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Brugge Style
トンネルを抜けるとそこは雪国だった
恒例の友達2人との旅行、今回は、白い夜の底(『雪国』より)を見たいと冬の白川郷へ...
12月の白川郷に雪はなかった。
美しいことに変わりはなかったが。
夜は温泉旅館へ。
布団で寝たのは何十年ぶりだろうか。
浴衣を着て食事に行き、卓球はしなかったものの(したかったなあ)、テレビを見てゲラゲラ笑いながら寝落ち...
白川郷で手作りの五平餅を焼く女性が、五平餅はもともと白川郷のものではない、と教えてくれた。
栃餅が白川郷のものだそう。
それでも彼女の話を聞きながら食べる自家製味噌をぬった五平餅はおいしかった...
今でも栃や胡桃は山に入って取ってくるそうだ。
白川郷は世界遺産に指定されて以来、「食べていけるようになった、若者が村を出なくてもよくなったのが一番大きい」と、展望台へ連れて行ってくれた運転手さんがおっしゃっていたのだったが、五平餅の女性は、昔と一番違うこととして、「昔は貧してね、食べ物を外に残しておくなどありえなかったから熊は里まで降りてこなかった」と。
漆を塗ったように美しく実る柿を差しながら話してくれた。
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悟りの窓・迷いの窓
アマン京都から坂道を歩いて10分、悟りの丸窓、迷いの角窓が有名な曹洞宗・源光庵を参拝した。
曹洞宗は、道元禅師を宗祖として、鎌倉時代に開かれた禅の宗派である。
「悟りの窓の円型は「禅と円通」の⼼を表し、円は⼤宇宙を表現しています。
迷いの窓の⾓型は「⼈間の⽣涯」を象徴し、⽣⽼病死の四苦⼋苦を表しています。」(HPより)
悟った心においては、善悪の区別はなくなるのだろう。
こちらには血天井もある。
写真は載せない。
伏見城の戦いで、徳川家康の家臣・鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田方に攻められて建物の大半を焼失し、落城した。
鳥居元忠並びに家臣らが自刃した建物の血痕の残る床板が、供養のために京都などの寺の天井に貼られたという。
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アマン京都 ケリー・ヒルの哲学の庭
去年の夏、インドネシアのAmankilaアマンキラで、赴任したばかりの日本人GM、S氏から、アマン京都と建築家ケリー・ヒルの話を親しく聴かせてもらった。
S氏は、アマン京都オープンのために、某有名ホテルから引き抜かれたホテルマンだ。この名GMにとっても、アマン京都はロマン誘う土地のようだった。
2018年に75歳でこの世を去ったケリー・ヒルは、この庭で日がな一日思索をする哲学者のようであったそうだ。
京都の洛北、金閣寺の向こうにある鷹峯。
約32万平方メートルという広大な敷地(日比谷公園の2倍だそう)にたった26室の客室が建つ。
鷹峯そのものが庭なのである。
手のつけられていない茫々の自然ではなく、江戸初期には琳派の本阿弥光悦が居を構えた芸術家の里でもある。
これらの「岩」をコレクションしたのはこの土地のもともとの持ち主。
岩のコレクション...ハイブラウなご趣味である。
そういえば、この度の初めに訪問した小田原の江の浦測候所も杉本博司氏の岩・石コレクションがたくさん展示されていた。
雅人の趣味の骨頂か。
かつての所有者(ここを譲ってもらうために、アマン関係者は三顧の礼をつくしたそう)が年月をかけて作り上げた岩の宇宙...
丹波、岐阜、奈良などから取り寄せた岩が、一種の枯山水のような宇宙を構成している。枯山水よりはよっぽど野生味があるが。
客室やレストランなどは、ちょうど一年前に滞在した伊勢のアマネムAmanemuを思い出すようなスタイル。
この美しい鷹峯を借景する、悟りの丸窓を求めて源光庵にも参拝した。
それはまた次回に。
12月中旬の京都だったのにコートが必要ではなかったのが驚き...
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横浜から船に乗って神戸に着いた
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馬車道あたりで待っていて
わたしは神戸の出身だ。
外国に住むようになってもう四半世紀以上が経過するが、神戸に対する「イメージ」には異常なほどの愛着を持っている。
わたしが子供の頃の神戸には、外の世界とつながったハイカラな文化が残っていたが、21世紀の今となっては、そのイメージとしての神戸はどこにもほとんどどこにも存在しない。
いや、もしかしたら、わたしが子供の頃にもそんなものはなかったのかもしれない。
どこにも存在しないからこそ、それを求めてふらふらとさまよい続けるのかもしれない。
具体的にどんなイメージかというと、1853年、ペリーが来航。江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結。日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、神戸、横浜、長崎、新潟、函館を開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。
江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結する。
そのころ、遠くから来た外国人が自国を懐かしみながら持ち込み、日本の生活様式を混ぜたような、単に並列しているような生活様式。
坂の上の、奇妙に洒落た家に灯りが灯っているのを、「ここではない、どこか」として、眺めているような気持ち...
横浜には住んだこともないのに、ここに来るとひどく懐かしい気持ちになる。
今回のZimermanのリサイタルのプログラムには、ドビュッシー(1862年 - 1918年)の『版画』が含まれており、この名曲が横浜のイメージにぴったり重なったのは、ドビュッシーの時代が、外国人居留地の歴史にぴったり重なるからだろう。
ロマン主義の真髄は「ここではない、どこか」だからであるからして。
世の中の雰囲気と音楽は切り離せないのである。
あとはやはり名曲『恋人も濡れる街角』ですな。
夜中、鼻歌混じりに歩いた。
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