかのように。
裸足だった。
炎が、彼の頬を赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇を噛みしめていた。
そして何も言わず、立ち去っていった」

オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。
任務として撮影したネガは、軍に提出。
密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。
帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。

テープより
「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。
私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。
眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。
見ないという他に、私にはなにもできなかった」

苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。

アメリカに帰国後、オダネルは、長崎での記憶を語ることなく、新たな生活を始めました。
軍を退役してから結婚、妻エレンさんとの間には、ジェニファーさん、タイグさんという二人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。

タイグ氏:
「優しい父親でした。良い家族を築こうとしていました。
よく、ディズニーランドに連れていってくれた。
いつも家族一緒でした。

その家族が、唯一禁じられていたことがありました。

タイグ氏:
「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」

中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。

帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。
大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。
最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。
アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。

トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。
多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」

核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。
アイドル”ミス原爆”も登場。

日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。
オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。
それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。

テープより
「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』
彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」

母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。
オダネルは、苦悩を深めていきました。

陸軍!海軍!沿岸警備隊!海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。

退役軍人:
「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
別の退役軍人:
「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」

オダネルの体を、異変が襲います。
背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。

テープより
「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。
かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。

1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。
その全身には、被爆者の写真が貼られていました。
腰には、爆心地を彷徨うふたり。
右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。

テープより
「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。
それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。
自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」

オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。
トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。

タイグ氏:
「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。
被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。
母にはショックが大き過ぎたんです」

1990年、オダネルは長崎の写真を引き延ばして、アメリカの各地で写真展を試みました。
しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、ほとんどありませんでした。
本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社、すべてに断られました。

終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真の展示も、地元の退役軍人の激しい反対で、中止に追い込まれました。
家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルを批判する投書も目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に、オダネルは孤立を深めていきました。

テープより
「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。
退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。
戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。
1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。
それは、100年経っても、間違いであり続ける。
絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」

封印していた写真と、再び向き合ったオダネル。
70才を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。
息子のタイグさんは、当時父の通訳をしていた人が、アメリカに居ると聞いて訪ねました。
リチャード・ラマーズさん(84)です。
父は長崎を訪れ、撮影した被爆者との再会を果たしていました。
救護所で撮影した少年は、一命をとりとめていたのです。
オダネルは、その少年、谷口稜嘩さんと十年に渡って交流し、共に日本で、原爆の過ちを訴えて回りました。
オダネルが最も気にかけていたのは、焼き場に立つ少年でした。
谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。

ラマーズ氏:
「オダネルは、この写真の少年に、とても思い入れがあった。
あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけたかったと、いつも話していた。
しかし、できなかったと」

日本で写真展を開きながら、オダネルは、少年の行方を探し続けました。
誰か知っている人はいないか、家族は生きていないかと、全国各地を訪ねて回りました。

テープより
「私は、少年を必死に捜した。
日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。
少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。
ついに、彼に会うことができなかった」

行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。
日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。

残されたテープを聞いていく中で、息子タイグさんは、その思いを知ることになります。

テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。
嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。
ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。
その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』
私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。
けれど父は、目撃してしまった。
その記憶に突き動かされたのだ。
もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」

母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。
その遺志をくみ、タイグさんは去年、全米に向けて、父の写真を公開しました。
写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は、必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』
イラク帰還兵からの声です。
『この写真は、戦争の現実を伝えている。
もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない』

写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。
母、エレンからのものでした。
離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。
『お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。
私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。
しかし私にはまだ、ジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのか、わからないままです。
ただ、これだけは確かです。
彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。
そしてその写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです。

タイグ氏:
「母は、父が遺した写真が、多くの人に何かを感じさせていることは、理解してくれています。
時間が経ち、アメリカは、十年前と少し変わってきています。
写真のような過去を見つめ、違った受け入れ方をする人も、増えているんだと思うんです」

ジョー・オダネルの死から、まもなく1年。
この夏、長崎(長崎原爆資料館)で、初の写真展が開催されました。
タイグさんも、遺族として招かれました。
会場で、被爆者の谷口稜嘩さん(79)と、初めて会うことになりました。
父オダネルが、63年前に撮影した、谷口さんの背中です。

谷口氏:
「今現在の背中です。
新しいあとは、去年手術したんです」
タイグ氏:
「まだずっと、手術されているんですね」

タイグさんは父の足跡を辿り、写真に記録された場所を回りました。
(浦上天主堂の)彫像の目線の先に、かつて父は、焼け野原の長崎を目撃しました。
あれから63年。
長崎で、タイグさんは、子どもたちが遊ぶ姿にレンズを向けました。
それは生前、父が願っていた思いを、実現するためでした。

タイグ氏:
「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。
『いつか長崎で、笑顔の子どもを撮りたい』と。
それに応えたいと思ったんです」

原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた、長崎。
30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを、訴えています。

テープより
「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。
そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」

第五部 汚染水の行方(5) タンクの不安 地盤いまだ不明瞭

2013-11-02 18:02:28 | 日記
  福祉民報より転載

第五部 汚染水の行方(5) タンクの不安 地盤いまだ不明瞭

地盤沈下したタンク基礎=平成23年7月(東京電力提供)
 「管理がずさん過ぎる。誠に遺憾だ」。10月3日午前9時半、県庁2階の応接室で緊急開催された県の原子力関係部長会議で、知事の佐藤雄平(65)は声を荒らげた。約13時間前の2日夜、東京電力福島第一原発で地上タンクから新たな汚染水漏れが発覚した。原因はタンクに水を入れ過ぎたためだった。
 地上タンク群を囲む漏えい防止用の「せき」にたまった水を移送する際、作業員は直径9メートルのタンクの天板中央部の小窓をのぞき、水位を確認しながら作業していた。だが、「容量にまだ余裕がある」と思われたタンクは傾いていた。一番低い位置から水が漏れ出した。
 貯水量を確認する水位計はタンクの一番高い位置に備え付けられ、機能を果たしていなかった。「東電にはリスク管理を徹底するよう何度も伝えてきた。しっかり対応しているのか疑いたくなる」。8月には300トンの汚染水漏れが判明したばかり。繰り返される漏えいに、佐藤は怒りに声を震わせた。
 ■ ■
 タンクの傾きは9月17日に福島市で開かれた県廃炉安全監視協議会で問題視されていた。
 東電はタンク運用前に、水を入れて構造などに問題がないかを調べる「水張り試験」をしている。試験前後に、タンクの傾き割合の変化が自社基準の1%未満であれば使用可能と判断する。この自社基準に対し、複数の委員が疑問を投げかけた。
 水文(すいもん)地質学が専門の柴崎直明(52)=福島大共生システム理工学類教授=もその1人だ。柴崎は、通常の建造物の場合、傾き割合の許容範囲は0.3%程度だが、高濃度の放射性物質を貯蔵するタンクは、より安全側に立った厳格な基準(0.1%以内)に設定する必要があると考えていた。
 しかし、東電の回答は「水張り試験に加え、パトロールを実施しているので問題ない」だった。
 東電は、「汚染水が漏出したタンクは自社基準に適合していた」と説明したが、漏出後の調査でタンクの傾きは最大2.4%に達することが判明した。平成23年4月の建設時から地盤に傾きがあったとみられる。タンクが傾いたまま水張り試験を行い、試験前後の傾きが自社基準内だったため、「問題なし」としていた。
 タンク内の水の高低差21.6センチは2年半にわたって改善されないままだった。東電は漏出後になってタンクから水を抜くことを検討し始めるなど、対応は後手に回っている。
 ■ ■
 柴崎はタンクを設置している地盤の軟弱性も指摘する。実際に福島第一原発で23年7月、タンクの水張り試験中に地盤沈下し、東電はタンク3基を解体・移設した。
 東電によると、地盤沈下があった地層は段丘礫層(だんきゅうれきそう)と呼ばれる比較的新しい層で、その上には腐った草などが積み重なっている。腐植土は軟弱地盤の典型例で、ブヨブヨした状態だ。東電はタンクを設置する際、地下1メートルまで掘り下げ、地盤を改良しているが、その下の層が軟らかければ簡単に沈む。
 柴崎はこれまで、東電にボーリング調査結果などを提供するよう繰り返し求めてきた。しかし、回答はほんの一部にとどまり、いまだに詳しいデータは示されていない。「タンク設置場所の地盤は不明な点が多過ぎる。基本的な情報を公表し、早めに手を打つべきだ」と警鐘を鳴らす。
 どうすれば、タンクからの汚染水漏えいのリスクを低減できるのか―。大半の放射性物質を取り除くことができ、東電と国が「切り札」としている「多核種除去設備(ALPS)」の本格稼働が待ったなしの状況となっている。(文中敬称略)

(2013/11/02 11:30カテゴリー:ベクレルの嘆き 放射線との戦い)

世界の目⇒アノ東電に、ここまで危険な作業を1年間も延々と続けさせようとしてる日本国民って一体…?

2013-11-02 14:48:44 | 日記
ウインザー通信より転載

世界の目⇒アノ東電に、ここまで危険な作業を1年間も延々と続けさせようとしてる日本国民って一体…?
2013年10月31日 | 日本とわたし
とうとうあと1週間に迫ってきた、福島第一原発4号機の、燃料棒取り出しと移動作業。

なんていうことも書きたくない。
迫ってきてるっていうことは、始まることを認めることになる。
絶対にこのまま、東電と政府主体のまま、この作業は始めたらあかん。
この作業でいいかどうかもわからん。
大型地震や地盤沈下による、4号機建屋の倒壊を防ぐ方法は、ほんまにただの一つも無いのかどうかもわからん。
なんかようわからんままに、東電が固執してるこの方法で押し通されるのは、絶対にかなん。
今まで、東電がやってきたことで、効を成したことはあった?
都合の悪いことはサッと隠して、追及されるまで黙ってる。
この体質が、骨の髄までしみ込んでる会社やで。

今、山本太郎氏が、天皇陛下に直接、自筆の手紙を手渡したからいうて、そのことについて国会議員らは、一日審議するとか言うてるらしいけど、

あんたら、どこまでボケとんねん!!
人的ミスや天災のせいで、事故につながるようなことになったら、関東にはもう人が住めんようになる、
いや、対処はもう永久に無理やろうから、北半球に生きる生物に、甚大な放射能汚染被害をもたらす、とんでもなく危険な作業を始めようとしてるのに、

日本国民の避難準備は整うてんのか!!
どこをどう通ってどこまで行くか、どれだけの世帯がどこに移るのか、ものすごい数の人間がいっぺんに動く際に、渋滞で留まれる時間は何時間か、
その際の食べ物、放射性物質への対策、作業員さんらの健康被害対策、データの公表、
知恵も経験も足りんわたしには、こんなことぐらいしか思いつかんけど、もっともっとあるはずや。

そのことを審議せんかっ!そのことを!


福島周辺に住んでる人、ええんですか?
東京も壊滅って言われてるような汚染が発生するんですよ。
きっちりと説明はされてるんですか?
国は絶対、なんにもしませんよ。
もうそれは、いやっちゅうほど経験しはったんちゃうんですか?
東電は隠しますよ。
絶対にほんまのこと言いませんよ。

もう言いなりになってるのはやめて、立ち上がってください。
自分のために。
自分のお子さんらのために。
大切にしてる生きもののために。


↓以下、週刊朝日の記事を紹介させていただきます。

専門家が本気で心配する『福島第一原発4号機』の『燃料棒溶融』

福島第一原発の汚染水漏れがいまだに止まらず、「完全にブロック」発言の修正に追われる安倍晋三首相。
ほとんど報じられていないが、新たな危機に今、直面している。
11月から始まる、4号機からの燃料棒の取り出しだ。
燃料プールに残された1533本もの燃料棒を、4号機から約50メートルの距離にある、共用プールに移す。

プールからの移動は、原発事故前にも行われていたが、事故で破損した不安定な原発での作業は世界初で、“未知の世界”だ。
事故前に、燃料棒の移動に携わっていた、元大手原発メーカー社員が語る。

「作業には、熟練の技術が必要。
まず、水中で機器を操作し、燃料棒を数十体ずつ、キャスクという金属容器に詰める。
燃料棒をちょっとでも水から露出させたら、作業員は深刻な被曝を強いられる。
水中で落下させて、燃料を覆う金属の管が破れても、汚染は深刻。
フロアの全員退避は避けられない」

無事にキャスクに詰めたら、今度は大型クレーンで空中に吊り上げ、専用トレーラーに載せて共用プールまで移動。
そこで取り出しとは逆の工程を行い、燃料棒をプールに収める。

ここが、最大の難関だという。
クレーンで吊っている最中に、大地震など、不測の事態が起きた場合、約100トンもあるキャスクが、地上に落下する恐れがあるのだ。
廃炉工程を検証している「プラント技術者の会」の、川井康郎氏が指摘する。

「キャスクが落下して破損し、中の燃料が露出したら、大量の放射性物質が放出される。
作業員はもう近づけません。
燃料棒はまだ崩壊熟を帯びており、本来は、常に冷やし続けなければならない。
長時間放置すると、燃料が溶融する可能性があります。
こうなると、燃料の回収は困難になり、作業全体が頓挫してしまう」

むき出しになった燃料は、「人間が近づけば即死」(原子力工学の専門家)という、すさまじい放射線量だ。
こうなると、1~3号機のメルトダウンに匹敵する、深刻な危機に直面する。
東電の今泉本部長代理によれば、キャスクは、事前に落下試験を行って、頑丈さを確認しているが、
実際の作業では、試験以上の高さまで吊り上げるという。

「落ちれば当然、何らかの破損があることは想定される。
ワイヤを二重にするなど、落下させない対策をしっかりやる」(今泉氏)

だが、東電はこんな危険な作業を、4号機だけでも2014年末まで、約1年間も、延々と続けなければならないのだ。

それならやめればいいかというと、そうはいかない。
4号機の建屋は、今も、地震や地盤沈下による、倒壊の危険があるからだ。
プールが壊れて、1533体もの燃料がむき出しになった場合、放出される放射性物質は、チェルノブイリ事故の約10倍ともいわれる。
「東日本に人が住めなくなる」と言われる、最悪の事態だ。
作業が頓挫して、現場に近づけなくなれば、危機を解決する手段が、失われてしまうのだ。

「危険な作業でも、やらねばならないのは確か。われわれの命にかかわるので、作業の映像を全公開してほしい」(前出の川井氏)

先の原発メーカー元社員は、記者の前で、手を合わせて拝むしぐさをしながら、こう語った。

「まさに“神頼み”。
私が携わった通常の取り出し作業は、年に数回なので、地震の確率は『ないもの』として無視していた。
1年もの長丁場で、大地震が起きない保証はない。
原発の最大の恐怖は原子炉ではなく、大量の放射性物質が、格納容器にも守られずに1カ所に集まった燃料プールなんです」

そして、無事に1533体を運び終えても、問題が解決したわけではない。
1~3号機のプールには、さらに、計約1500体の燃料がある。
燃料を運び出した先の「共用プール」は、6千体以上の燃料棒で満たされたままだ。
作家の広瀬隆氏が、こう語る。

「共用プールも、いつ余震でヒビが入り、水が漏れだすかわからない。
プールに移すのではなく、水を使わない『乾式キャスク』に入れて地上で保管するように、東電に求めているのですが、聞く耳を持ちません」


そしてコレ↓です。


フクイチ敷地内の道路崩壊・陥没も東電は公表せず
【週刊朝日】2013/10/31

東電の、情報隠蔽と言われかねない事態が発覚した。
伊豆大島に甚大な被害をもたらした台風26号が、東北沖を通過した今月16日、福島第一原発では、土砂崩れや陥没が起きていたのだ。
だが東電は、その事実を公表せず、災害から5日後、記者からの問い合わせで、ようやく明らかにした。

「崩落が起こり、道が封鎖されている」

大型台風が通り過ぎた17日、第一原発で働く複数の作業員が、ネット上でこうつぶやき始めた。
大熊通りと呼ばれる、原子炉1号機の北側を東西に走る、構内主要道路の土手が、長さ10メートル、幅10メートルにわたって崩れ落ちたのだ。

「崩落だけではありません。
大雨の影響で、別の場所にある汚染水タンク近くの道路が、深さ1.2メートルも陥没したのです。
幸いけが人はいませんでしたが、2カ所とも通行止めになり、迂回しなくてはなりませんでした」(作業員)

大熊通りは、作業用の車両が頻繁に行き交うメーンストリートで、原子炉建屋にアクセスする重要な通路。
崩落後、崩れ落ちた土砂を取り除く作業を進めているが、10月25日現在も、数百メートルにわたって通行止めが続く。

道路の陥没にしても、少し場所がずれていれば、汚染水タンクが倒壊しかねない危険性があったが、
東電は事実を公表せず、会見で記者からその理由を問われると、こう開き直った。

「人身災害や設備への影響がなかったため、通報基準外と判断して、自治体などへの通報をしなかった」

作業員が指摘する。

「原発事故前ならともかく、いまは事情が違う。これだけの情報を表に出さないのは、明らかにまずい」

そもそも、東電の対応を見ていると、大雨への備えはあまりに頼りない。
9月には、台風18号の影響で、汚染水タンクを囲む堰(せき)の水位が上がったことから、
低濃度とはいえ、放射性ストロンチウムなどで汚染された雨水を、堰から海へ放出。
それから約ひと月後の、今月20日の豪雨では、同じく堰から汚染水が漏れ、その一部が海へ流出したとされる。

対応策として、堰にたまった雨水を、ポンプでくみ上げてタンクへ移送するも、ポンプの能力が不足。
大急ぎで能力の高いポンプを増設したが、今度は、肝心の移送先が足りずに、地下貯水槽を使うはめになった。

別の地下貯水槽で、4月に汚染水漏れが見つかり、広瀬直己社長が今後、地下貯水槽は使わないと宣言した。
だが、すべてが後手後手に回り、トップの言葉をわずか半年で翻さざるを得ないほど、追い詰められたのである。

元東芝原子炉格納容器設計者の、後藤政志氏が言う。

「大雨が降ればどうなるか推測は可能なのに、それに備えていなかったのが問題です。
津波、竜巻など、自然現象を想定するのは難しいことですが、原発を動かす以上は、そうしたことにも十分な対策が取られていないといけません。
いまの東電は、汚染水対策ひとつとっても、ろくにできていない。
そんな状況で、原発の再稼働などできる訳がありません」
(ジャーナリスト・桐島瞬)

“社会保障解体”の促進法案に強く反対する

2013-11-02 14:18:08 | 佐倉チューリップ
しんぶん赤旗                  2013年11月2日(土)
“社会保障解体”の促進法案に強く反対する
「社会保障制度改革プログラム法案」について 志位委員長が談話
 社会保障制度の改悪メニューなどを定めた「プログラム法案」が1日の衆院本会議で審議入りしました。これについて日本共産党の志位和夫委員長は同日、記者会見し次の談話を発表しました。
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 一、安倍内閣が提出し、国会での審議が始まった「社会保障プログラム法案」は、国民を「自助・自立」に駆り立てる体制づくりこそ国が講ずべき政策であると規定し、医療・介護・年金・福祉の全分野にわたる給付削減を打ち出して、その実施スケジュールを明記するなど、公的制度としての社会保障を根底から掘り崩す、“社会保障解体”の促進法案となっている。
 一、「法案」は、国が講ずべき「制度改革」の基本を「自助・自立のための環境整備」とし、憲法25条にもとづく社会保障を解体して、国民を無理やり「自助」に追い込む方向を公然と宣言した。歴代政権の悪政によって、国民の貧困と生活苦が深刻化するなか、その解決を“自己責任”や“家族の支え”に押しつけ、国の責任を投げ出すなど許されるものではない。
 一、「法案」は、社会保障費の抑制に向けた医療・介護・年金などの「改革」メニューを列記し、おのおのいつまでにそれを実施するかの“日程表”を法文化して、政府に実施を義務づけている。政府が決めたスケジュールを与党が国会で可決し、政府に“お墨付き”を与えるという“自作自演”的なやり方で、制度改悪を推進しようというものである。
 一、「法案」には、「社会保障制度改革推進本部」「社会保障制度改革推進会議」という機関の新設が規定されている。昨年、「社会保障制度改革推進法」によってつくられた「国民会議」は、民間人を議長とする1年限りの諮問機関だったが、「推進本部」の本部長は首相がつとめ、両機関は常設機関となっている。この二つの機関をつうじ、政府は今後、「改革」の進展状況を検証し、次なる「改革」案を審議・立案していくことになる。まさに、社会保障削減の“司令塔”をつくり、永続化していくための法規定である。
 一、安倍政権が実行に着手し、「プログラム法案」に盛り込まれた、年金・介護・医療・福祉の改悪には、各分野の有識者や保守系の諸団体、自治体当局からも懸念と批判の声が上がり、改悪阻止をめざす国民各層の運動が起こっている。日本共産党は「プログラム法案」の廃案をめざすとともに、安倍政権が推進・計画している各制度の改悪を阻止するために全力をあげる。
 一、「消費税増税は社会保障のため」という年来の言い訳が破綻し、自民党政権は、社会保障の財源や将来像について、まともに語れなくなっている。日本共産党は、昨年発表した「経済提言」で、消費税に頼らない別の道で段階的に財源を確保しながら、危機にひんした社会保障を再生し、充実に転換していく、私たちの提案を明らかにした。こうした対案・展望もしめしながら、くらしと権利をまもり、人間らしい生活を支える社会保障の実現をめざす、国民的共同をすすめるため奮闘する。

許すな!秘密保護法案 理由も秘密のまま逮捕

2013-11-02 14:04:37 | 日記
しんぶん赤旗                  2013年11月2日(土) 
許すな!秘密保護法案 理由も秘密のまま逮捕
裁判官や弁護士も処罰の対象に
 外交・軍事情報から原発施設関連まで広範な行政情報を「特定秘密」とし、国民を処罰する「秘密保護法案」。「何が秘密かも秘密」にする同法案のもとで、捜査や起訴といった刑事手続きや裁判はどうなるのか―。10月31日、国会内で行われた超党派・市民の勉強会で議論となりました。
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写真)秘密保護法案の問題点を考える、超党派の議員と市民の勉強会=10月31日、参院議員会館
 法案は、「秘密」を漏らす行為(未遂や過失を含む)や探知する行為(管理侵害行為)を処罰する仕組み。それらの「共謀、教唆、扇動」も処罰の対象です。
 しかし、「秘密」の中身は国民には知らされず、何が処罰の対象になるか国民にはわかりません。勉強会で、警察庁警備局警備企画課長の村田隆氏は、(1)告発がなされた場合(2)別件で捜査し書類などが発見された場合に「捜査を開始する」と説明。しかし、捜索令状や逮捕状に被疑事実が明記されるのかは明言しませんでした。犯罪とされた事実もわからないまま、捜査対象になったり、逮捕される場合もあるのです。
「認識」どう調べる
 政府は「特定秘密であるという“認識”がない場合は処罰対象になりません」(村田氏)ともいい訳します。しかし、その“認識”をどう調べるのか。
 日本共産党の仁比聡平参院議員が「どうやって誰がただすのか。拘束して自白を迫るしかないじゃないか」と迫ると、村田氏は「慎重に捜査するとしか言いようがありません」と否定しませんでした。自白を迫るか、盗聴などで日ごろの会話を調べる以外にあらかじめ「認識」を知ることはできません。
裁判の主題が不明
 裁判ではどうなるのか。勉強会では、内閣情報調査室の早川智之氏が「裁判でも『秘密』を開示することにはならない」「弁護人が特定秘密を入手することは考えられない」と答えました。裁判官だけに「秘密」を提示する場合があるとしましたが、その場合は裁判官も「処罰の対象となる」(早川氏)のです。
 被告人はもちろん、裁判官も弁護人も、裁判の主題が何であるかがわからない。それどころか弁護のため「秘密」を探れば弁護士も逮捕され、「秘密」を漏らせば裁判官も処罰される―異様な刑事裁判

あきらめず声をあげよう

老いも若きも安心して暮らせる世の中を 最低年金月七万円 戦争する国つくりダメダメ 投票に行かなければ何も変わらない