山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

光栄の路 向かう所は 墳墓のみ

2024-01-31 23:34:30 | 歴史・文化財

 故あって横浜を訪れた。その用事の隙間を縫ってなんとかその山手地区で有名な「外人墓地」をまわった。といっても、公開日ではなかったので、外周をそそくさと歩いたのだが。外人墓地はぺリー来航とかかわるのが興味をそそる。

 1854年ペリーが再来日したとき船上の事故で乗組員1名が墜死し、この水兵の埋葬地をペリーは幕府に「海の見える地」という条件で要求したことから、外国人墓地が始まる。なんか、現代にも続いている日米のチカラ関係がすでにほの見える。がしかし、外国人を隔離するという当時の幕府官僚の高度なしたたかさも伏線にある。

         

 この正門を設計したのはアメリカ人建築家、ジェイ・ヒル・モーガン。横浜を中心に数多くの作品を残した。モーガンもここで埋葬されている。門柱には昭和43年11月明治百年を記念して日英語で鎮魂の詩が刻み込まれた。右側の門柱には、イギリスの詩人トマス・グレーの代表作「田舎の墓地で詠んだ挽歌」からの引用が刻まれているようだ。引用文の内容は東洋的だ。

「美人の栄華 富豪の驕奢(キョウシャ) /  孰(イヅレ)れか 無常の風に逢はざらん  /  光栄の路  向ふ所は墳墓のみ」。

       

 グレーのその下には次の碑文が続く。これを書いた人物はわからない。

 「百二十五年を古るこの墓に眠れるは / かなたより東の国をおとない / こなた母なる大地に逝きし 四十一国(ヨソヒトクニ)の異邦の魂 / 彼らはるかなる異邦より 豊かなる訪れをもちきたり / 東のはてに第二の母なる 国を見出たり / 現世のはかなきを嘆く魂も 今は安らかにここに憩う / 彼らの願うは たまさかなる 追憶ならんや / 世を去りし人々にこの地 静けき眠りを与えん / 明治始まりてより 百年を数うるこの年 一九六八年にこの碑を立つる / そは我ら ささやかなる 礼を捧ぐるものなり」

   

 日本の攘夷派テロリストの犠牲になった外国人埋葬が発端になっているので、墓地はいまも日本側がつくり無償で土地を提供している。外側の柵から見えた墓群の形態はここでは多様であるのがいい。また、人種・宗教にかかわりなく埋葬されている。お墓は約2500柱、約5千人が埋葬されている。

 埋葬されている有名人でオラが知っていたのは、「ジャパンパンチ」新聞記者のチャールズ・ワーグマン。幕末に来日した彼は、1862年に日本の風刺雑誌「ジャパン-パンチ」を創刊。また、洋画の指導にもあたり、教え子に高橋由一がいた。

        

 生麦事件で殺されたリチャードソン、日本初の女学校フェリス女学院を創立したキダー、ビール工場を設立したコープランド、鉄道敷設の父エドモンド・モレルなど日本の歴史にかかわる人々が眠っている。墓地の外郭には大木が多い。それはかつて森だったこと、風雪の歩みが刻まれていることなど魅力が絶えない界隈だった。

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過疎の寺は楚々として

2023-12-13 23:11:16 | 歴史・文化財

 明治の場末の村は王子製紙の進出によってマチになった。映画館もできた。いまではその面影を探すのも苦労するほどの過疎が進行している。山並みと茶畑が似合う風景を満喫しながら短時間ながらそろりと歩いてみた。浜松市春野町にある曹洞宗の「龍田山・圓満寺」だった。

 曹洞宗は、宗派の開祖の「洞山良价(リョウカイ)」の「洞」と弟子の「曹山本寂」の「曹」の頭文字を合体してつけた名前だという。浄土真宗の信者は日本で一番多いが、曹洞宗は寺院の数は日本一だ。その多くは、発展途上の村落に影響力を持った在地領主「国衆」が活躍した15世紀以降に開創している寺院だ。都市は他の宗派がすでに固めていたので、その間隙を縫って地方を中心に進出していったというわけだ。

           

 小さな寺だが門らしきものがないので境内をそろりと歩けるのがうれしい。立派な石碑に「圓満寺」とあり、裏に寄進者の名前が彫られている。字面を読みたいが苔むしてなかなか解読しにくい。間違っているかもしれないがどうやら、昭和34年(1959年)に建立した板碑のようだ。ひと気がない。静寂がすべてを支配している。

            

 寺の開創は、1662年(寛文2年)らしいが、隣の森町三倉の蔵泉寺の古文書には室町時代の至徳年間(1384-1388)ごろに円満寺の記述があったという。というのも、道元を祖とする曹洞宗が庶民に広まり、その影響が遠州・東海地方に布教されていくのが15~17世紀。その基礎を築いた禅僧が弟子の多かった「如仲天誾(ジョチュウテンギン)」。森の石松で有名な森町の「大洞院」がその拠点となった。

     

 本堂近くにこれも立派な鐘楼があった。「勤労平和鐘」との石碑があったが、そのいわれの意味が分からない。戦時下の勤労奉仕中に被災したのを鎮護し世界平和を祈念したのだろうか。やはり、説明板や寺としてのメッセージがほしいところだ。

         

 梵鐘は厚さ7~8cm近くもあり、建物も鉄製で頑丈なつくりだ。本堂といい鐘楼といいかなりの財力が投入されている。田舎でこれだけのものがあるだけでも驚愕だ。歴史が古いだけでなく、マチになってからの繁栄ぶりも想起される。

 小春日和のぬくもりはいかにも平和の尊さを祝福している。がしかし、金権に汚された政治・オリンピックを許してしまう日本の能天気さにもいい加減あきれるが、ウクライナ・ガザ地区での民衆への殺戮に神や仏はどうして黙り込んでしまうのだろう。今こそ神や仏の出番ではないか。むしろ、日本の神社が国家神道のお墨付きをいただき侵略戦争を加担していったり、ロシア正教がプーチンの戦争を賞賛するなど、宗教の本旨から逸脱してしまっているのはいかがなものか、と心痛めることが少なくない。

 

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一杯5千マルクの珈琲を飲み終わったとき8千マルクに!?

2023-08-09 23:25:56 | 歴史・文化財

  引き出しの奥から突然現れたドイツの紙幣。なぜ、そこにあったかは全くわからない。高齢の兄が医者を志していた時、ドイツ語の歌を歌っていたのを想い出す。医者はドイツ語が必須だった。その関係で入手したのだろうか。いかにも古そうな紙幣だ。数字を見るとどうやら100,000マルクの紙幣。ずいぶん、高価な金額だ。これはひょっとすると、と生ツバがうごめく。

          

 くたびれた紙幣の裏側には、確かに10万マルクとでっかく表記してある。さっそく、調べてみたら1923年2月1日、ドイツ・ワイマール共和国が発行したものと判明。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツに1320億金マルクの賠償金が課せられた。開戦当時、1米ドルが42金マルク(1914年、金本位制)だった。政府は賠償金などの財政赤字解消のため紙幣を増刷したためハイパーインフレとなった。そのため、1923年1月に1ドル=7525マルクだったものがどんどん膨らみ、11月には1ドル=4兆2千億マルクにまで暴落。

           

  「一杯5000マルクの珈琲が飲み終わったときには8000マルクになった」という話はその意味で真実味が増してくる。発行された紙幣が子どものオモチャや古紙に使われたとか、餓死者も出たほどだとかの事例にも首肯できる。

 しかし、「レンテンマルクの奇跡」が起こった。当時の1兆マルクを1レンテンマルクと交換するとした金融政策を実施することでハイパーインフレを見事に克服させる(通貨の桁数を減少させたデノミネーション)。「レンテン」とは地代のことで、土地を担保に通貨の信用を回復させた。

 ただしその後の1920年、ヒットラー・ナチ党登場を許してしまうフラストレーションの素地ともなる。

          

 10万マルク紙幣に描かれた人物は誰だろうかと気になる。この若くて聡明そうな鋭い目線は、現実の困窮の救世主になったのだろうか。謎解きを始めたところ、彼は英国を中心にヨーロッパで広く活躍を始めた「ゲオルグ・ギーゼ」(1497~1562)という新興の商人であるのがわかった。しかしそれ以上の業績のわかる情報は得られなかった。日本で言えば渋沢栄一ということになるのかも。

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秋葉参道入り口を徘徊する

2022-12-28 18:48:31 | 歴史・文化財

 先日の秋葉神社参道入り口の旧栗田家邸宅の立派さにほだされて、その周りを散策する。急峻な坂道の登山道を登らないで、その手前をチョットだけ覗いてみた。「栃川」にかかる赤い見事な「九里橋」は山頂への起点である。掛川と浜松から九里もあることからつけられた名前だ。

 かつては木橋だったが、昭和16年(1941)の洪水で流され、現在の赤い橋は昭和38年(1963)に竣工された。山頂までは「50町」あり、この橋はその起点で「町石」がそれぞれに置かれている。秋葉信仰の広がりの深さがそれでわかるというものだが、残念ながら現在では町石の欠落が少なくない。

      

 赤い橋の手前左側には、昭和12年(1937年)5月に津市岩田秋葉講が建立した石柱が健在だった。正面には「至神社從是三十八丁」と刻印されている。当時、日本軍は盧溝橋事件を起こして中国への侵略を本格化していき、その12月には南京を占領し大虐殺事件を起こした時代でもあった。

     

 橋を渡ってすぐ右側に、もう一つの石柱があった。正面には「昭和御大典記念開鑿」とある。昭和3年(1928年)11月に昭和天皇が即位したのを記念したものだ。この石柱は、向かいの林業家・マルハクの栗田氏が昭和3年に「山林道」を切り開いたというが、どこの道なのかはよくわからない。昭和前期は活発な道路建設と付近の道路崩落事故などが多かった背景もあり、明治以来栗田氏の私財を投げ打って社会貢献を継続しているのがわかる。現代の事業家・首長に欠けている経済と道徳を融合する報徳思想が確認できる。

    

 登山口を少し上がっていくと、常夜灯が多くみられるようになった。常夜灯の文字の上のマークは何なのかしばらくわからないでいた。梵字ではないかとにらんだがなかなか納得できなかった。常夜灯のパーツの名称を調べたら、上から、「傘」、「火袋」、「竿」、「基礎」の4つになるという。すると、このマークは「傘」ではないかと推察することができた。

 そのすぐそばに、「第三町」という「町石」があった。「第一・第二」は近所からは見当たらない。この文字の上に「傘」の字があった。つまり「傘町石」だ。つまり、もともとは傘がある町石だったのがそのパーツを喪失しているのが推量できる。

  

 その近くに、昔は旅館らしいたたずまいの風情のある民家があった。狸の置物も今では珍しい。おそらく往時は、二階の手摺から街道を通る旅行客を見ながら一杯やったり、「どこからやってきたんだい」とか声をかけたりているお客の姿が浮かんでくる。明治初年には旅館が11軒もあったというが、今は見当たらない。せいぜい、民家風のしゃれたカフェが生き残っている。

        

 二階を支える梁の太さといい、本数といい、かなりのお客を収容できていたのが想像できる。表はかなりサッシなどが導入され現代風に改造されているが、家の中はきっと見どころが多いと推察する。ところで、玄関口の上に大きな看板が見えた。

     

 どうも、篆書らしい書体だったが、皆目読めないで数日が過ぎた。左側の「会社」は読めたので、これは「有限会社」だと推測する。古い看板は右側から読むが、どうも左から読むのかなと呻吟する。右端は、「屋」に違いない。つまり、○○屋ではないかと。しかし、○○部分がどうしても解読できない。

 そのうちに、このあたりに「なかや」という旅館があったのがわかった。平成8年(1996年)まで営業していたらしい。すると、これは「仲屋」ではないかと。そのように考えると腑に落ちる。「仲」という漢字に幟のようなものを付けたのではないか。ときどき、字体の形を整える、もしくは画数をかせぐために篆書ではそういう追加をすることがあるようだ。つまるところ、「有限会社 仲屋」ということに落ち着く。どうも、貴重な健康食品「卵油」を製造している会社らしい。衰退がはなはだしい名所にも地元の人間の努力・葛藤・儚さとの生きざまが垣間見えた瞬間だった

     

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大正ロマンの古民家を見に行く・周辺編

2022-12-14 21:51:55 | 歴史・文化財

 前回の豪壮な古民家に続き、今回は母屋の周りを見る。何と言っても、重厚な土蔵が圧巻だ。貴重なお宝があったそうだが、泥棒が入って多くが盗まれた。お宝が入っていた箱だけが山積みされて残っていたという。頑丈な土蔵造りのどこから侵入したのだろうか。

 一階部分には、「腰巻」と言われる耐水・耐火・安定対策の煉瓦が積まれていた。地面からの湿気防止と火災からの類焼防止ということだが、煉瓦が新しいことや煉瓦の積み方がシンプルなのを見ると、昭和になって補修したものかもしれない。また、庇を支えている金属製の支柱は、アールヌーボーらしい曲線の植物デザインで表現している。ここらに大正ロマンの影響もあると三須さんは語る。

      

 壁に打たれているL字型の折れ釘が気になった。建物を補修したり、庇などの付属物を加えるとき、梯子を固定するために縄をかけたりするのに利用する。また、樋を支えるデザインにもなっている。

 さらに、その釘の根元には荷重を避け、亀裂や釘の錆による湿気侵入を防止するための「粒・ツブ」を漆喰で造っている。ただし、向かって右側は壁もツブも漆喰が見られないので後から補修したものと思われた。

          

 その蔵の隣に、もう一つのやや小さい「袖蔵」があった。中に入ると、立派な梁と階段が目を惹いた。ここまで中のものを整理してきたのはけっこう大変だったのがわかる。壁は木材で囲まれている。その補強もされているということだが、素人にはよくわからない。

   

 「倉庫」を外から見た。格子窓があったが、一間くらいの大きい戸が正面にあった。鍵穴が左下にあった。また、その近くには窓がない状態の二階のある作業場があった。三須さんがいま補修中の場所だ。注目は二階からの庇にかけての斜めの木の曲線だ。雨をソフトにランディングするための曲線だという。木材に鋸で切れ込みをいっぱい入れて曲げている。こんなところにもジャパンテクニックがさりげなくある。昔は瓦の庇だったという。

  

 最後に台所を案内される。かまどがなんとタイルでできていた。当時としては斬新なかまどだったと思われた。民泊した人はここで炊事を体験してもらっている。お皿などの容器もレトロなので一気にタイムトンネルを通過する。

 反対側からは昔の玄関から長い土間とつながっている。そこに「千本格子戸」が見事にたたずんでいた。ふんだんに木の格子が多用されている。これもジャパンテクニックの先端だ。わが家にも格子戸があるがこれほどの格子の数はない。

         

 9000平米というこの元地主は、栗田さんという名望家らしい。村長・組合長・県議会議員などを歴任した地元の有力者だ。しかも、道路を開削したり、橋を架けたり、学校も創立。英語塾の教師には森鴎外の小説『渋江抽斎』のモデルとなった渋江保がいたという。そういう地域づくりに私費を投じたという。また企業家として製材・製氷・新聞社・養魚場・銀行なども経営。

 二宮尊徳の報徳思想の影響があったようで、地域貢献・社会貢献が半端ではないと郷土史家の木下恒雄氏は指摘する。現代の企業家リーダーや政治家にもっとも欠落している志でもある。

           

 木下さんは、栗田氏のそうした偉業について、「何時も世の人達の生活に立ち尽くして来た氏の一生は記録されるべき歴史そのものである。我が北遠山中にある町・村・里の歴史は、氏の歩いてきた足跡が即その上に重なっているとも言えるのである」と静かに訴える。しかし、今ではその功績は「忘れ去られてしまっている」と哀惜の情を隠さない。

 とはいうものの、その意思を偶然受け止めた建築家・三須さんのおかげで、建物が再生し、地域に開かれた拠点としてスタートしているのが頼もしい。

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大正ロマンの古民家を見に行く ・母屋編

2022-12-12 18:08:59 | 歴史・文化財

 建築家の三須克文(ミスヨシフミ)さんが林業家の古民家を購入して再生しているというので、「春野人めぐり」のイベント案内に乗じてそそくさと見に行く。ゼネコンで活躍した人が古民家再生によって地域おこしの一端を担うという三須さんの生き方がうれしい。民家をスクラップしてコンクリート造りが花形だった世界から古民家再生へという180度違う世界へと飛び込んだのだ。

 場所は秋葉神社上社へいく麓の表参道入り口にあった。竹林と広大な山を背にした古民家は再生の途上にあった。

          

 伊豆から取り寄せたという石の塀を過ぎると玄関があった。その格子ガラス戸のデザインは当時としては斬新だったのだと思う。現在はその左隣の部屋を改造してお客用の玄関にしている。週末には佐久間町出身で猫の好きな奥さんを中心に「まろや」という古民家カフェ・民泊を運営している。

  

 母屋に案内された。林業家の住まいらしく部屋の周りは木材がふんだんに使われている。天井は木目模様を生かしたモダンなデザインに驚く。このへんは林業家の豪勢さと建築家の大正モダニズムの息吹が感じられる。

   

 目立たない隣の部屋の天井は板目でも柾目でもない複雑な「杢」(モク)模様だらけだった。欅の大木だろうか、原木のねじれや瘤模様を生かして切り出されたものだ。その木目模様には、「玉杢」とか「泡杢」とか「虎斑(トラフ)」とか多様な種類があるが、どれにあたるかは素人にはわからない。わかるのは贅を尽くした貴重な造形美であるということだけだ。

      

 さらにその隣の部屋の床の間には、スライスしたヒノキが飾られていた。これだけで座禅ができそうだ。ちなみに、この部屋で数人のうら若き女性のお客が談笑しながらコーヒーを飲んでいた。その部屋の板戸は、全体が一枚板だった。巨木をふんだんに使われた古民家であることがこれだけでもわかる。

  

 廊下から外を見ると整備が終わった日本庭園が見えた。まるで、旅館にいるみたいだ。ガラス戸は「手吹円筒法」という、円筒ガラスに切れ目を入れ再加熱して板状ガラスにした「手延べガラス」ということだった。明治から大正にかけて作られた「大正ガラス」に違いない。横からガラスを見るとゆがみがある。三須さんによれば、30年近く空き家だったのに「一枚も割れていなかったのが奇跡だ」と語る。

         

 「これだけがお宝だった」と語る、日本の林業の偉人・金原明善83歳のときに揮毫した扁額を見る。「山林は興を引くこと長し」という杜甫の漢詩のようだ。山林での暮らしに強く魅かれた明善らしい言葉だ。ガラクタの山からこれを見出した時は大いに喜んだ三須さんだ。なんとかきれいに修復することができた。

 母屋の案内の次に周辺を見に行く。それは次回のブログに続く。

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木下恵介記念館は白亜の洋館だった

2022-10-10 22:35:58 | 歴史・文化財

 友人の紹介があって「木下恵介記念館」に行くことになった。浜松の都会に出るのは何年ぶりだろうか。山奥から出たので都会のビル群の風景の変容に圧倒される。近くの駐車場から歩いて記念館に着いたら、いかにもモダンな建物があった。前身は、銀行家らのサロンとして1930年に(昭和5年)建てられた「浜松銀行集会所」だった。浜松大空襲になんとか生き延びた貴重な歴史的遺産でもある。

       

 半円のアーチ窓の上の白壁にユニークなレリーフ模様があった。よく見ると、おじさんの顔のように見えたのは観察眼が鄙びた斜視のせいだろうか。当時の先端を切ったであろうこの白亜の洋館は、アメリカの旧スペイン植民地の建築様式の影響を受けた「スパニッシュ様式」のようだった。玄関前のポーチ・車寄せだけでも当時の住民を驚かせたに違いない。その前にあるソテツ・シュロの植木は地中海風デザインが彷彿とさせる。設計者は、浜松出身の中村輿資平(ヨシヘイ)。

        

 彼は、1921年(大正10年)に米・独・仏・英など17ケ国を1年かけて視察している。静岡県内の公共建築の中心は彼が手掛けたと言ってもいいほどの活躍ぶりだ。しかも、植民地朝鮮・満州国や都内の学校や銀行などにも精力的に建設している。当代一流の辰野金吾の設計事務所で頭角を伸ばし独立していったというわけだ。記念館の中は、輿資平の資料やもちろん木下恵介のポスター・愛用品なども展示されている。

   

 館内をゆっくり回る余裕はなかったが、アールデコ風のガラス窓や高級感あふれる家具・調度が目を引いた。ガラスの模様はバラの花だろうか。当時「日本楽器製造KK」(現・ヤマハ)は家具も生産していて、輿資平と旧制中学の同窓だった川上嘉一社長との関係で、特注品の家具が配置されていてそれも見どころだ。

 また、輿資平の次男で戦死した兼二は、作家・竹山道雄の従兄弟にあたり、兼二の死は『ビルマの竪琴』の執筆の動機となった。記念館にはこうした多様な坩堝にあふれている。

 

 

 

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渋沢栄一と大川平三郎と王子製紙気田工場

2021-11-13 22:24:20 | 歴史・文化財

 今日の午後、近所の人に誘われて旧王子製紙気田(ケタ)工場倉庫で行われる講演会に出かける。講師は郷土史家の木下恒雄(キシタツネオ)さんだ。郷土史を足と耳と目で発掘して30冊以上の図書を自費出版している。その記憶力といい精力的な好奇心といい郷土の「知の巨人」と言っていい。会場は中学校の校庭の中にあった。

      

 明治20年(1887)に現在の浜松市の気田に王子製紙の工場建設が決まり、地元でも工場誘致の「盟約書」が会社に出される。その写しが会場にあった。名前を見ると地主や村長らしく、その子孫がいまも有力者として活躍しているようだ。

   

 近くの図書館隣の「資料館」には、渋沢栄一が各村長に宛てた要望書の手紙を展示しているが、残念ながら時間的余裕がなくみられなかった。気田工場の中心的指導者は、13歳から栄一の家で書生をやっていた大川平三郎だった。彼は製紙生産を学ぶために欧米を視察し、それを気田工場に生かしていく。日本で初めての木材パルプ製造工場の誕生だ。

   

 大川平三郎の妻は、渋沢栄一の愛人の子ども「テル」である。したがって、二人は親戚であり、起業の同志でもあったのだ。しかし、経営の問題では三井財閥の介入・のっとりがあり、二人は王子製紙から離れていく。このへんの経過については木下さんの得意な内容でもある。

     

 大正2年(1913)、気田工場は廃止・撤廃され、その痕跡はこの製品倉庫跡だけとなった。天井の格子模様も入口のアールデコ風のドアも往時の先進的なデザインとなっており、貴重な文化遺産が遺された。静岡県の指定有形文化財にもなっている。

  

 また、外装の赤レンガも補修の跡が生々しく、画像右上のレンガの積み方は「イギリス積み」だが、下側は混乱しているし、窓を潰した左側はその秩序はなくなっている。外装はレンガだが、内装は漆喰の木造の二重構造となっている。気候変動の激しい山間地の事情から製品を保守しようとする工夫がみられる。このへんも木下さんからかつて聞いたこともあったが、今回は説明がなかったのはもったいない。

    

 さらに、外壁面や窓及び内装のデザインは洋風で、屋根は瓦の和風建築という和洋折衷の建築様式であるのも見どころだ。その鬼瓦は、何と書いてあるのかわからなかったが、江戸文字の真四角な「角字」らしい。それによると「水」を角型にデザインしたようだ。つまり、火災から守ろうという伝統的なお守りだ。これはクイズ以上に解読が難しかった。

 なお、金原明善と渋沢栄一が同時代を生きていたという木下さんの指摘も意外だった。明善は気田工場に近隣の木材を販売していたこともあるが、二人の共通点は社会貢献に尽力していたことだという。「論語」の「仁」・思いやりの思想が経営のなかに貫徹していることを忘れてはならないと強調した。現代の経営者には耳が痛い二人の事業家でもある。

 

 

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「あしわら様」に会いに行く

2021-01-17 21:27:39 | 歴史・文化財

昨日の「天王の森」の先に「あしわら様」という祠がある。祠の前は旧道のメインルートだった。ここは峠となっていてムラとムラとを結ぶ分岐点でもある。これから長い異界への旅をはじめるにあたって、旅の安全を祈る場が「あしわら様」だ。杉と檜の巨木の根元にある。

   

 旅の安全はもちろん足の悪い人も遠くから祈願にくるという。そのときに、珍しい石・穴あき石や靴(昔はわらじ)を持ち寄ったりする。また、「柴立て」といって常緑の枝を周りに何本か挿して奥山に入る心意気を入れたという。新年には地元の有志がやってきて「柴立て」をしてお参りもしている。

           

 大木には直径5cmほどのツルが伐られずに上に伸びているのも貴重だ。太いそれが数本もあるが、フジなのかアケビなのかは春にならないとわからない。葉があればなんとか同定できそうなのだが。しかしこんな太いツル植物はなかなか普通の山でも会えない。いかにも、鬱蒼とした結界となっている。

 

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鳥羽山城を侵攻!?

2021-01-12 23:17:43 | 歴史・文化財

 久しぶりの街中にでかけたとき、ほんの少しの空き時間ができたので近くの鳥羽山城に行くことになった。以前、散策会で訪れたこともあったが山城の地味な魅力はわからなかったころだ。時間がないのでまずは山城の玄関である「大手道」から一気に突入する。この先に本丸がある。

 桜と紅葉の名所でもあるここは今ではハイキングにも人気があり公園にもなっている。久しぶりのしっとりとした雨に濡れた階段には赤い落葉の絨毯が迎えてくれた。家康が隣の武田軍が居座る「二俣城」を奪還・攻略するためここに本陣を築いたところでもある。

    

 ところどころに「野面積み」の石垣が見られる。山城ファンにとっては城の遺構がたまらないほどの箇所が発見できそうだが、不勉強のオイラには足早にスルーするしかない。浜松市も並みなみならぬ調査で発掘と保存を手掛けたのがわかる。それほどきれいに整備されている。

 二俣城は甲斐を南下する武田軍と駿府側の防御の徳川軍との軍事的拠点だったが、この鳥羽山城は城主や家老の住まいとしても利用されたようだ。また同時に、迎賓館のような外交施設だったらしく、本丸のそばには枯山水の庭園もあった。その遺構の存在は山城としては稀であるという。そして天目茶碗などが発掘されていることからもそれはうかがえる。

  

 天守閣らしき建物からの眺望は見事だった。目の前に天竜川が悠々と流れており、遠くは浜松の街並みを展望できる。この地域の「二俣」は、山間部と平野を結ぶ流通の拠点でもあった。とくに山林運搬の基地として昭和の時代まで栄えていた。二俣を歩くと古風な蔵にたびたび出会う。芸者をあげてどんちゃん騒ぎしたという山林地主や関係者の話もよく耳にする。今は往時の勢いがなく商店街もシャッター通りとなってしまっている。

 

 二俣は同時に信仰の交通路にあった。秋葉神社や近くの光明寺への道すがらには、貴重な文化財の跡があるのに、なかなか発掘・活用されていない。地域の宝を共有・発掘していく人材がいないのだろうか。もったいないことだ。オイラの住んでいる中山間地にはこうした名所旧跡なるものは皆無と言っていいのに。そんなことをブツブツ言いながら城跡を駆け巡ったが、つぎはもう少し時間をかけて「国破れて山河在り」や栄華のあれこれを満喫してみたいものだ。

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