中さん

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
kumagaya001nakanaka002

日記(5.30)

2021-05-29 21:23:54 | 日常
5月30日(日曜日)晴れ
29日熊谷市では数か所で花火が上がる。7時半ごろから5分間だけ。
少し見えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
毎日新聞(余禄に)・・
 三内丸山遺跡など北海道と北東北の縄文遺跡群が
 ユネスコの世界文化遺産登録にふさわしいと勧告を受けた。
 7月にも正式登録が決まる
・・とあった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★私たちの時代は授業で縄文時代は稲作文化の前の狩猟時代と教わり
 弥生時代なって稲作の跡が発見されたと・・殆どうる覚えでここまで来てしまったが
 もっと学習しておくべきだったか!
 縄文のイメージが大きく変わりそうだ。
==================================
コンクリートと共に人工物の代表のようなアスファルトだが、
石油の産地では天然アスファルトが産出される。
古代メソポタミアでは6000年前から利用されていた。
旧約聖書は、バベルの塔もレンガをアスファルトで固めて積み上げたと記す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲接着剤に使え、防水性もある。日本でも秋田や新潟などで縄文時代から産出され、使われてきた。
 縄文文化を代表する三内丸山(さんないまるやま)遺跡(青森県)でも
 秋田産アスファルトが付着した石の矢じりが発見されている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲稲作を伴う弥生時代より遅れた文化という縄文のイメージを変えたのが、
 同遺跡での大きな木柱の発見だった。
 弥生期最大といわれる吉野ケ里(よしのがり)遺跡(佐賀県)の楼閣を上回る高さの
 建造物の跡とされ、大規模な定住集落の存在が明らかになった。
~~~~~~~~~~~~~~~
▲三内丸山遺跡など北海道と北東北の縄文遺跡群が
 ユネスコの世界文化遺産登録にふさわしいと勧告を受けた。
 7月にも正式登録が決まる。
 農耕以前の狩猟採集社会にもかかわらず、広葉樹林の豊かな自然環境で、
 1万年にわたり成熟した社会を維持したと評価された。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲交流も広範囲に及んでいた。北海道で秋田産アスファルト、
 青森で北海道産黒曜石が見つかっている。
 丸木舟を使い、海の交易が活発に行われていたとみられている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲大規模なストーンサークルである大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)(秋田県)や、
 亀ケ岡(かめがおか)遺跡(青森県)の遮光器(しゃこうき)土偶からは
 豊かな精神文化を想像できる。世界遺産登録を機に、
 縄文の実像がさらに明らかになることに期待したい。
============================
★最近、この界隈は区画整理事業で、あっちこっちで遺跡調査が行われている。
 3年前になるが、矢じりらしきものが得でて、
 説明が遺跡担当の方から現地であった。
 ここは弥生時代の川や氾濫があった跡などの説明を受けたが。
 よくわからなかった?
私たちの先祖はどうやら弥生時代から、この場所に定住していたのかもと
何千年も前をさかのぼってみたが想像は途切れて・・そんなことはどうでもいいか!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(5.29)

2021-05-29 10:44:10 | 日常
5月29日(土曜日)晴れ
カラッとした天気になった。
きゅうりの初なりが何本か獲れたのでを
生で食す。ぱりぱりとしてやわらかくて美味しい。

この時期のきゅうりは格別うまい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今朝は畑の畔部分に生えてきた小さい草の芽を除草する。
ラウンドアップという除草剤を使う。
値も良いが意外と他の部分に優しいという感じだ。
除草は年に3回程度行う。特に耕作している周囲を・・行う。
それ以外は手で抜くやら土起こしの時に行っている。
今年はマルチがけを殆ど行ったので少しは楽かも!
例年、草に負けそうになるが今年は草を出さないようにしよう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨日の朝、立ち寄った星渓園は熊谷に住みながら
その歴史をあまり詳しく知らない。

子供のころは良く遊びに行ったりしたところ。
スケッチクラブ時代にもこの場所を描いた。
それ以外にも、何かと立ち寄っている割には無知である。
改めて歴史の背景を・・
~~~~~~~~~~~~~
星溪園は回遊式庭園で、
熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如翁によって
慶応年間から明治初年にかけてつくられました。
~~~~~~~~~~~~~~
 竹井澹如は、天保10年(1839)群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川家に生まれ、
 幼名を萬平と言い幽谷と号しました。明治12年(1879)初代の県議会議長となり、
 政府の要職をすすめられたが、始終一貫、熊谷地方のために貢献しました。
~~~~~~~~~~~~~~~
 熊谷県庁の誘致・旧熊谷堤の修築と桜の植樹・養蚕業の振興・
 私立中学校(セキテイ学社)の創設などの偉業を残し、
 大正元年(1912)8月74歳で永眠されました。
~~~~~~~~~
元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、
その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。

澹如翁が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園としました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師が、「星溪園」と命名しました。
 昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定されました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 平成2年から4年にかけて園内の整備が行われた際には、
 老朽化の見られた建物は数奇屋感覚が取り入れた上で復元されました。
 園内には、星溪寮、松風庵、積翠閣の3つの建物があり、
 お茶会などの日本的文化教養の場として、利用できます。
=================================
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする