マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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中山八幡神社結縁の千石万石

2010年03月21日 07時33分56秒 | 奈良市へ
式使は席に白紙を置き、華かずら(※1)と松苗を配っていく。

昆布、海苔、蜜柑、生鰯、切餅を配り終えたら洗い米を湯飲み茶碗で掬って白紙にのせる。



そのとき、「せんごく、まんごく、じゅうまんごく」と声をかけてのせる。

それに合わせておとな衆が声を合わして唱和する。

それは三回繰り返される。

神主、おとな衆、式使、当家席に繰り返される「せんごく、まんごく、じゅうまんごく」の唱和。



これで千石、万石、十万石と増えていった稲穀高、おん田の儀に続く豊作を祈る予祝の儀式であろう。

※1 押熊町の八幡神社では苗かずらと呼ばれている。

(H22. 2.11 EOS40D撮影)

中山八幡神社結縁の弓引き

2010年03月20日 07時26分06秒 | 奈良市へ
御供を直会殿に下げて弓引きの儀式に移る。

神主は上座正面、周囲はおとな衆の一老、二老と決まった席順に着座し、下座は当家が座る。

正面に飾り付けられた弓、矢、竹串を当家席に運ぶ手伝い役の式使(しきじ)。

それぞれは置く位置が決まっている。

向きが違うとおとな衆から指摘される式使。

始めての体験におろおろする。

誰しもそうじゃったと先輩のおとな衆は話される。

座が整えば神主は当家の前に進み出て末広(扇子)を贈る。

そのとき、おとな衆は声を揃えて「せんごく、まんごく、じゅうまんごく」と唱和する。

そして始まった弓引き。

当家は先に受けた末広を首筋に立てる。

弓を持ち、矢を弦に掛けた。

大きく弓を引いた当家は的を目がけて手を離した。

矢は放たれて直会殿の空中を飛んでいった。

もう一人の当家も同じように矢を射っておとな衆から喝采をあびた。

最後に矢を手に持ち的をぶすりと刺す。

とどめをさす所作であろう。



結縁の儀式の一つを終えたら黒豆、ゴボウ、ごまめを煮た三種の膳が配膳される。

式使は神主から順にお神酒を注ぎ回る。

三種を肴にお酒や豆腐汁をいただいたあとは千石万石の儀に移る。

(H22. 2.11 EOS40D撮影)

中山八幡神社結縁のおん田

2010年03月19日 08時18分43秒 | 奈良市へ
おん田の儀、弓引きの儀、千石万石の儀や直会におけるお手前の儀式など盛りだくさんの行事が行われている中山町の八幡神社。

この一連の行事は結縁(ケチエン)と呼ばれている。

神主が作った松苗(白紙で包んだ白米を括り付け)と当家が事前に作った弓、矢、束ねた竹串、大きな二重円を描いた的、藁を束ねた華かずらなどを本殿に供えて始まった儀式。

まずは2軒の当家の子息ら一同が揃ってお祓いの儀式。



玉串奉奠、神前参拝などの神事は結縁式を祈念する。

そのあとおとな衆は拝殿に着座し、太鼓や拍子木を打って般若心経5巻を奉納する。

拝殿に橋を架け、中央に田んぼに見立てた筵を敷く。

そしておん田式が始まった。

田主役となった神主は鍬や鋤を持って登場する。

初めに苗代に水を入れていく所作をする。

これは水しかけとも呼ばれている。

次に牛とカラスキを用いて苗代の畦土を練る所作をする。



これを畦こねと呼ぶ。

さらにおん田の所作が続いて今度は鍬で畦を塗り上げる。

大切な水が抜けないように、畦とする筵の廻りを丹念に塗っていく。

苗代ができたらいよいよ種蒔きだ。

種籾に見立てた洗い米をひとつかみしては籾を撒く。



そのとき、おとな衆一同は声をそろえて「マーコヨ、マコヨ、フクノタネ、マコヨー」と唱和する。

種蒔きは数回繰り返されて苗代に種が撒かれた。

村の豊作を願っておん田の儀式を終えた。

神主はアドリブの台詞。

囃したてて神主と掛け合いをするおとな衆もアドリブであろう。

おもしろおかしく台詞が飛び交うおん田の儀式。

牛耕は見られなくなったものの実際の田植えの様子を再現している。

(H22. 2.11 EOS40D撮影)

我が家のシイタケ

2010年03月18日 08時22分59秒 | 我が家の花
毎日のことだ。

雨戸を開けて箱庭を見る。

春になれば新芽の出具合を見たくて、じっとしていることもある。

2月入ったばかりのある日のことだ。

クヌギの木に何かがポツンと膨らんでいる。

どうやらシイタケの芽生えのようだが数日間の動きに変調はない。

その後も大きな変化もなく一日一日が過ぎていった。

毎日の変化の度合いは確かめていない。

しかしだ。

どうも今朝の状況が違う。

明らかに大きくなっているのだ。

シイタケの芽はあちらこちらにある。

もう一本のクヌギにもある。

雨の日が多かった2月。

天候が左右したのか天からの恵みは、後日に夕食の友になった。

それにしてもシイタケの一部が凹んでいる原因がようやく判った。

ナメクジが食べているのだ。

その後も続々とシイタケが育っていくのだがナメクジが食べつくしてしまって家の食事の前に消えてしまった。

(H22. 2. 8 SB912SH撮影)

柳生立野寺立春のオコナイ

2010年03月17日 07時46分12秒 | 奈良市(東部)へ
五穀豊穣を祈願するオコナイが行われている柳生町の立野(たつの)寺。

節分の翌日になる立春の日に行われていることから立春のオコナイとも呼ばれている。

本来は4日であったが、数年前から集まりやすい4日に近い日曜になった。

世話方の寺年預(ねんにょ)や寺総代は朝早くから準備に取りかかる。

前日までに山で採ってきたハゼノキの枝。

ハゼノキはウルシと似ていて、かぶれるのだというからハゼウルシとも呼ばれているようだが、それとも元来日本種で山野に植生するヤマハゼであろうか。

晩春から初夏にかけて白黄色い花を咲かせたあと、秋には赤い実がなるハゼウルシ。

そのころのハゼウルシは深紅の紅葉が美しい。

果実は和蝋燭の原料である木蝋(もくろう)に使われている。

ヤマハゼの花は黄色っぽい色だ。

採取された年預の話では、ハゼノキはシバにも輪木にもならない木で、秋にははぜてよく実ることから豊作のを祈願する木だといい、花が黄色いから見つけやすいと話していたことを考えればヤマハゼだと思われる。

長い短いはあるが枝先は三つ又。

下部の皮を削って、中央に護符のごーさんの書を挟む。

ごーさんは「牛玉」の版木を刷って作る。

その版木は山添村北野の帝釈寺の文字がある。

裏には「元禄五年五月十三日」、「極楽寺」や「教職是」の墨書がうっすらと残っている。

同寺は極楽院帝釈寺が現名で、元禄時代名が極楽寺、宝暦以降に極楽院となった。

元禄五年といえば赤穂浪士の討ち入り(1702年)の三年後になる。

300年以上も前から使われていた証しである。

立野寺では版木はなく、帝釈寺を兼務されている住職の好意で版木の一部である「牛玉」の刻印を利用されている。

それも「牛玉」の刻印だけである。

また、享保六年(1722)の「奉転読大般若経息災延命祈」と彫られた大般若経の版木もある。

オコナイは大寺で行われている修正会の民間行事。

学問所であった都祁針の観音寺から周辺の村々に広がったと住職は話され、なかでも乱声(らんじょう)と呼ばれるお経の途中で木の棒で激しく打ち叩く作法が見られるという。

立野寺ではハゼノキで力強く三回も板を叩かれる。

オコナイにやってきた村の人や自治会役員。

手にはワラ紐でぶら下げた五段モチを手にしている。

それは花餅(ハナモチ)と呼ばれるモチで寄進芳名帳に名前を記帳して登壇する。



ハゼノキのごーさんとハナモチを供え、灯明に火が点けられた。

住職の読経が静寂の本堂を響かせる。



神名帳(じんみょうちょう)、花餅を奉賛された方々の名を詠み上げる。

数十分間が経過したときに「らんじょう」と発せられた。

参列者はハゼノキの棒を持って板を激しく叩く。



太鼓も打ち鳴らし、十数回叩く作法のあとは静寂の間が再びおとずれる。

数分間のあと再び「らんじょう」の合図。

それは三回繰り返された。

「らんじょう」は雷声(らいじょう)だという住職。

雷と慈雨で今年の豊作を祈るのである。

JAで苗を買うようになってからは苗代や畑に立てるオコナイの護符は見られなくなったという。

昔はこれを一軒一軒巡り配っていたが、現在は寺に置いておき人々が取りにくるようにしている。

(H22. 2. 7 EOS40D撮影)

野遊び⑧in奈良公園

2010年03月16日 07時59分52秒 | 自然観察会
今年度の最後を飾る野遊びサポーターの自然観察会。

今回は奈良公園内を探索する。

今年は下見も含めてほとんど参加できなかった。

申しわけなく思っている。

案の定、集合場所の大仏殿前交差点広場にたどり着いたらみなさんから「久しぶりですね」と声をかけられた。

どれだけ参加できなかったのか、この一言がすべてを現している。

出版やら連載記事やらとにかく忙しい。

民俗行事の取材もしなくてはならないしゆったりできる日、時間がない。

そんなことを知ってか知らずか奈良公園の鹿が寄ってきた。



「せんせいよ なにしてるんだ うちょうてんになって てんぐになってはいかんぞ」と『鹿男あおによし』のシカの声が聞こえたような気がした。

それはともかく今回の参加家族は6組で14人。

スタッフは14人だ。

集合前から野鳥を堪能していたエルモさん夫妻はアトリや池のカワセミを見ていたそうだ。



私はイカルの声を聞き、芝生で啄んでいるツグミを見てやって来た。

木枯れの時期、冬の野鳥観察は探すのは葉っぱが生い茂る時期よりも見つけやすいと、うめさんの朝礼挨拶で始まった。

ハクセキレイ、ニュウナイスズメの声がする。



かつて春日野園地の広場は春日野グランドだった。

北側には県営プールがあったというN会長。

中学生のときに県大会にやってきたそうだ。

今は面影がまったく残っていないので想像がつかない。

東屋がある池にカワセミが枝に留まっている。

そんなに遠くない。

あとで判ったことだが県新公会堂までの川筋が生活範囲だった。

空を見よ。

高い木の中に入った。

それはタカと思いきやドバトだった。

シジュウカラ、カワラヒワ、ヒヨドリが賑やかましく囀っている。

南大門にはバンドリが居るという。

夜、一回ぐらいは飛ぶ姿を見たとうめさんはいう。

ならばと地面に目を落とす。

見事なエビフライがあった。

これはバンドリが食べたマツボックリの跡。

これさえ見つかれば間違いなし。

奈良公園内を探すとよく見つかる。

それがバンドリの存在証明なのさ。

鏡池にはカルガモとカイツブリが泳いでいる。

キセキレイが飛んだ。

セグロセキレイも見たという。

これでセキレイ三種が揃った。

林の中ではシロハラは見つけにくいが、逆光の中に枝に留まっているシロハラが見つかった。

樹木の痕跡も大切な観察対象。



シカのツノアトがはっきりと残っている。

角が生え替わる秋にゴシゴシしているんだ。

コゲラ、シメ、メジロなど盛りだくさん。

これはフーランだよとO先生に言われて見上げた樹木。



花が咲く初夏のころにもう一度来てみたい。

ラストには再びカワセミが顔を見せてくれた。



奈良公園を観察するのもいい勉強になります。

(H22. 2. 7 Kiss Digtal N撮影)

長滝町の風習や行事

2010年03月15日 09時21分33秒 | 天理市へ
カンジョウナワ掛けへ行くまでの道中、なにかしら不思議な一本の竹が目に入った。

先にローソク、その下は輪切り大根の跡。

中央から下はグルグル巻いた白地の文様。

葬儀がある家までの辻々に挿してある。

名前は聞いても判らないという。

数年前に拝見した桜井市の脇本とほぼ同じものである。

節分のヒイラギも見かけた。

鰯の頭を挿したヒイラギだ。

都会では少なくなった風習だ。

お寺に節分の豆が置かれている。



これも風習のひとつである。

秋祭りは体育の日。

その前夜は大当家と小当家の家から松明に火を点けて九頭神社にやってくる。

当日は朝から餅搗き、当家に注連縄を張って提灯台と幟を設える。

20時ころから始まって終えるのは翌日を迎える時間になるそうだ。

宵宮の行事は長丁場である。

その前日は「座分け」が行われる。

長滝の長男が集まる家を決める籤を引く。

器に籤を入れて穴の開いた半紙を被せる。

それを行司が箸で摘むそうだ。

決まる家は大当家か小当家のいずれか。

「座分け」どちらの家で接待をするかを決める籤引きである。

子供の涅槃が地蔵寺で行われている。

掛け図を掲げてその前で子供が集まる。

昼食メニューは子どもが大好きなカレーライスだ。

三月初めか第二日曜の14時に行われるらしい。

(H22. 2. 5 EOS40D撮影)

長滝町カンジョウナワ掛け

2010年03月14日 07時21分06秒 | 天理市へ
正月ドーヤの最後はカンジョウナワ掛け。

村の入り口の道切りに縄を張る。

昨年に掛けた縄を外して新しく掛け直す。

ナワ掛け行司が行う。

ナワ掛けを終えたら村へ戻るが、その際は振り返ってはならないというしきたりがある。

正月ドーヤの「ドーヤ」は「祷家」とも書いたそうだ。

村の安全、五穀豊穣を祷る行事であろう。

かつて4日、5日と続く行事だった。

それがいつしか一日に統合されたのであろう。

(H22. 2. 5 EOS40D撮影)

長滝町オコナイの鬼打ち

2010年03月13日 08時17分23秒 | 天理市へ
神事を終えると社務所でパック詰め料理の膳を囲んで直会を始める。

お神酒を注ぎ回るのは行司役。

酒の燗が間に合わないくらい忙しく動き回る。

そろそろマトウチに行こうかと二老が声をかけて、地蔵寺に移った。

灯明を翳して二老が仏前に座った。

傍らに竹弓と矢、ワラ苗、カンジョウナワを供え、般若心経が唱えられた。

かつては神名帳も詠み上げていたというからおそらくオコナイの行事であったのだろう。



本堂にお経が静かに染みていく。

それが終わると一行は的場と呼ぶ山裾に向かう。

そこは山の神とも呼ばれているがご神体は見られない。

山そのものが山の神であろう。

筵を広げた的を取り付ける。

弓打ち者が座る筵を敷いてマトウチが始まった。

代役の二老は神妙に祝詞を奏上した。



サクラの弓を手にした二老は天、地、東、西、南、北に向けて矢を打った。

最後は筵をめがけて矢を放った。

再び地蔵寺に戻って今度は鬼的めがけて射るマトウチが始まった。

鬼的は回廊に吊される。

本堂の柱にはワラ苗が括り付けられた。



二老が弓を持って歩み出た。

酒を口に含んで回廊に括り付けたワラ苗にはき出す。

清めの酒だ。

二老は一旦後ろに下がり一歩前にでた。

左足からだして三歩前にでる。

そして一歩戻る。



これが作法だといって矢を射った。

これを3本繰り返す。

鬼的に命中したら拍手喝采。

次は本当家の二人。

次は受け当家の二人。

行司も矢を打って、最後は弓の角で鬼的をバラバラに壊す。



鬼のとどめをさすといい、退治したので村も安全が確保された、五穀は豊年を迎えることであろう。

(H22. 2. 5 EOS40D撮影)

長滝町正月ドーヤ

2010年03月12日 07時33分39秒 | 天理市へ
毎年5日に「正月ドーヤ」が営まれている天理市長滝町。

九頭神社のケイチン、地蔵寺のオコナイにカンジョウナワ掛けが纏めて一日で行われる。

朝の空気が冷んやりするなか、神社に集まってきた宮本衆、当家に世話方の行司だ。

元来は5人の宮本衆だった(※ 元治九年(1873)「當家帳」によれば宮本五人と墨書されている)が現在は十人衆で構成され、亡くなるまで続けられる。

宮本株を買って座入りができるのは長男と決まっており、誕生したときから入れる。

次男、三男は座入りができないが、婿養子は加入できる。

ただし、村入りして籍を入れたときが誕生となる計算なので年齢が大きく逆転する場合もある。

誕生日の順になるので、長男が生まれてその子が座入りすれば僅差になるそうだ。

昭和44年10月12日調の『座中蓮名簿』にはその順に記載された座衆の名前が並ぶ。

亡くなれば抹消される。

座入りの儀式は鯛の焼き物がつきものだった。

平成に入ったころに改正されたが、当時は板前さんに来てもらって祝いごとをしていたという。

行司は二人で家廻りの順と決まっているが、服忌のときは一軒飛ばす。

今年の当家は本当家と受け当家がある。

今年の行事の見習い役になる受け当家は翌年に本当家となる。

27軒の長滝町、これらの三役は重なる場合が多分にある。

現に当家の一人は十人衆で、行司の一人は受け当家だった。

本当家のご婦人も手伝いをしている。

「正月ドーヤ」に使われる弓、矢、鬼的、牛玉宝印書などは行司、当家、十人衆が分担して作られる。



ごーさんと呼ばれる牛玉宝印書は二種類で、九頭神社と地蔵寺があるが朱印される宝印はひとつである。



三つに割いたネコヤナギの茎枝に挟む。

弓はサクラの木と竹が使われる。

サクラは一老が射る弓で竹は十人衆や当家が射るものと分かれている。

いずれも弦は麻苧が使われる。

ヤダケと呼ばれる竹で作った矢には矢羽根に「家内安全」と墨書される。

鬼的は竹で編んで半紙をのり付けする。

そこに大きな文字で「鬼」と書く。



「苗」と呼ばれる新ワラの束。

半紙を広げて洗い米と葉付きシキビの枝を入れる。



それを「苗」の中に閉じこめる。

もうひとつはカンジョウナワだ。

縄を編んだ細いカンジョウナワ。

数カ所に葉付きシキビを括り付ける。

行事のすべての道具が揃ったら、九頭神社拝殿に登り正月ドーヤ行事の無事を祈って神事が行われる。



神饌にネコヤナギのごーさんを供えて一老が神前で祓えの儀、祝詞奏上などが厳かに執行される。

一老は神主の役目であるが、今年は代行で二老が勤められた。

(H22. 2. 5 EOS40D撮影)