山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

大晦日にクリスマスはいかが?

2020-12-31 21:46:41 | 野外活動

 25日のクリスマスの日に食べようと思っていたローストチキンをプレ大晦日にやっと食べる。年内にやることが次々出てきてしまってどんどんクリスマスが遠のいてしまった。といっても、クリスチャンではないのでクリスマスにはこだわらない。七輪の上に香草焼きのスパイスをまぶしたチキンをアルミホイルで包んで乗せる。

            

 芯までローストするには弱火でゆっくり焼いていくつもりで時間をかける。それでも、焼き過ぎたようでスパイスは焦げて皮はアルミにくっついてしまった。そのため、味が十分滲みこまないものとなってしまった。やっぱり、酒・味醂・砂糖・醤油・ガラスープの素をブレンドした液にしっかり漬け込むべきだったかもしれない。

 ついでに、いつものようにイワシも焼いていく。 静かな大晦日はもちろんのことだが、ふだんから人に会うこと自体少ないのだから、コロナがあろうがなかろうが、隔離生活には変わらない。

           

 先日、集落の小さな集まりのとき、おじさんたちは嘆く。「最近の<紅白>はつまらない。演出が派手なだけで演歌も肩身が狭い」「そうだよな、テレビを見ててもバラエティーやお笑いそれにグルメばっかり」の声に一同笑って共感する。ほんとに、心が洗われる番組はない。もっぱら、取りためた録画を見るほかない。

 コロナに翻弄された一年だった。世界は一極集中社会にシフトされている。だから当然格差も出てくる。林業では暮らしていけない、農業では暮らしていけない、田舎では暮らしていけない、マスメディアに脳髄を吸い取られている、そういう人間の基本的な暮しが破壊されている。それを許してしまってきた隙間にコロナが発生した。コロナは人類に日本に問いかけしているのだ。「このままの状態は本当にいいのでしょうか。生きる原点に戻りましょうよ。」と。新年はその答えを出していく実行の年となる。

 

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ストーブなのか焚き火台なのか

2020-12-30 21:43:29 | 特産品・モノ

 明治末期に建築されたらしいわが民家の屋根裏は倉庫にもなっている。そこからレトロな鉄製筒が出てきた。おそらく焚き火か薪ストーブかに違いないと思って薪を燃やしてみる。ついでに、残り物のサツマイモをダッチオーブンで焼いてみる。もちろん、収穫?した背の高い雑草も灰にしていく。

     

 焚き火が終わったら蓋をする。すると、どんどん消えていく。消し炭を入れる壺みたいだ。なかなかコンパクトで使い勝手がいい。

            

 翌日蓋を開けてみる。これだけ灰があるということはかなりの量を燃やしたことになる。火の粉もあまり飛び散らないで済むし、空気穴も良くできている。

      

 灰を捨ててみるときれいに空になる。そこで、どうもこれだけではない機能がある予感がした。周囲を見回したところどうやらもっと背が高くなりそうだった。

           

 筒を回して上に引っ張ってみたらすいと高くなった。ほう、これは優れものだ。昭和レトロのものだろうか。薪ストーブにも焚き火台にもなるようだ。これはわが家でやっている農業残滓を燃やすアイテムにピッタリの優れものだ。これはいつごろから使用されたのか知りたいところだがなかなか手掛かりが見つからない。これから恒常的にお世話になりそうなモノになるのは間違いない。倉庫に眠っていたアイテムが復活した瞬間だった。  

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杭を作って杭を打つ

2020-12-29 23:26:54 | 農作業・野菜

  裏山側周辺に転がっている丸太をチョイスしてきて土留め用の杭を作る。市販のスマートな杭より丸太のほうが重量感もあり、一つひとつの個性もある。傍から見れば統一感もなくいかにも貧相な杭の列になったが、これも「味」ということにしよう。

            

 横の列だけで16~17本もあった。約2m間隔で杭を打ったから横幅は30mは越えている。外側の茶樹を入れれば約40mほどの横幅となる。それから、「かけや」を持ってきて打ち込みを始めると面白いように杭が食い込んでいく。現場は意外に急峻であるので注意が必要だ。土砂流出防止は喫緊の課題であるのがわかる。今は雨が少ないからいいが雨季でなかったのがさいわいだ。春にはなんとか樹木を植え付けていかなければならない。時間が迫ってくるが体は沈黙したままだー。まもなく来年になってしまう。

 

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エビスグサの種を取り出す

2020-12-28 15:57:58 | 農作業・野菜

 先日、エビスグサの種を足踏み脱穀機で作業したものの、まだ莢のままも多く手動で種を取り出す。乾ききっていない莢は種が取りにくい。炬燵に足を突っ込んだまま手はのんびりと莢から種を取り出していく。これも指の動きが悪いオイラのリハビリにはなりそうだ。以前はハブ茶ブームがあったが今はあまり聞かない。しかし、野生化するほど生命力ある薬草をほっとおく理由はない。

         

  取り出した実の中にはゴミや不良なものも少なくないが、これを後日、「唐箕」にかけて精選する予定だが来年になりそうだ。

 漢方薬でもあるエビスグサは、「決明子(ケツメイシ)」と言われ、眼に明かりを与えるとして眼精疲労にもまた利尿・整腸にもいいらしい。人間だけでなく線虫の増殖を抑えることでも畑に効能がある。フライパンで香ばしい匂いが出るまで焙煎してからカップに入れてそこへ熱湯を注ぎ3分ほど蒸らしてから飲む。麦茶のようなあっさりした癖のない味がある。アサヒ飲料の「十六茶」にも入っている。(2018.5.17my.blogでは若芽を食べたことがある)

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 マグネシウムによる洗濯革命か

2020-12-27 20:20:11 | 特産品・モノ

 洗剤を使わないで洗濯できるものがあるというので春ごろマグネシウムを購入して使いだす。消臭・洗浄・除菌の三拍子そろった効能があるという。和宮様に聞いたところ、洗剤を使ったときもマグネシウムのみのときも変わらないという。つまり、マグネシウムの効能があったということだ。この発見を商品化した宮本製作所はすでに600万個を売り上げ年商20億円にもなったという。1年ほど使ったら畑に撒けば肥料にもなる。これは循環型社会の実現に一歩近づくことにもなる。これは洗剤メーカーにとっては大打撃となるだろう。

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茶畑の伐根一期分も終わり…

2020-12-26 17:59:58 | 屋外作業

 隣にある茶畑の伐根作業は10月31日に始まった。ユンボの都合や立地の関係で作業は三期にわけて、その一期分は今月で終了とした。茶畑の周囲の一列の茶樹はそのまま残してもらった。

             

 ユンボの運転は腕のいいA君にやってもらい、彼の癒しのイヌ「マル」も配置についた。この茶畑で何ができていくかはまだ明確な設計図はなく未知数と言っていい。太陽光パネルでおこぼれの収入を期待するよりは、緑の景観を保持し、里山ならではの野菜や果樹を基本としつつ、蝶や昆虫が群がる花の楽園をおおまかに構想している。

 伐根してしまうと土砂流出が考えられるので、土留めを着手している。まずはそのための杭を打ち込む。手持ちの20本の杭はあっという間になくなった。その杭に山から伐ってきた竹を横に配置して土を少し被せる。これも手持ちの原材料をできるだけ活かすことを基本とする。

 その竹の上に伐根した茶樹を重しがわりに配置する。この斜面はどうしても山の陰になって午前中は霜にやられてしまう。したがって、ここにはアオキなどの陰樹を一部配置するつもりだ。できたら、枝垂れハナモモを何本か植えたいが入手が難しそうだ。2m以上のものだと一本につき〇万円もかかってしまうので、挿し木などで気長に植え付けをしていくほかない。

  

 伐根した茶樹も土留めで役割を果たしてもらい一段目はほぼ終了した。来年は2段目を着手する。そのために早急に杭の製作を急がねばならないが、他の作業が終わらないと本格稼働できないし、山から土留め用の竹も伐採してこなければならない。ただし、豊富にあった竹が昨年の伐採で太いものがないのが残念。とりあえず、小振りの竹で我慢する。来年早々はこれらの作業に追われそうだ。 

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詩人の凛とした旅

2020-12-25 21:18:16 | 読書

 苦い青春を右往左往していたころ、オイラは『韓国からの通信』という本をたまたま読んでいた。そこは戒厳令下の韓国で民主化運動に思いをはせる命がけの「通信」が平和ボケの脳を刺激したことがあった。軍事クーデターの朴正煕や金大中も登場した。そこに、キリスト教会や詩人たちが拷問や過酷な弾圧にもかかわらず地下活動で重要な役割を担う。当時そこが良心のとりでだった。

 そんな背景があるなかで茨城のり子は夫の病死に直面し失意の果てにいた。その状況を前にして「<いいな>と惚れ込む仏像は、すべて朝鮮系であることに気づ」き、それは朝鮮の芸術や暮らしの中にあることを発見する。そうしてハングルの語学学習にのめりこむ。その延長線上で『ハングルへの旅』(朝日文庫、1989.3.) を出版する。

   

 当時の韓国は軍事体制下のイメージも強く、もちろん「韓流ブーム」もなかった。そんななか、韓国への旅とハングルの言葉の魅力等をエッセイにまとめる。現地は日帝の植民地支配の痕跡が残るとともに反日感情も根強い。しかし、茨城のり子の凛とした魂はそれを直視しつつ、旅に出会った庶民へのまなざしが暖かい。

             

 茨木のり子(1926生-2006没)の詩は小気味いいテンポがある。『自分の感受性くらい』『倚りかからず』という詩は思わず読者の腹の内をぎゅっと捕まえてしまう迫力がある。教科書や「3年B組金八先生」の番組でもその詩が使われている。

 「ハングルを習ってみて、日本人が発音しにくい音がいっぱいあることを知った。反対にハングルを正確に発せられないために殺されるという場合をチラとでも想像できる日本人がいるだろうか。」という指摘も手厳しい。関東大震災で罪のない朝鮮人大虐殺をしてしまった歴史的事実もいまや風化してしまっている。

        

 彼女はまた「浅川巧」を紹介している。浅川巧は、朝鮮の緑化に従事するなかで日常雑器の美しさに心奪われ地道な研究をしていた、民芸運動の柳宗悦が「彼がいなかったら、朝鮮に対する私の仕事は其半をも成し得なかったろう」と言わしめたほどの朝鮮通であった。しかしそれを知る人はほとんどいない。朝鮮で亡くなった彼のお墓を茨木のり子は時間をかけて訪ねている。

                

 そのうえさらに、治安維持法で逮捕され福岡刑務所で27歳で獄死した夭折の詩人ユンドンジュ(尹東柱)を最後に紹介している。生前は一冊の詩集もなく無名の青年だったユンの、「一見弱そうにみえながら、ピアノ線のようにピンと張った透明な抒情の質」を茨木のり子はきちんと受け止めている。

 日本人にとっては心痛い負の遺産だが、こうした犠牲者の上に今の金満日本がある。風化させてはならないことがあまりに多すぎる。これらを思い出したくない日本は虚構だらけの「もののけ」となっていく。茨木さんはそれを直截に言うのではなく、「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて」と暴くのだった。そして、「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄」と静かに警告する。  

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クサビパワー全開へ

2020-12-24 18:39:57 | 特産品・モノ

 斜面にある茶畑跡に土留めのための支柱が必要になった。先日60cmの支柱20本(防腐剤付き)を購入したものの、とても足りないことがわかった。また、予算もバカにならないことも分かった。そこで、自前で作ることにする。裏山には丸太がごろごろしている。そこで、昨年ネットで購入しておいた「クサビ」を思い出した。いよいよクサビデビューだ。

  

 クサビに手斧は必須だった。まずは手斧で切れ込みを入れその隙間にくさびを打ち込む。隙間が大きくなってきたら2本目のクサビを打ち込む。クサビも2本が原則だ。1本だと木に嵌ってしまったら取り出すのは難しい。その後手斧で切れ込みの延長線上に打ち込む。

  

 クサビはねじり型だった。二等辺三角形の真っ直ぐなクサビより割り裂くパワーは大きい。ただし、1本が2kgほどもあるので手が重さについていけないこともある。きれいに二つに分かれたときは感動的ですらある。

  

 丸太を四つに割り出したときの快感はクサビパワーのおかげだ。枝の節がそばにあるときは真っ直ぐには裂けない危険性もあるのでそこは丁寧に打ち込んでいく。プラスティック製のクサビもあるがやはりスチール製のクサビのほうが安心感がある。クサビのおかげでとりあえず丸太から4本の支柱を確保した。それは今後のことを考えると大きい。こうしてクサビデビューは快調にスタートしたのだった。

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西部は最後まで映画・議論・バーが好きだった

2020-12-23 19:27:42 | 読書

 市井のダビンチさんの課題図書の三冊目『西部邁発言②「映画」斗論』(論創社、2018.5)を読み終える。脚本家・映画監督の新井晴彦が編集・発行人を務める映画批評誌・季刊『映画芸術』の掲載された座談会を編集したものだ。前回の文学論(発言①)より今回の映画論のほうが西部邁(ニシベススム)の弁舌は饒舌だった。

 倒産すれすれの『映画芸術』誌を応援してきた異色の元文部官僚・寺脇研が映画通であった、というもう一つの顔を知れ得たのも収穫だった。寺脇研といえば、「ゆとり教育」推進で活躍した高級官僚だったが学力低下が問題となってパワハラの的となった。

  

 そして、西部邁との長らくの盟友・毒舌の評論家佐高信も登場する。この三人が集まれば、立場は違うが左右の政治勢力を超えた論議が期待できる。本書の構成は 、1)映画と戦争、2)映画と社会、3)映画と家族、の三部構成となっていて、20本近くの映画について論評している。

 1)「映画と戦争」での焦眉と思えたのは、クリントイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』だろう。左右の勢力から絶賛された戦争ものだが、西部邁は世論の迎合的礼賛に違和感を唱えるところが彼らしい。

  

 2)「戦争と社会」では、宮崎駿監督最後の作品の『風立ちぬ』の「物足りなさ」が共通して出されていた。オイラもそれを感じていたがそれは何だろうか、というところでは踏み入っていない論議になっていたように思う。また、『沈黙ーサイレンス』(スコセッシ監督)、『沈黙 SILENCE』(篠田正浩監督) は、いずれも遠藤周作の原作。映画としては前者のスコセッシ監督のものを観たが、大いなる犠牲を払っている信者に対して「神はどうして沈黙しているのか」という問いが印象的だった。要するに、世俗を受け入れるか、絶対的真理を認めるかというところで論議が盛り上がったが時間切れ。

           

 3)「映画と家族」では、小津安二郎監督の『東京物語』と山田洋次監督の『東京家族』との比較評論が鋭い。けっこう細かい場面まで触れながら山田洋次の軽さと小津安二郎の重厚さとを浮き立たせている。台詞を言わないで伝える小津監督の凄さは三人とも一致。辛口の西部氏は山田洋次作品を「まれに見る愚作でしたね」と一刀両段断。しかし同時に、「山田さんは、小津安二郎を受け継いでいるような気がします」という評価も忘れない。

 

 現実の日本と自らの病気とに絶望していた西部氏は自死を決意しながらもこの会合だけは楽しみにしていたという。水を得た魚のように作品への鋭い視点と含蓄ある知識とを縦横に発揮できたからだろう。寺脇も作品の豊富な背景やコーディネートしていく力はさすが元官僚である。また、立場こそ西部と違うが佐高信のゆとりある見識も西部好みなのかもしれない。ところで、西部の自死を強力に止める人はいなかったのかが気になる。教え子は多いとはいえ「知の巨人」を失った後遺症は大きい。保守の論客ではあるがこれほど幅広い角度から分析できる評論家は見当たらない。もったいない。

 

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足踏み脱穀機いよいよ稼働へ

2020-12-22 22:16:58 | 農作業・野菜

 昨年修理した足踏み脱穀機は快調に作動した。木が腐ってへろへろの状態になってしまったものを頑丈な垂木で補強したため一人では持ち上げられないほどの重量になった。しかし、頑丈で安心感があるのが良い。これはきのこの師匠から下賜されたものだった。界隈の集落ではこの足踏み脱穀機はいまだ現役なのだ。ガソリンを使わない人力だけの環境に優しい機具なのである。

 さて、何を脱穀しているかというと、ハブ茶の原料のほとんどを占める「エビスグサ」という草本の生薬だ。便通や生活習慣病によいとされ一時話題にもなったマメ科の植物。

         

 わが畑の真ん中にすまし顔で野生化したものをそのまま収穫したものだ。足踏み脱穀機で莢の豆を採りたいが莢が意外に硬い。そのため莢が大量に出てしまった。問題はこれから豆をいかに確保し、ゴミや莢を除外するかだ。昔のように莢を叩いてやるのが手っ取り早いようだ。そのうえで、唐箕にかけてゴミを吹き飛ばす作業に入る。足踏み脱穀機の活躍は申し分ないが次の作業の効率いい道具が意外に見当たらない。コロナ禍のなかでおてんとうさまの下で「のんびり手仕事をしろよ」ということかもね。

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