マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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続、高原法悦祭(ちゃんごかご御井戸編)

2006年09月09日 07時29分28秒 | 川上村へ
<氏神神社>小泉栄治氏記聞より抜粋

氏神とは或る氏族がその祖先を神と名付けたもの。

また、一定の地縁的血縁的集団が信仰する神の事であるが、この神社は天御中主天之常立命の神を祀り、ご神体は惟喬親王とも按しられておるが、極秘に伏せられ口外を許さない。

高原村の掟は今日尚厳守されていて(神主と誰も)さだかでない。

本殿は美術的彩色彫刻が施され正面二柱の三面には菊桐花の御紋章が彫され本殿礎は全部 圓形のシツクで覆われ其の底辺中央より後方30余米に及ぶ貫通する羨道が認められ古基宮ではないかとも思推される(専門家の所見を要するが)。

旦社内に川上村立自天神社(伊勢台風のため神社は崩壊)神霊を祀り、村より祭祀料を下されている。境内には廻り三丈余の杉鬱蒼と繁っている。

(H18.8.15 Kiss Digtal N撮影)


続、高原法悦祭(ちゃんごかご御井戸編)

2006年09月09日 07時26分02秒 | 川上村へ
<井口八幡神社>小泉栄治氏記聞より抜粋

長禄元年12月2日夜、赤松の残党丹生屋刀左衛門、同弟四郎左衛門等、北山御所を襲い一之宮尊秀王を害し奉りし時、宮之付人井口太郎左衛門は弟次郎左衛門、加藤久造等と共に多くの賊を斃おした。

この井口太郎左衛門は高原村の人にして世々名族南朝の忠臣なり。邸宅は高原下河原にありき、墓は小字徳井廻り(今の下出垣内)が丘地に有り、小祠を造り、井口八幡として年々3月17日祭り、朝拝式挙行の際は参拝して忠霊を慰め奉る。

(H18.8.15 Kiss Digtal N撮影)

続、高原法悦祭(ちゃんごかご御井戸編)

2006年09月09日 07時24分35秒 | 川上村へ
<御井戸>小泉栄治氏記聞より抜粋

惟喬(これたか)親王御飲用のため里人開削し、その後、人皇19代光格天皇寛政2年卯月修理したのか積石に刻あり、現今は朝拝式、法悦祭、蔵王講式等の際、垢離用として使用されている。

惟喬親王岡室御所建造迄の仮住居をなされていた場所で御井戸の前の平地である。

(H18.8.15 Kiss Digtal N撮影)

高原法悦祭(ちゃんごかご御井戸編)

2006年09月09日 07時22分36秒 | 川上村へ
文徳天皇の第一皇子として生誕した惟喬(これたか)親王。

皇位継承に敗れた親王が隠遁生活を送ったとされる川上村高原。

平和と国家安泰を願って始められたと伝承される氏神神社の法悦祭は1300年も続いているといわれています。

「ちゃんごかご」(鎮護加護)ともよばれている法悦祭は、7日の夕刻に大目付ら役員の方々10名ほどが御供所に集まり始まります。

隣接した元安楽寺の薬師堂に移って、1時間ほど太鼓と鉦鼓と呼ばれる鉦を叩き続けます。

「カン、カン、カン」の鉦叩きと同時に太鼓を「ドン、ドン、ドン」と打ち鳴らします。

しばらく続けられるとバチを持った数人が太鼓の回りに集まり回り打ちに移ります。

「ドンドコドンドンドン」のリズムに続いて「ホォー、エッサィッ」の掛け声を合わせます。

昔は7日から13日まで毎夜続けられていましたが、現在は14日だけに簡略化されています。

法悦祭の本祭は15日。

夕刻、水桶を持った行列が氏神神社を出発して数キロ離れた御井戸に向かい、ご神水を汲んできます。

ご神水を汲んだ一行は井口八幡神社に参拝し同神社に戻ります。

到着すると鳥居や本殿に薬師堂にご神水を柄杓で撒き清められます。

(H18.8.15 Kiss Digtal N撮影)