つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

受験シーズン

2011年02月23日 | 子育て

長男、長女が大学生。二女が高校生。末っ子が小学校の間、誰か彼かが受験生だった。
ということで、この季節になると末っ子には「うちに友だちを呼ばない」という厳命が下った。
一番寒い時期、日の暮れも早い。そんなこの時期に、彼はせっせと友だちの家に通ってくれた。
そういえば、今一番私が仲良く付き合ってもらっているお母さんは、その時末っ子が毎日通ったお友達のお母さんだ。
小学生を狙っての事件が多発した年だった。小学校に上がったのにと思いながらも、末っ子を迎えに毎日彼女の家に行った。

東京は公立より私立ということだし、なおその上、高校ではなく中学受験のようだが、札幌はまだそこまで行っていない。
進学高校は公立だし、中学受験というのはやはり特別なことだ。

今ではいい経験をしたと思っているし、かえってこのほうがよかったと思っているが、うちの長男は、第一志望の公立高校を不合格で終わった。これがまた、ドンピシャなタイミングでその発表が末っ子の卒園式とぶつかっていた。
祝われて当然の卒園生がいたのだが、不合格だった本人よりも親が落ち込んでしまい、そのため、外食しようと言っていたのがかなわなくなった。その日の晩はなんと野菜炒めになった。末っ子に聞いたら、そういう日だったのは覚えていたが、何を食べたかまでは覚えていなかった。「ええ、そうだったの?僕ってかわいそうだったんだね!」

点数開示をしてもらった。それまでの模試では、いつも60点満点中55点以上取っていた理科が合格ラインに3点足りなかった。こんなもんなんだなあと、親子で妙に納得した。
入ることになった私立高校の入学式が、公立高校と同じ日に行われた。私が付き添って出かけた。古い校舎の学校で、あまり天気が良くなかったことも手伝って、体育館で新入生の入場を待つ間に、私はどんと落ち込んだ。「なんでここにいるんだろう」「今頃本当なら○高だったのに」などなど半べそかいていた。新入生が入ってきて、10クラスもある全員の名前が学校長の前で読み上げられた。
その後「君たち○○名の入学を許可する」と宣言された。そして、忘れられない言葉をこの後校長先生は保護者への挨拶の冒頭に言ってくださった。

「皆様方の大切なご子息を、札幌第一高校が、確かにお預かりいたしました」

その言葉は、なにかわだかまっていた私の胸の中を駆け抜けた。涙があふれそうだった。
「よろしくお願いします」座ったままだったが頭を下げた。

この校長先生は卒業式の時、生徒が退場して会場に保護者だけになった時に、走って保護者席の前まで近寄り
「3年間大変お世話になりました」と深々と頭を下げられた。いつもやっておられることだったのかもしれないが、札幌第一高校で三年間長男が経験できたたくさんのことを思うと、公立高校でなくて幸運だったのかもしれないと今では考えている。

受験、15の春、17の春。みんな希望がかなうといいと思う。
でも、そうでなくて歩く道も、それはそれでたくさんのいいことがあると、長男が歩いた道が教えてくれた。

その後の子どもたちの受験では、それぞれいろいろな経験をさせてもらった。それは、また、後日、語りたい。

 

 

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反省する事しきり

2011年02月23日 | 日記

姉のことがそれほど悪くないとわかって、ブログを振り返ったら、興奮して混乱し、いろいろ書き連ねていて反省することしきりである。
何かあったら、すぐ書きこまないで、時間がたつのを待って、文章にするべきだと感じた。
でも、今回は、自分の中の不安や恐怖、そういったものをブログに書き込むことで落ち着くことができた。
人の目にさらして、恥ずかしい限りだが、これはこれとして、私の歩く様を書き続けていきたいと思っている。

継母は悪い人ではない。悪い人ではないが、私も姉も結局なじむことがなかった。
私たちを生んだ母親とは、かなり性質が違う。姉とよく話すのは「どうして父親はあの人と再婚したのだろうね」
生きているときに聞ければよかったのだが、再婚以来、父親ともあまりうまくいかなかった。
さっさと家を出ればよかったのだろうが、なんとなく出そびれた。距離があけば、いい付き合いはできたろうなと今なら思う。

私の結婚が決まって札幌に行くことになった時、「ああこれでこの家を出られる」と思ったものだ。
それが今は実家の手伝いに奔走している。家というもの、なかなか簡単に離れられないのだ。
だからこそ、若いあの時に、父や継母と距離を置いて付き合うべきだったと考えてしまう。

その時、その時、必死に考えて生きているつもりでも、時間があとからあとから、いろいろ教えてくれる。
人間はいくつになってもそうやってのびていくものなのかもしれません。

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もも吉さんへ

2011年02月23日 | 日記

励ましの言葉、ありがとう。本当にうれしい!

私、何度かコメントを入れているのですが、うまくおくれているのかわかりません。
アナログ世代なもので、しかもこのごろとみに目が遠いのです。

なので、念のため自分のところに書きました。本当にありがとうございます。

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病床 12

2011年02月23日 | 

一昨日の夜の飛行機で東京に着いた。
頭の中は真っ白だった。今の手術よりも、これから始まるかもしれない悪いことの連鎖への恐怖が体をふわふわさせた。
飛行機に乗る前に、医者から携帯に電話が入った。術後の説明をしようと私を探してのものだった。長男がいるはずだと話をした。飛行機にのり込む前に、手術が無事に終わったことだけは知ることができた。
天気がよく、飛び立ってから降りるまで夜景がよく見えた。ただひたすら、その光を見つめていた。
あの光の下にいろいろな人が今、生きているんだなあって思っていた。羽田について、すぐ携帯の電源を入れた。旦那さんから長いメールが入っていた。通路を歩きながら読んだ。長男が聞いた医者の説明によると、これまでに受けた抗がん剤が効いて、がん細胞が壊死し、それが何かの衝撃で外れ、このたびは小腸に穴が開いたということだった。悪いことばかり考えていたが、前向きな振り出しに戻るだった。ほっとした。

翌朝一番で顔を見に行った。前回の手術の時と全然違う。病棟のベッドに戻ってきているし、しっかりもしている。
あれこれやってほしいことを、矢継ぎ早に言われた。そうこうしているうちに、看護師さんが来て「体ふいいてパジャマに着替えましょう」
手術後のまま浴衣でいた。「着替え終わったら歩いてみようと思っているのですが、どうですか?」
ますますほっとした。外科の手術ではとにかくすぐ歩かされる。12月の時にはそれもかなわず、体が小さくなっていくのを見ていた。
私がいると邪魔になると思い、買い物に出た。

また、抗生物質の点滴を受けなければならなくて、1か月2カ月の単位で入院が延びました。また、今回と同じことが起こるかもしれません。でも、生きていくために、闘う時間を神様がくださっていると感じています。姉は一人で手術を受けるつもりだったようで、息子が駆け付けたこと、私が朝一番で行ったこと、とても喜んでくれました。きっとまた、笑って過ごせる日がきます。

 

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病床  11

2011年02月22日 | 

昨日、買い物に出た先で姉が入る病院から電話を受けた。
「緊急手術をします」
頭が混乱した、取るものもとりあえず家に帰った。前回退院が伸びた腹痛の原因が判明したのだ。
小腸に穴があいている。このままほおっておけば命にかかわるので、再度手術をするというのだ。
12月に大腸に穴があき、やっとここまで来たところだった。

混乱した頭で、旦那に連絡。病院は付き添いがいなくても手術はすると言ってくれているが、一人でなんて寂しすぎる。
飛行機の予約をかえるために航空会社に連絡したが、あいていたのは夜遅い便だけだった。どんなに早くても私がつくのは真夜中だ。
遠いというのは、どうしようもない。子どもに頼るしかない。
長男と長女の携帯電話に連絡を入れる。なかなかつかまらず、交互交互に番号を押した。
初めに捕まったのが長男。付き添ってくれないかと頼む。
「ゼミの授業を受けているけれど、先生に話して行くわ、でも、つくのに2時間はかかるよ」
と快諾してくれた。その直後娘が連絡してきた。家にいたのだが、携帯に気が付いていなかったようだ。
これから出かけるところだという。とりあえず事情を話し、何かあったらと頼む。
そこまでたどりついて、実家の継母に連絡をした。
初め、彼女は驚いて、やはり混乱したのだろう。
「私がついていかなければいけないけれど、今朝から膝が痛くてね」
「○○はここにいるのに、●●がいってくれるのね」といくらか娘に憤慨の様子だった。
姉の携帯にメールを送るが返事がないので、息子が行くということを知らせようと、病棟に電話を入れた。
なにかあれば言いつけてほしいと・・・。
しばらくして、継母から電話がかかってきた。どうしたのだろうと話を聞くと、今度は病院に行くと言い出した。
退院できるとふんで、その数日前に息子が浴衣やパジャマを持って帰ってきていたようだ。それがいるだろうから持って行くという。

もう、珍問答だった。
「浴衣全部持ってきているから届けないと」「全部?何枚持ってきているんですか?」「全部」「数えてください」「3枚」「それじゃあ病院に1枚ありますから、手術の分は間に合います」「パジャマもある」「手術をするんだからパジャマは今日は必要ありません」「でも、心配だし」「膝はどうなんですか?」「そんなに痛くないから大丈夫、タクシーで行くから」「タクシーからどうやって荷物運ぶんですか?」「大丈夫」「帰りはどうするの、一人で帰れるのですか」「最後までいて●●と帰るから」「何時に始まって、どれくらいかかるかわかって言っているんですか。この間は5時間かかったのよ。途中で帰りたいといったら息子が困るのよ」「時間ね、知らないけれど、大丈夫、最後までいられる。具合悪くならない」「そんなにいうんなら、行くときに○○を連れていってください。荷物を運んで様子を見たら帰りのタクシーにのせてもらえばいいでしょう」「一人で大丈夫」「浴衣やパジャマをどうやってタクシーから運ぶのですか」「心配だから」「みんな心配しています」

やや20分ほども声が大きくなりながら話しただろうか。心配なのはわかるが、一人でやろうとしない年寄りがいても長男が困るばかりだと必死だった。継母は長男が行くと知って、自分の面倒を見てもらえると判断して言いだしたことだというのが手に取るようにわかった。
娘を連れて行けといったら、少々ひるんだ。自分が案内しなければならないから嫌だったのだろう。あの人は、面倒見てもらえることは好きだが、面倒見ることはしない。だから、人がつかなくなっているというのがわからないようだ。

私は自分の出発の準備もしたいし、学校に行っている子どもたちへのこともしたいと思っているのに、この年よりは何自分のわがままを押し通そうとしているのか・・・。最後に切れた。
「一人で行けるのなら行ってください。ただ、それで具合が悪くなっても、私は貴女の面倒は見れません」
「具合悪くなるだけならまだいいけれど、荷物を持って転んでなにかあっても、これだけ言って止めたということを忘れないでください」

さすがに「浴衣もパジャマも今日はいいのね」といいだした。

自分に置き換えて考えるようにしている。私もあの年になれば、我を通すようになるのかもしれない。その時思い出せるといいと思う。
継母にてこずったこの日のことを・・・。

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