山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

猫好き国芳の寄せ絵

2024-03-29 23:23:22 | アート・文化

 最近、浮世絵には作家の思い入れが多様に込められているのを知った。今までは表面的な格好良さ・華麗さに目を奪われていたが、そこには庶民の生活や美意識の洗練さを見なければいけない。美術館では展示するだけが多いが、その隠された秘密と奥行を発掘するべきだと思うようになった。

 そこでさっそく、寄せ絵の奇才・「国芳」の浮世絵「野晒悟助(ノザラシゴスケ)」を入手する。発行は弘化2年(1845)ごろ。タイトルの「正札付(ショウフダツキ)現金男」とは、10人の任侠シリーズものということだった。江戸の商売は後払いの口約束「掛売り」が普通だったが、掛け値なしの正札どおりの現金払い、つまりこれは偽りなしの本物だよという意味合いだった。要するに、国芳模様で描いた仁義を重んじる本物の粋な任侠男だよ、ということだ。

  

 タイトル左側には、柳亭種彦の門人・柳下亭種員(リュウカテイタネカズ)の「仇し野の染色めだつ伊達ゆかた つまくる数珠や露の白玉」という狂歌が添えられている。ニュアンスはなんとなくアウトローな生き方が伝わるがはっきりした意味はよくわからない。野晒悟助は、山東京伝(サン)の戯作に登場する任侠だが、それを河竹黙阿弥が脚色して歌舞伎に仕上げて以来有名になる。

  悟助は、「一休」の弟子ということで僧侶になったが、自らの粗暴さを悔い、月の半分は仏道修行をし、あとの半分は俠客として人助けをし、葬儀屋となる。だから、悟助の衣服や青い袈裟には蓮の花・葉とかススキとかが描かれたり、猫や蓮葉の寄せ絵の髑髏がデザイン化されている。物語としては、ヤクザに絡まれた二人の娘を助け出し、その二人から求婚されるという歌舞伎らしい伊達男のシンプルな流れだ。

 また、刀から下げた下駄にもドクロが浮き出している。さらによく見ると刀の鍔にもお坊さんの持つ払子(ほっす)が描かれていて、抹香臭さのある絵柄だが、悟助の若々しさとの対照が面白い。

  

 京都の民話から。  

 在原業平が旅した時、ススキの原から歌が聞こえた。(秋風が吹くたびに、目が痛い、目が痛い……)と。何事かと業平が調べてみると、足元に髑髏が転がっており、その目の窪みからススキが生えていたという。すると、通りがかった村人が「そりゃあ小野小町じゃよ。昔は京の都でたいそう持て囃されたそうじゃが、歳をとったら落ちぶれて、故郷に出戻ったきり、野垂れ死んでそのざまじゃ」と。悟助の衣服にはこんなはかない背景があった。

 そこから、人の災いを救うには髑髏の目の中の草を抜くが如くせよ、という道徳訓が横たわる。悟助はそれを完遂したわけだ。幕末に五代尾上菊五郎が悟助を公演し、2018年にも75歳の菊五郎が悟助を若々しく艶のある演技で好演している。

    

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バイオトイレやっと復旧 !!

2024-03-27 23:15:11 | できごと・事件

 三週間前、バイオトイレが止まって以来、やっと復旧作業が完了し使用できるようになった。ライフラインがストップした能登地震の困難さが身近な問題となった。さいわい、むかし使っていた、通称ぼっとん便所がなんとか使えたので夜間の使用が辛かったものの、三週間を待つことができた。

 時間がかかったのは、本体の基盤が壊れてしまったため、その部品が製造停止で新たなバージョンの基盤の入荷を待っていたからだ。作業を快く受けてくれたのは、吹田市にある仮釘・隠し釘で有名な「kkダイチク」のバイオトイレ担当だった。

 

 ダイチクは、『バイオトイレ』をし尿とオガクズを資源として捕え、循環型社会に貢献するととらえ、【水を使わない、普通のおがくずを使う、特別な菌は不要、肥料になる】を特徴とするトイレを提案する。こうしたエコな企業理念を打ち出す企業はなかなかない。おかげで今月上旬には、おが屑とし尿ミックスを畑の際に撒いたばかりだ。そんなわけで、石ころだらけの畑は土壌改良がずいぶん進んできたことを実感する。

  

 蛇足ながら、トイレットホルダーを手作りで作ってくれたのは和宮様のご令嬢だった。それも十数年前のことで、廃材だけで暗くなるまでかかって作ってくれたのだった。ロールの中心材ははじめ角材だったものを丸材にするのに時間がかかったようだ。そんな出来事を想い出しながらそれをずっと愛用している。こちらは華奢に見えるが一度も壊れたことはない。

 

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なにこれー、いつからー??

2024-03-25 22:27:25 | できごと・事件

このところ、雨や突風さらには冷温などの気候変動に翻弄され、人間も植物もその変化についていけないさなかにある。先月下旬に咲き始めた河津桜も不完全なまま満開の華美を見せないまま花を落としてしまった。

   

 満開にするべきかどうか、さんざん迷ったあげく満開になる前にタイムアウトとなったようだ。今はもう、葉桜となっている。わが家には、この河津桜と八重寒緋桜が3月20日ごろに満開となり、八重桜の「ショウゲツ」が4月20日ごろに満開となる。ところが最近、人間も植物もどうもくたびれ気味で華麗な花に陰りが見えてきた。

       

 そんなとき、カワヅザクラの根元に「鼻輪」を発見。なぜこんなに食い込んでいるのかわからない。シカの食害を食い止めるためのものか、樹木を支える単なる支柱のためのものか、はたまた、動物をつなぎとめるためのものだったか当局に聞いても答えてはくれなかった。

  

 そしてその近くに、「ヒメコブシ」も咲いていたが、こちらも同じように例年より華麗さに欠ける。枝の一部を強剪定したためかもしれないが、桜と同じ問題があるように思われる。オラが初めてヒメコブシに出会ったときは 2m足らずのひょろっとした樹木だった。それがこんな大木になるとは想像だにしなかった。しかも、それがシデコブシの仲間であることすらわからなかったから、草刈り機の餌食になるところだったのだ。

 

   そんな杞憂をよそに、雑草だらけの第2ガーデンでは「白花タンポポ」が咲いていた。そういえば、二年前に綿毛の種を入手して植えといたものからやっと芽が出てきたというわけだ。シロバナタンポポは西日本に多く、関東では珍しいという。 しかし、中国地方の一部などシロバナタンポポしか生えていない地域もあるらしい。なんとか、その命のリレーを継続してもらいたいものだ。  

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コゴミを移植する

2024-03-22 22:15:25 | 食彩・山菜・きのこ

 わが家と裏山との境は日陰でしばらくデッドスポットになっていた。そこに、コゴミの苗を植え付けてからどのくらいたったのだろうか。コゴミにとっては環境が良かったようでどんどん増殖していき、最近では通路にまで進出してきた元気の良さだった。そこで、畑の方の日陰のあるスペースに十数株を移植することにした。

   

 コゴミの正式名はクサソテツ(草蘇鉄、コウヤワラビ科)。その若芽をコゴミ(屈)といい人気のある山菜だ。灰汁も無く、30秒ほど茹でればすぐ食べられる。若芽の1本だけを残して収穫すれば絶滅することはない。

  

 毎年、4月上旬には収穫が始まるからあと2週間もあれば収穫が始まるが、移植した苗は若芽をつけてくれるかどうか。コゴミは収穫してまもなく萎れてしまうので、スーパーなどに出回ることは少ない。その意味で、貴重な春の山菜だ。

 

 上の画像は、2022年4月11日に撮影されたものだが、それぞれのコゴミは太いランナーの地下茎によってつながっている。防草シートの下にもぐりこんだ根を掘り出すのに手こずってしまった。「放置するだけではいけないぜよ」というわけだ。これから雨が続くという予報なので水をやらなかったが、コゴミの自生地は水辺が多い。シャキシャキとネバネバの食感がたまらない。あと、二週間後が待ち遠しい。

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つまみ食いされたが…

2024-03-20 21:49:04 | 食彩・山菜・きのこ

 今年のフキノトウの生育は気候不安定のせいか思わしくない。今年は全部で20個くらいはできたのだろうか。往年は100個を超えていたのに。近所の放置された所には立派なフキノトウの群落が出ているが人様の土地なので見るだけなのが残念。

  

 だから、まずは採らないでがまんしていたのに、誰かがその芽を盗んでしまっていたのだ。被害は5~6個くらいだった。フキノトウは数年すると移動するように思えた。開拓者としてはたくましいが、同じ場所にいるのは飽きっぽいのではないかと推察している。5~6年もすると、その場所からいつのまにか消えてしまうことがある気がする。

  

 さて、その犯人だが、どうもフキノトウのそばにいたのはタヌキではないかと当局はマークしているようだ。しかし、様子に元気がない。ふつう、人間に見られたらすぐ逃げるのだが、その気配がなかった。正面の毛並みは立派だったが、腹側は疥癬病にかかっているようだった。食べ物が見つからない冬だったからだろうか。カメラを向けるとスタスタと茂みに帰っていった。

 

 あわてて、畑の脇の生き残ったフキノトウを収穫しててんぷらにする。フキノトウはもう終盤になっているようで今を採り残すと食べるチャンスはなくなる。

 

 温かいかけそばの上に、てんぷら・フキノトウを乗せ、畑で採れた「のらぼう菜」と近所からいただいた「ユズ」を添えていただく。今年初めてのフキノトウの味を堪能する。長い冬の寒さを越え、この苦みこそ春の到来を納得させてくれる。

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ボケに癒される

2024-03-18 22:36:12 | 植物

  過密の都会から現在の過疎の田舎に移住したとき、入り口に小さなボケの木があった。それがいつの間にか大きくなった。そのうちに、花が目立つようになり、出入りするときに繁茂した枝がぶつかるほど奔放になってきたので、その剪定をするのが毎年の作業となった。それもそのはずで、場所はイチイの木の陰にあり枝を伸ばす空間がないような環境だったのだ。そうしてついに、ボケはイチイの木を乗り越えて太陽へと近づくという覚悟をしたのだった。その結果、ついにイチイを大きく超えることができたのだった。ふつう、ボケの樹高は1~2mなのに4mくらいは伸びていた。いやー、その生命力に驚嘆するばかり。

   

 そこで、これは剪定した枝で挿し木をやってみようと数年前から開始する。最初は失敗していたがだんだん根を張ってきて、今では1年後には花を咲かす個体もチラホラ出てきた。今の時期、花はまだ少ない単色の景色の中でこの見事な朱赤色をみるとホッとする。

 中国ではボケのことを「木になる瓜」つまり「木瓜」と表記し、「もけ」とか「ぼっくわ」という言う。それが日本で訛って「ボケ」になったと言われている。

   

 昨年の11月上旬にバタフライガーデンに植え付けたボケの苗に花が咲いた。過酷な冬を乗り越えた二年生だ。12本植えたが10本に花をつけてくれた。寒冷紗もかけないのに結果を出してくれたのは日当たりが良い場所だったからなのかもしれない。

 ボケの花言葉のなかに「先駆者」「指導者」というのがあるが、それは織田信長が家紋として木瓜紋(モッカモン)を使用したことに由来するらしい。この10本は初めて植え付けたのに花をつけてくれたとなるとまさに先駆者に見える。

 

  夏目漱石は『草枕』の中で、「木瓜は花のうちで愚にして悟ったものであろう。…余も木瓜になりたい。」とある。つまり、ボケから「世渡りの下手なことを自覚しながら、それを良しとして、あえて節を曲げない愚直な生き方」(半藤一利)を無理なく選択している姿だ。オラもボケのように生きていきたいと思うのだが、それは孤立をも覚悟しなければならない。

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福岡の今を創った男たち!!

2024-03-15 21:57:14 | 農作業・野菜

  明治維新が終わって間もない、明治12年(1879年)福岡に「玄洋社」が誕生した。その顔触れを見るとそうそうたる人脈と幅広いビジョンを持った活動に目を見張る。事実上歴史に抹殺されたその歩みを発掘した、石瀧豊美『玄洋社発掘 / もうひとつの自由民権』(西日本新聞社、1997.8)を読む。

 民権運動といえば高知の「立志社」が有名だが、「玄洋社」の名前は知らなかった。オラの生齧りの知識からは壮士的な右翼組織くらいにしか思えなかった。

  

 しかし、その社員名簿や関係者には地元の実業家・政治家に根差した人脈が多いことがわかった。総理大臣になった広田弘毅、吉田内閣のときの副総理で朝日新聞福社長・緒方竹虎、作家夢野久作の父であり政財界のフィクサー・杉山茂丸。

 日独伊三国同盟を支持していた衆議院議員・中野正剛は、日本のアジア主義は白人の帝国主義に対抗するものの「別個の帝国主義」の傾向を持つとして、独裁的な東条英機と対立する。学生だった竹下登は中野正剛の演説を聞いて感動し政治家を志し戦後総理となった。柔道家で黒龍会主幹の国家主義者・内田良平は、フィリピンのアギナルド・インドのボース・中華民国の孫文らの革命運動・独立運動を支援する。

  

 知られていない接点として、中村天風は「玄洋社の豹」と言われるくらい狂暴だったが頭山満に預けられ、その後軍事スパイとして満州・蒙古で暗躍、戦後は自己啓発の思想家として松下幸之助・稲庭和夫や松岡修造・大谷翔平らに影響を与え実業界やサラリーマンにファンがいまだに絶えない。かくのごとく、オラが知っているだけの著名人を挙げたが、福岡県人なら玄洋社に関係するもっと多くの人脈を羅列するに違いない。

 

 注目するのは、地元の代議士・警察・侠客・経営者・県知事・格闘家・ジャーナリスト・軍人・医者・大学教授など多様な階層からの人物が参集し、その一部は、藩閥政府への対抗とする萩の乱・福岡の乱・秋月の乱などへ元士族が命がけで参加している。

 外務大臣だった大隈重信を暗殺しようと爆弾を投げ未遂事件を起こし、右足切断の重傷を負わせたメンバーもいたくらい武闘路線も断行していた。それらの活動は戦後のGHQににらまれ右翼団体とされ解散させられた。そうした活動の資金は、炭鉱経営に着手していたことにある。その経済面への突っ込みがあると本書労作の価値もより高く評価されると思われた。

 本書増補版の表紙中央には玄洋社を産み出したと言われる眼科医の女傑・高場乱が牛に乗っている絵がみられる。そして彼女の「小伝」が章立てに加えられている。というのも、母屋の治療院の離れに弟子たちが建設した「興志塾」があり、高場乱は荻生徂徠の流れを汲む古典、論語・孟子・史記・三国志などを伝授していた。ここから、頭山満をはじめとする玄洋社の個性的な中心人物が輩出していく。今でいう松下政経塾のような場所のようだ。

 

 さらに、黒田藩の藩校として「修猷館」が開校され、明治末には県立学校となったが、名前は今も使われている。ラグビー・柔剣道・野球などのニュースにもときどき出てくる。ここの出身者にも、金子堅太郎・緒方竹虎・中村天風・中野正剛・夢野久作・広田弘毅・團琢磨などがおり、玄洋社の活動をはじめ政財界・文化の一翼を担ってきた。玄洋社の柔道は強いことで有名であったのも、興志塾・玄洋社・修猷館の存在は見逃せない。本書の社員名簿などの資料編が圧巻だ。

   (読売新聞西部本社編、2001.10)

 要するに、玄洋社は右翼とかテロ組織とかの範疇では語れない柔軟な組織ということだ。それは、頭山満の人間力の賜物だと言っても過言ではない。日本の似非アジア主義のなかで、頭山満のアジア主義は無私の「敬愛」精神にみなぎっている。政治と金にまみれた今日の政治家は玄洋社の基本を大いに学んでほしいものだ。「読売新聞西部本社」が発刊した『頭山満と玄洋社』には、地道な資料を画像化している。こうした発掘作業が歴史学者をはじめとしてレッテル貼りされた封印からの解放を期待したいものだ。

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貧乏だったけど昔のほうが楽しかったなー

2024-03-13 21:47:39 | 出会い・近隣

 定例の寄り合いが終わってから、70歳前後となった元「青年たち」に思春期から青春時代の話を聞いてみた。おおまかにまとめると。

 まず第一は、お酒の話。

「酒にすべてを注ぎ込んだような青春だったよ。ひとり1升飲むのはふつうで、近所の家を軒並み訪問してはそこで飲んだものよ。当時はどこの家に行っても同級生がいたからね。みんなで1斗や2斗はぐいぐい飲んだかもね。」

  

 第二は、学校でのこと。

「中学・高校になると寮生活があって、物理的に親子の接触がなかなかなくなってしまってさみしい思いが残った。そのぶん、いまでは孫たちも含めときどき賑わいある関係がとりもどせている。」

「<部活>も一年に休みが4日くらいしかないくらい猛練習を積んだのに、県大会ではいつも連敗続き。でもそれが今の仕事の頑張りに生きている。」

「国道がまだ舗装されていなくて、買ってもらった自転車で通学していた。山からガタゴト降りてきて帰りは暗くてしかも急坂を登るのがとても大変だった。雨の日はぬかるんでさらに最悪だった。」

   

 第三は趣味のバイク。

 「時代がバブルでオートレースブームがあったせいか、バイクに収入の大半をつぎ込んでしまった。その経験から自分は機械いじりが好きだったんだと今にしてわかった。現在の仕事もその影響が強烈だからだと思う。 スポーツは嫌いではなかったが、今思うに先輩に言われたとおりのレールを走っていただけからなんだな。」

 「親父に内緒でバイクの後ろに女の子を乗せて坂の上まで往復でガタガタ道を走ったな。ドキドキしながらスリルを楽しんだもんよ。だけど、坂から転倒してバイクを壊してしまい、親からえらく叱られたことがあった。」

    

   第四は、青年団活動 。 

  「町内に9つの青年団が次々結成されていって、若者がおよそ200人くらいいたかね。だから、そこからいろんな経験や人間関係を学べたね。また、それをきっかけに夫婦になったカップルも少なくなかったよ。婚活をやらないでも済んだってことだね。」

 「祭りの目玉として山の小学校の校庭に舞台を作ってそこで青年団オリジナルの芝居を上演したんだよ。また、子ども会やそのリーダーズクラブを結成して、宿泊研修会をお寺で開催したり、クリスマス会・ダンス会・キャンプファイヤーなどのイベントもやったし結構忙しかった。」

「青年団対抗駅伝大会もあってうちの地区では3チームもできて優勝候補だった。毎晩練習していたから体力だけは自信があったということだね。」

  

  第五は、街での修業。

 「家を離れて街なかで職人の修行をやっていた。当時は弟子の数も多く、技術も習得できていった。だけど、現在は技術がなくても機械がやってくれるから素人でもできちゃう。」

 「修業の合間に大都会に行ったりしていろいろな人や文化から学ぶことができたけど、田舎にもどってきて、あらためて田舎の良さをしみじみ再認識できた。」

  

  第六は、地域の生き物とのつきあい。

  「地蜂の穴を見つけて、夕方それを掘り出しに行くのが楽しかったね。
 アナグマやイノシシの捕獲は思い通りにはいかなかくて苦労したね。シカ・サル・カモシカは山奥にいたので、あまり見かけなかった。また、当時は害獣を捕獲しても報奨金は出なかったんだ。」               「朝と夕方はいつも川で釣りをしていた青春だった。県内のほとんどの川は制覇したよ。その延長に今の自分の仕事につながっているね。」                 

                                                  
   第七は遊び・娯楽。

 「中学のとき同級生たちと棒高跳びに熱中して暗くなるまで遊んだ。棒はもちろん近くの竹林の竹を使ったよ。東京オリンピックの影響があったかもしれない。」                                                         

 「テレビのある家が数軒しかなくてみんなでプロレスなどを見に行ったっけ。当時の映りはガーガーしていてよく見えなかったけど。」

 「寄合が早く終わるのを待って、すぐに麻雀・花札等の賭け事を始めたという時期もあったっけな。」

  そして、最後に。
 「各家庭に子どもが4人いるのが地元の標準でした。だから、4人を目標に懸命に子育てしたものですよ。」

 「貧乏だったけど昔の方が楽しかったなー。<昔は仕事に追われたが、今は金に追われている>というが、本当だね。」

 「都会の拡張は、目先だけの刹那的なものに追われ、なんでも商品化にしてしまうが、<自然>豊かな地方は、都会が失ったものがまだ残っているのが救い。だから、その価値を再発見して磨いていく、というのが地域の宿題だと思うよ。」

 

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水源地を掃除に行く

2024-03-11 21:26:58 | 出会い・近隣

 二か所の水源地を集落の5人で掃除に行く。ここ数年の大雨や台風の影響で取水しているわが集落の上流の状態を確認がてら掃除をしていく。取水地に行く林道も軽トラでないとパンクや脱輪の恐れがあり、途中からは徒歩となってしまう。水道組合の集落12軒を最近当番制にしている。三カ月に1回まわってくるからけっこう回転が早い。というのも、最近の自然災害がじわじわと酷くなってきたためでもある。気候変動対策が地球的に問われているが、なかなか便利と営利にはかなわない人類への祟りである。

  

 川の上流に設置された取水タンクの中に溜まった泥や砂をかき出す。この山奥の水が麓の水道施設のタンクに集められ、業者の水質検査及び残留塩素の測定などが行われる。十数年前は住民管理だったので塩素処理もなかったから、地元産のお茶がとても旨かったのは事実だ。今はときどきカルキの臭いが気になるときもある。

 

 

 集落の高齢化が進行するなか、この作業がいつまでもつかはわからないが、個人の当番制からグループによる当番制にしたのはまずは集落の知恵でもある。大都会に住んでいたオラにはこうしたライフラインの保守は人ごとだった。まさに、住民自治を声高に言わなくても粛々と実行している過疎地があること、人間がいることを忘れてはならない。

 

 次に、第二の川の水源地へ向かう。ここも途中からは徒歩だ。道路は行政から生コンの現物支給による作業で住民が作った立派なコンクリート林道だ。ここの取水タンクはより急峻な上流にある。パイプ支柱で作った階段を手すりをつかみながらゆっくり登っていく。

  

 ここの水源地では網の目を清掃する。冬は川の水が冷たいし、春や夏はヤマビルがしっかり出現する。川の水量が無くなってくると水道施設のタンク水量も減り、水道水制限の連絡をまわさなければならない。そんな手間はかかるが、月額の水道料は1500円という格安だ。しかも今のところ、タンクに水さえあれば水道水はつかい放題だ。

  

 だから、水源地へ行く手造りの道路も石ころや杉葉を除去していく。さいわい、集落の中に建設業に携わる住民もいるので道具やユンボは無償で提供される。都会では考えられない住民パワーと生きる力と知恵が凝縮されている。地域を支える原点がこの過疎の地には生きている。

 

 

 

 

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江戸より続いた平安王朝、その復権!?

2024-03-08 21:42:13 | 読書

 戦国時代で視聴率を忖度してきた従来の大河ドラマに対して、今回の.大河ドラマ「光る君へ」の平安王朝を対峙させた意味が大きい。それを提起していたのが、関幸彦『藤原道長と紫式部 / 貴族道と女房の平安王朝』(朝日新聞出版、2023.12)の新書本だった。最初にページをめくった冒頭に、著者は「<王朝時代の復権>。本書の目的はズバリこれに尽きる」とまえがきに投げかけた。

 

 まさに衝撃的だった。従来の大河ドラマの基本は男性中心社会そのものを描くことだった。いわば、日本の戦うサラリーマン戦士の栄養ドリンク剤でもあった。大河ドラマが放映されるたびに、「また戦国・幕末かよ。たまには、信長・秀吉・家康を抜きにして光が当たらなかった逸材を掘り起こせよ」とオラは毎回のようにほざいていた。もちろん、命がけの戦国武将らの生きざまはそれなりに人間の生き方の波乱万丈を示す手引書であったことは否めないが。

 

 そんな中、「道長と紫式部」を対等に描いていくというところが象徴で、そこに脚本家・大石静の戦略がある。当時の女性の本名は無いと言っても過言でない。紫式部も清少納言も本名は不明だし、『更級日記』の作者は菅原孝標の女(ムスメ)、『蜻蛉日記』の作者は藤原道綱の母という具合。

 また、独裁者のイメージが強い道長の実像は文武両道に優れ、紫式部を支援し自分も和歌をたしなむ文人の面が見落とされていた。自分の娘を天皇の后にしていき、摂政・関白として天皇を「操る」戦略も見え見えだとしても、女性たちのパワーはそうそう負けてはいない面もうかがえる。今回のドラマはそんなところに光を当てている。

  

 日本は中華思想の影響を受けてそれをグローバルスタンダードとして真似てきたが、国の内外の矛盾は王朝時代を現実的なローカルシステムへと移行させていく。そこに、女流文化というものが従来にはないアイテムとして花開いていく。その条件には、天皇や藤原氏の攻防が錯綜していき、女性たちの存在感が文学という形で時代を動かしていく。

 なにしろ、徳川300年の歴史を大きく上回る400年ほどの平安文化の存続の秘密を探りたいものだ。それが日本文化の基底となっていくのだから。

   

 著者によれば、平安時代は中華権威主義文明からの離脱にあると言う。それは、漢字表記から仮名字表記への革命であり、そこに女性の果たした役割も大きい。同時に、天皇の名前も「天」とか「文」とか「武」とかの中華皇帝表記のまねではなく独自性を発揮したことでもあり、天皇は政治の中心ではなく象徴・文化のシンボルとなり政治は貴族官僚の請負とすることで、逆に世界でも珍しい天皇制の永続を獲得して今日に至る。

 

 道長・式部という対照的な立場を題材にして、日本的に熟成しつつある王朝国家の本質を俯瞰した本書の鋭さが小気味いい。

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