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聖血祭の由来とお話







2013年のブルージュの聖血祭は昨日(キリスト昇天の日)催されたようだ。
お天気は...

写真は2年前2011年のものだが、こんなお天気に恵まれる方が珍しい。5月のお天気は毎年荒れ気味なのだ。


...


今まで何度も聖血祭に関する記事は書いているが、どれもこれもただの断片的な感想にしかすぎないので、今年2013年はお祭りの由来について少々まとめておきたいと思う。自分のために。


13世紀からの伝統を誇るブルージュの歴史再現パレード。
キリスト昇天祭(復活祭の終わりの意味合いがある)に開催される。
ユネスコ無形文化財。
祭りのセンターピースは聖遺物「キリストの血」。


イエス磔刑後、ピラトに願ってイエスの遺体を引き取り埋葬の世話をしたアリマタヤのヨセフが、イエスの血を保管したにちがいないというロマンスが元になっている。イエスが流した「血」のイメージは聖杯伝説とも結びついている重要なシンボルだ。
福音書にはヨセフがイエスの遺体を引き取ったことは記されているが、血を保管したかについては一言も書かれていない。ただし、外典福音書にはそういう記述も見られるらしい。


時は流れ12世紀。
フランダース伯アルザスのディエドリク(デートリッヒ/ティエリ)が第2次十字軍従軍し、エルサレムで「キリストの血を受けた布とそれを保管する容器」、すなわち聖血(聖遺物)を入手。1150年4月7日にブルージュへ帰還。フランダース伯居城横に自らが建設したチャペル(1134年)にこれを納めた....(「8世紀にはキリスト教でもっとも重要な祭儀である「聖体拝領」を執り行う主祭壇の下には、聖人の遺体か、少なくともその一部が埋葬されていなくてはならないと定められた。このため聖堂を建てるときには聖遺物の入手が不可欠となった」ウィキペディアより)
伝説によっては、ディエドリクに聖血を授けたのはエルサレム王ボードワン3世ということになっている。

しかしながら最近の研究では、1250年より前には聖血がブルージュに存在したという記録は見つからないことがはっきりしている。このことから、1204年にコンスタンティノープルが第4次十字軍とヴェネティア軍によって攻撃された際に従軍したフランダース伯ボードワン4世によって、コンスタンティノープルからもたらされたのではないか、と考えられている。

聖血は、11世紀から12世紀頃コンスタンティノープル周辺で作られたクリスタルの香料入れに納められ、金糸と赤い鑞で封印されており、ブルージュ到着以来一度も開封されていない。またこのクリスタルの容器はさらにガラス製の保存容器に入れられており、そこには1388年5月3日 との刻印がある。


さらに時は流れ13世紀初頭。
豊かなフランダース地方に目を付けたフランス王フィリップ4世に対抗するため、フランドル伯ギー・ド・ダンピエールはイングランド王エドワード1世と結ぶ。しかし抵抗叶わず、フィリップ4世はフランダース地方を併合し、その支配は過酷を極めた。
1302年5月18日、ブルージュで市民の反乱が起こり、フランス人が虐殺される事件発生。復讐のため迫って来るフランス軍に抗してフランダース諸都市は同盟を結び、7月11日、ベルギー南部コルトレイクの黄金の拍車の戦いにおいて市民歩兵中心のフランダース都市連合軍が重装騎兵のフランス軍を破る。
この戦いは市民軍が重装騎兵を破った初めての戦いとして今日まで記憶されている。この戦いを率いたとされるのがマルクト広場の中心に立つ二人の銅像、ヤン・ブレイデルとピーター・デ・コーニンクである。


祝祭の成り立ち
聖血の祝祭としては13世紀後半頃から市民の間ですでに祝われており、1303年にはヤン・ブレイデルとピーター・デ・コーニンクによって奪回された市(奪回されたのが1302年5月18日昇天祭だったため)を記念して祭りが組織されるようになった。


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聖遺物は支配者の権力の正当性とその強化のためのもの、記念碑や祝祭は「民族アイデンティティ」のための文化装置か...


...ここまで書いてホブズボームの「創られた伝統」が読みたくなった。
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