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「外国語で話すと性格が変わる」




昨日の記事、「nice to meet you」は、今日のこの記事が書きたいがための伏線(それほどのものでもないか)だったと言っても過言ではない。.

「外国語で話すと性格が変わる」とはどういう現象なのか。

週末、英語を話せるようになったベルギー人のお嬢さんの話を聞いている時、自分の考えや好きなものについて滔々と話す彼女はオランダ語でも全く同じように強く自己主張するのかな...と思ったのだ。

人は使用する言語によって「性格」が微妙に変わるらしい。
例えばバイリンガルAさんは、日本語では婉曲的な表現をする一方で、英語では比較的はっきり意見を述べる。日本語で話すときは日本人らしいジェスチャーをし、英語で話すとアメリカのTV俳優のようなジェスチャーが出る、等々。


それで興味深い本を思い出した。われわれが「外国語を使うことによって考え方、感じ方までも異なる様相を呈する」(林知己夫、『日本らしさの構造』、東洋経済、1996年、182頁)のを踏まえ、「国民性とは何か」、それを「文化受容、国際理解、国際化」に活用できるかを、物語の語り口や翻訳の仕方などを通して研究した本だ。

長いが段ボールの中から引っ張り出してきたので一部引用。

「使う言語によって考え方・感じ方まで変わ」り、またそれに濃淡があるのはこのように説明されている。
「第一に、言語の特性が考えられる。
日本語は中間的な態度を表現するのにふさわしい言葉であり、日本人に日本語で質問するとピッタリした気持ちで、中間的回答に反応する。アラビア語には中間的な態度を表現するのにふさわしい言葉がなく、はっきりした態度を表現するのに適している。したがって、アラブ人にアラビア語でたずねると断定的な回答が多くなる。しかし、英語でたずねると日本語の場合ほどではないが、中間的回答にふさわしい表現があるのでそれに反応する。言語の違い(言語の特性)による---もちろん言葉は、国民性の形成と表裏一体であるが---ところが多い。
第二に、国民性の特性が考えられる。
日本人の場合は、質問する言語によって段階づけのある質問、中間回答というものについては態度が多いに異なってくる。一方アラブ人は、質問の言語によって態度を変えることが日本人ほど多くないということである。言語の特性として説明した相応しい言語表現の問題もかかわってくるが、「場」によって態度を変えるか、買えないかにも関係が深い。日本人は英語で考えたり、話をしたりりしていると、日本人的感覚が変わってしまうが、アラブ人は話す言葉によってはあまり影響されず、アメリカ人はその中間、ということが考えられる」(178頁)

この調査結果は国際交流や翻訳等を含めた文化受容に役立つのではないかとまとめてあり、なるほどと思った。


わたしが興味があるのはその先だ。

使用する言語によって多かれ少なかれ性格が変わるという事実は、「私は自由意思に基づいて自由に思考し言語を操っている」というわれわれの思い込みを完全に否定しはしないか。そして「実は使用する言語の方が、私の思考を強く限定している」ことを証明しないだろうか。

われわれはあまりにも「自分の思考や思いを言語に託して表現する」という言い方に慣れすぎているため(あるいはそう思いたいがため)、なかなか気がつかないが、実はそれほど自由なわけではない。われわれは言語化以前には自分の思いが何であるのかすら知ることができないのだ。
言語を運用する限りすでに既存の価値体系の中に組み込まれており、「自由な発想」でさえも、それほど自由なわけではないという人間の宿命。

だからこそ読書をして語彙を増やし、外国語を学んで新しい語彙を自分の世界に加えることが大切なのか、と思う。




ロイターにはこんな記事Switching languages can also switch personality: studyがある。
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