山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

沸騰地獄でもデッカイどー!!

2023-07-31 22:09:19 | 農作業・野菜

   朝から動く気力がない。この炎天下に身をさらすのは危険でもある。だから、朝から朝寝の日々がルーティンワークになりそうな勢いだ。そうして、雲の様子を見ながらおもむろに畑に出る。こぼれ種から芽を出した「トウガン」の苗を畑の畝に移植していたが、そこに実が次々できていた。柵の上に生えていた葉はシカに食べられていたが、実には届かなかったようで無事だったー。

         

 また、こぼれ種をそのままにしていたトウガンの群落では40cmはある見事な実を発見。ふつうなら棘がなくなりツルツルを待って収穫するのだが、野菜ジュースにするのですぐに収穫することにする。この沸騰する炎天下でも冬瓜は、水分をしっかり確保していてずっしり重い。

  

 いっぽうそのすぐ近くにも、こぼれ種で成長した飛騨カボチャが元気なツルを伸ばしている。肥料をやっていないうえに、灼熱の気候下でも葉の色つやが良い。ひょっとするとと根元近くをかき分けてみたら、期待通りのカボチャの実がしっかりできていた。こちらも40cmくらいの大きさがある。

          

 昨年はカボチャ栽培に失敗していたのでありがたいと手を合わせる。こちらはもう少し熟成してから収穫することにする。この大きさだと、所によっては千円以上の高値で売れるほどなのだ。初めて飛騨カボチャを食べたとき、その旨さに伝統野菜の誇りに納得する。しかしその後栽培してみると、味にもいろいろ差があるのが分かった。「いい種」を確保できるかどうかも大切なように思える。

 「こぼれ種栽培法」のオラの畑は、次はエゴマ・ハブ茶・ゴーヤがすくすく伸びている。もちろん、でかい青シソ・赤シソが通行を邪魔している。シソはさっそく、野菜ジュースには参入してもらっている。沸騰する炎天下でも、わが家のぐーたら農法は健在である。

 

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都市を終わらせる / 都市の裁きと訣別せよ

2023-07-28 22:10:29 | 読書

 「都市を終わらせる」という表題が衝撃的だった。それで、その本を探したが高価だったので中古でやっと買い求めた。それが、村澤真保呂『都市を終わらせる』(ナカニシヤ出版、2021.7.)だった。都市化つまり都市の拡大は、農村を隷属しながら外部の資源や人材を吸収し、自然を破壊していく過程に他ならないとして脱都会を説いた警告の書だ。

     

 そう言えば、オラが髪の毛が邪魔だった1960年代後半、映画監督の羽仁進の父である羽仁五郎の『都市の論理』という本がベストセラーだった。西洋の古代・中世の都市国家の自治・自由を謳歌した独断的だが羽仁五郎のスケールの大きい人格が伝わる本だった。また、経済学者の宮本憲一の資本集中が合理的な都市の利益集積となり、結果的に公害をまき散らすという都市論・地域開発論にいたく触発されたものだった。

   

 そこで村澤氏は、「都市生活によって失われた自己の生の力能を取り戻す…都市に代わる新たな生活空間をつくりだす」ことを提起している。総論の方向としてはわかるがもう少しそれを論証するような事例が欲しかった。著者は、近代の都市化には数百年かかっているのだから、脱都市化にも同じくらいの年数がかかるとしている。そう言われてしまえばそうだろうと言うしかないが。

         

 従来の都市化は、農村から都市へと言われてきたが、東京の一極集中については、周辺の都市が東京へ吸収されるような「都市から都市へ」という新たな「超都市化」現象が起きていると分析する。これをより高度化するにはオリンピックを招聘するというウルトラCに頼ざるを得ないわけだ。しかしその実態は利権の複合的な競争だったのはご承知のとおり。祭典の裏には利権の旨味が溢れているのをつい見失う。

         

 したがって、自らの生の力能を都市から奪い返すためには、私たちの共同性を回復し、何らかのし方で「大地」と結びなおすことが肝要と著者は説く。そのためにも、「共感と寛容」を失った大阪維新の会の橋本徹ら新自由主義・ポピュリズムを批判している。また、知のアカデミーを捨て、教養科目を削減し経済第一主義とする大学が就職予備隊に変容してしまっている現実を告発している。

          

 そうして、都市に支配された現実は、少子化・過疎化・自然破壊・人間の孤立化など枚挙にいとまはないくらいだ。オラの住んでいる中山間地でも、昔は山の樹を数本伐採すればそれだけで一年間暮らせたという話をよく聞く。そこには山をなりわいとした集落があり暮らしが形成され、里山と人間、人間同士のネットワークが成立していた。今は集落ごと消滅してしまう事態も招いている。これが「豊かさ」の現実でもある。

        

 里山再生の活動にも邁進している著者としては、そこを本書でもう少し展開してほしかった。著者は、都市と農村、保守と革新という従来の対立軸ではなく、「共同体を守る」ことを共通項とした市民運動に活路を見出している。そして、脱都市化が危機克服のカギとすれば、新自由主義的な消費文化への依存・加速からの脱却から始めなければならない、とする。

     

 換言すれば、「地球規模の巨大市場経済に依拠する先進諸国の都市生活は、自然資源を過剰に消費するため、地球全体を持続不可能な状況に陥らせる原因となっている」わけで、それには、自給自足を主流とする中世のように、「自然環境が維持される範囲内で政治・経済・社会活動を営むこと」にもどるべきとする。

            

 本書のタイトルは最初「都市の裁きと訣別するために」だったそうだ。「都市の裁き」の意味がわからなかったが、本書を読み終わって初めてその意味に納得をした。しかしもともとは、フランスの俳優・思想家のアントナン・アルトーの作品『神の裁きと訣別するために』のパクリだということだ。村澤氏は、「<都市の裁き>によって裏側に追いやられた自然ー雨や風、細菌や昆虫、動物や私たちの身体を含むーを何らかの形でふたたび表側にひっくり返す…時代に私たちは生きている、という観点」をこめている。オラのブログで昆虫や植物や過疎を取り上げている意味にやっとスポットが当てられた気がして励まされた思いでもある。

 かくも犠牲者が出ているのに、神はなぜ「沈黙」しているのか、幻想と便利を振りまく都市はなぜ人間を解体させてしまうのか、巨大な「神の裁き」「都市の裁き」からオラたちは自立できるのだろうか。

 

 

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またやらかしたかー

2023-07-26 20:35:43 | できごと・事件

 周りに咲いていたアジサイはそろそろ終盤の兆しだが、ノリウツギの純白の花は健在だ。開花が長いのがうれしい。しかしながら、その近くの葉が食べられていたり、ひどいことにいくつかの若い枝が折られていた。

            

 この折られ方からすぐに犯人はシカであることがわかる。防獣網がまだ半分しかできていないことをいいことに、秘かに侵入したらしい。幹がある程度太くならないと食害が続く。先日は隣に植えたカボチャの若い苗の葉をすべて食べられてしまったり、苗を引っこ抜いたりされたこともあったばかりだ。

            

 さらに、若い梅の樹もたびたび葉や枝を食べられてしまい、成長が止まっているままだ。梅は侵入して一番先に食べたようだ。それでも梅は、懸命に葉を伸ばしているのがいじらしい。なんとか防禦をしたいところだが追いつかないのが実情だ。

               

 そのうちに、近くの桜の葉が食べられてしまった。何度も食べられていたので、ブルーシートで仮の柵で防禦したものの、桜の成長が著しく、飛び出た葉や枝を食べられてしまったのだ。そのためやっと当局は、重い腰をあげて防獣柵を広げたり、高さをかさ上げしたり、相変わらずの目先の対策しかやってくれない。

               

 ブルーシートを外すと、食べられている所とそうでない所が明確にわかる。今までさんざん被害にあってきたので、逆によくここまで成長してくれたなと感心するばかり。

        

 ここ数日間は、その対症療法的な防獣柵で今のところ被害は収まっている。山に近いわが家は害獣の被害は頻繁だが、平地で住宅がすぐ近くにある近隣でも最近はシカの出没が重なったようで、防獣柵を設置し始めた。

 2010年、名古屋で開かれた生物多様性条約に関する国際会議で、「里山イニシアティブ」が採択された。従来の自然観は人の手が入らないような純粋な自然保護を主流とする欧米型から、人間と自然とを対立させないでその共生を取り組んできた日本の「里山主義」が注目された。それは害獣と人間との境界がそこそこ守られてきた経過がある。その意味で、里山の復元に着手していく方策が必要なのだがねー。

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炎天下でもなんのその

2023-07-24 23:04:14 | 市民活動・まち育て

 昨日の日曜日は炎天下の中のプレイパークだった。西田夫妻が準備してくれたテントで日陰ができたし、午後は木陰ができていった。さらに、軽トラック2台を使ってなんとプールができていたのだった。この発想にはため息が出るくらい斬新だ。ご夫妻の並々ならぬ心意気が反映されている。沢の水がチョロチョロのハプニングはあったものの、子どもたちはしばらくここから離れなかったのは言うまもない。

           

 いっぽう、お父さん方は羽釜で炊き込みご飯や味噌汁の定番ランチを用意していった。さいわい、雲も出てきて酷暑は回避できた。オラも久しぶりにテントの下でモカ珈琲の生豆をフライパンで焙煎する。火力が弱く浅煎りとなってしまったが、野外で焙煎したコーヒーを飲めるだけでもおとなにとっては愉快な世界となる。締めは、ハブ茶の原料のエビスグサの豆を焙煎してみんなでいただく。

          

 そのうちに、ご飯もできてランチとなる。今までのなかでも最高の出来の釜炊きとなった。古典落語じゃないが、「釜のフタが開けけられる」幸せを実感した瞬間でもあった。羽釜で炊くご飯はテレビで見るバーチャルな情報となっているが、ここではリアルな現実なのだ。

             

 手作りの「コンポストトイレ」を利用する。こんなときにも、バイオトイレで地球に負荷をかけない生き方がさらりと同伴してくれる。トイレットペーパーホルダーはたまたま来ていたオラの娘が、後日マクラメや太い糸を編んで作ってくれたものだった。

         

 食後は、常連の電子ピアノが登場して親子の楽器演奏会となる。参加者家族は二けたには達しなかったものの、このゆったりした穏やかさには、ミサイルも殺人も兵器も無縁な世界であることを再認識する必要がある。そうした世界を若い西田夫妻はさりげなく創り出していることを忘れてはならない。

 こうした活動を推進していくには情熱だけでは長続きできない。そろそろ限界点に近づいているのを二人はすでに察しているのがわかった。ここをどう打開できるか、正念場を迎えているのは間違いない。仕事・家庭・農業・活動との両立はどれだけ可能か。オラも後方支援の応援団としてなにができるかを模索しているところだ。

        

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ちょっと見ではイチモンジみたいだったが…

2023-07-21 22:47:21 | 生き物

 連日のように、わが家の灯火を頼って生き物がやってくる。蜘蛛は無賃の同居人として居座ってしまっている。ときどきゴキブリも出てくるが、汚い民家の割には少ないともいえる。同居人の蜘蛛が家賃代わりに警備を担ってくれているのかもしれない。何と言っても目立つのは大小様々な蛾で、昨日は「シロスジトモエガ」(ヤガ科)が久しぶりにやってきた。

      (画像は2019.9.25我がBLOGから)

 最初は、「アサマイチモンジ」(上の画像)かと思ったが、蝶が灯火に来るはずもない。まずはその蛾を捕捉してその特徴である左右の「巴紋」を確認。また、その触覚を見ると間違いなくメスだった。メスの触覚は真っ直ぐな「鞭状」、オスは羽のような「櫛歯状」。

      (画像は2015.6.2マイBLOGから)

 ちなみに、以前捉えた「シロスジトモエガ」(上の画像)はその触覚からメスだったこともわかった。トモエガの中でも、シロスジトモエガは北海道や北東北にまで分布を広げているなかなかの覇者ということだ。   

 また、トモエガの模様は現代アートのような気配がある。個体差も多様過ぎるくらいだ。そういう模様の面白さから、外国では蝶より蛾の方が人気があるらしい。さらに、その特徴の渦状の眼状紋は相手に睨みを利かす防禦機能があるようだ。引きこもり状態のオラの狭い「井戸」からでも、広い世界が見えてくるのが愉快至極ではないか。若者よ、闇バイトなんかやっている場合ではない。

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きらびやかな品格の花

2023-07-19 22:17:08 | バタフライガーデン

 雑草の海となったバタフライガーデン。そこにひときわ目立つ花が咲いていた。二年目の「ヒオウギ」(アヤメ科)だった。昨年、種まきしてまもなく花が咲いたのでびっくりしたのを想い出す。種を蒔いてもなかなか花を咲かすのは至難の業であることを実感していたからだ。

           (画像は、hana300.comから)

 ヒオウギの葉は、扇の形をしていることから名前がつけられた。平安時代の歴史書『古語拾遺』によれば、厄災が村を襲った時、このヒオウギで扇いだら元に戻ったと記載されているという。そのため、祇園祭のときにこのヒオウギを民家の軒先に飾って「魔除け」にしている。疫病忌避の祇園祭らしい伝統だ。したがって、京都ではヒオウギが生産され24000本の出荷があるという。

              

 俳人の石田破郷は「射干(ヒオウギ)も一期一会の花たらむ」と詠んでいる。つまり、ヒオウギは朝に花が咲いても夕方には花が閉じてしまう一日花だからだ。破郷らしい謙虚な人生句でもある。ユリのような煌びやかな花も一日で終わってしまう儚さがありながら、翌日には新たな花が続いていく希望の花でもある。ヒオウギの生薬名は「射干(ヤカン)」といい、それを「射干(シャカン)」と呼ぶと、「シャガ」の花をさす。紛らわしい。

      (画像は、京風庵大むらcomから)

 ヒオウギは檜の薄い板2~30枚を綴った扇だ。宮廷で儀式のときなどに用いられた扇で、和宮様によれば日常では使われず、高貴な方が持っているものだそうだ。そういえば、宮中の御成婚の時の写真には十二単を着てこれを持っていたような気がする。

       

 ヒオウギの園芸品種では、黄・白・紫もあるようだが見たことはないし、原野にも咲いていたそうだがそれも見たことはない。近年は各地で激減しているという。また、「ヒメヒオウギスイセン」という似通った名前の花もあり、混同されることが多い。この花の高貴な品格の周りは混とんとしているが、本人は今年も雑草にめげず懸命に命をつないでいる。

 

 

 

 

 

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謎だらけの羽衣だが…??

2023-07-17 22:58:50 | 生き物

 日本各地で39度・40度を超える暑さが襲っている。地球の軋みが現実となっているが報道は暑いことしか伝えられない近視眼にうんざりする。きょうは炎天下での農作業はやめて、日陰で蚊取り線香を点けながら、雑草に負けそうなポット鉢の整理に追われる。そんななか、ケヤキの葉にナニコレ珍昆虫を発見。 

          

 植物の茎に吸汁している白っぽいアオバハゴロモかと思ったが、「ベッコウハゴロモ」の幼虫(ハゴロモ科)だった。形は金魚のような、セミのような、ロケットのような怪しい雰囲気をまき散らしている。畑にある桑の木・茶樹・ヤマウドなども吸汁していたのかもしれないが、ワグネルほどの残虐性はない、控えめな農業害虫のメンバーでもある。

 何と言っても、お尻にある羽毛のような「毛束」ファッションが、モデルの山口小夜子顔負けの異形なスタイルを発信する。ロウ物質でできている毛束というが、その意味するものがわからない。敵からカムフラージュするくらいの効果はわかるが、「羽衣」と言われるほどの注目を浴びる必要はあるのだろうか。

    (画像は、「石黒の昔の暮らし」webから)

 ハングライダーのような成虫は蛾としか見られないが、カメムシの仲間に分類される。翅の模様のようすから、「べっこう」という名がついたようだ。羽衣をロウ物質にしなければならない理由、そしてそのスタイルは謎だらけだ。宇宙を争奪するより、こうした身近な謎を無駄な予算を分散してわかりやすく解明してもらいたいものだ。

   

 

 

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小三治・圓楽の「芝浜」

2023-07-15 10:06:01 | アート・文化

古典落語の世界が面白くなってきた。車の運転をしながら幾度となく聴くと、わかりにくい言い回しもわかってくる。江戸庶民を主人公にした心意気が暖かく伝わってくる。

 十代目の柳家小三治(1939.12生~2021.10没)は人間国宝(重要無形文化財、2014年)にもなった逸材だ。本題に入る前の「まくら」の絶妙な話術には定評がある。今回のCDには残念ながら早めに本題に入ってしまって受け取れなかった。派手さはないが寄席では立ち見ができるほどの名人だ。

             (以下のイラストは、stock adobe.comから) 

  この録音は、1988年10月に行われた独演会のもの。脂がのってきた48歳のときの独演会で、完成度が高い人情噺となっている。拾った金は52両。肩の力を抜いたさりげない語りに、すでに哲学者らしい風格が漂ってくる。孤高の存在と言われた小三治は「落語って面白くて楽しいんだけどね、哀しいんですよ。が、それを楽しく、力強く、くだらなく、生きていくっていう、その凄さ」にこだわる師匠でもある。

           

 一方、五代目三遊亭圓楽(1933.1生~2009.10没)の語りは、アナウンサーにしてもいいほどに歯切れがいい。勝五郎が拾った金は42両。スタートからすぐ夢に始まる出だしは斬新、その意外性がまさに名人級。また、酒の風呂で溺れたいという勝五郎の発想もスケールがでかい。昭和41年(1966年)に開始された「笑点」の第1期生でもある。名人五人の「芝浜」を聴いたが、個人的には五代目圓楽のさわやかな語りがオラには一番フィットした。ちなみに、六代目圓楽は元楽太郎だが彼も冥途への旅に出てしまった。

           

 「釜の蓋が開かない」ほどの貧乏暮らし。大晦日に飲んだ「福茶」は健康長寿・無病息災。研いだ包丁が錆びないようそば殻に入れておく等々、古典落語から初めて知った江戸庶民の暮らしぶりは、きわめて心意気が高い。マイノリティーを取り込む寛容さ、殿様をコケにする反骨精神、洒脱な文化を愛する粋なふるまい、貧乏暮らしにも忘れない心の余裕等、今日のマスコミを跋扈しているお笑い芸人の底の浅さを穿って止まない。それだけに、絶滅危惧種の古典落語が世界文化遺産になることを強く推奨したいものだ。

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毒蛾ではなかった

2023-07-12 19:19:20 | 生き物

 野生化したイチゴの群落の近くに毒蛾の幼虫らしきものを発見。触るのは危なそうといつもの透明の昆虫ボックスに入ってもらった。ドクガ特有の背中のまとまった「毛束(ケタバ)」がなく、前胸に対となった長い毛束もないので、ドクガではないと予測する。

         

 そこで、毛むくじゃらの毛虫は「ヒトリガ科」に多いので、そこを小学館の『イモムシとケムシ』のチョウ・ガの幼虫図鑑で検索する。クワが食草というので、たしかに畑には大きな桑の木がある。昨年から病気にかかり実にも障害も出ている。石灰を撒いたが改善していない。大胆な強剪定しないと改善しないらしい。そのせいだろうか、幼虫がイチゴ群落までやってきたというのは。

    

 幼虫の発達段階で姿が大きく変わるのでいつも同定が難航する。それでもなんとか、赤と黒のツートンカラーの「フタスジヒトリ」と同定する。ドクガに擬態して敵を欺いているようだ。逃げ足は意外にも早い。

         (画像は、岐阜大教育学部理科教育講座から) 

 成虫は、翅に「X」字状というか「大」字状というか、その模様がシンプルでかっこいい。人によれば、ウルトラセブンの敵=白地に黒の怪獣「エレキング」みたいだというが…。この毛虫は、毛むくじゃらで「熊毛虫(クマケムシ)」とも言われている。ドクガに見せながら戦わずに生き残りをかける戦略は、力による一時的な支配よりはかなりしぶといのではないかと思われる。

           

 名前の「フタスジ」は、成虫の帯状の筋を言いたいらしい。「ヒトリ」は、街燈にやってくる「火盗り」から。「ヒトリ」には悲哀のストーリーがあるといいなと期待していたが。夏の季語でもある「ヒトリガ」は日本固有種でもある。        

 

 

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小柄だが有能な騎士である

2023-07-10 22:03:28 | 自動車・エンブレム

 街に出る機会はかなり減ったが、ときおり珍しい自動車のエンブレムを発見する。今回は車の正面フロントには「E-tune」とさりげなく文字が見えた。メーカーはスバルのようだ。「tune」とは、チューニングという言葉があるように調節とか調律とかの意味がある。これはどうやら、路面の凸凹やぐらつきを調整することで走行性能を向上させる機能をさらにアップデイト・更新した車であることを示しているようだ。

           

 スバルと言えば、航空機生産を担ってきた旧中島飛行機を中心に6つの企業体が合併した自動車会社だ。オラが物心がやっとついてきたとき、小さな「スバル360」がよく見かけてきた想い出がある。性能と安全性で信頼を得て以来、北米にも販路を拓き人気を博した。

           

 スバルのおなじみのロゴのバックは青が中心だ。稀に赤や黒も見たこともある。緑があるというがまだ出会っていない。群馬県太田市にある本工場の地名は「スバル町」という。住民はいないそうだが、近隣には南米日系人が多く住む城下町となっている。トヨタ・ホンダ・ニッサン・スズキに食い込んでスバルの健闘が光る。まさに、六連星の昴として大志を掲げているように見えるが。

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