山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

浮世絵は謎解きの絵図

2024-05-17 10:48:49 | アート・文化

 初代歌川豊国の「役者見立ての渡し船の図」の役者絵に注目した。背景は隅田川の桜の土手の春景色だ。大判の錦絵の5枚つづりの右端図だが、全容は分からない。正面手前に2艘の渡し船。三人は右から三代目尾上松助、七代目市川團十郎、初代岩井紫若の役者が、それぞれの当たり役の扮装で乗船している「見立て」絵で、構図が素晴らしい。当時の人は、この絵を見ただけでそれぞれが誰であるかがすぐ分かったようだ。

 

 版元は「出」に似た記号だった。いろいろ調べたが、やっと「今川屋丑蔵(文芳堂)」のようであることをつかめたが、あまり見かけないマークだ。小さな版元なのだろうか。豊国をデビューさせて応援していた版元の和泉屋市兵衛(甘泉堂)ではなさそうだ。ほかにもかなりの版元があるのがわかった。その意味で、浮世絵の多くを手掛けた大手の蔦屋重三郎のマークは圧倒的だ。

 といっても、写楽・歌麿人気を独占的に手中にした蔦屋だったが、豊国人気はそれを凌ぐ影響力を江戸市中にもたらした。豊国の役者絵は江戸ファッションの中心的なけん引役だったことは知られていない。歌麿・写楽が退潮していった原因の一つが豊国プロの役者絵の影響力があった。

 

  右端の三代目尾上松助(マツスケ、1805-1851)。当時の武士の外出は羽織と袴が基本。とくに、廓や料理屋に行くときは、丈を長くした「長羽織」と扇を持つのが流行だった。黒羽織に家紋の「抱き若松」が目立つが、それは尾上家「若松屋」の歌舞伎役者であることを暗示している。この家系から、尾上菊五郎が輩出し市川團十郎と並ぶ中心的名門が形成され、現在の尾上松也・右近、富士純子・寺島しのぶなどにつながっていく。

 なお、髷をみると「若衆髷」なので元服前の若者である。男性のおしゃれは衣服ではなく髷にあり、その頭頂部の月代は狭くなっているが、髪油の発達により丁寧に髪をまとめて「元結」の白い紐できれいに束ねられてきているのも流行の先端であるのが読み取れる。

 

 中央の「七代目市川團十郎」(1791~1859)は、近世後期の江戸歌舞伎を代表する名優。どんな役柄にも卓越した演技力を発揮し、「歌舞伎十八番」を制定したことで知られている。しかし、その派手で華麗な振る舞いが天保改革による風俗取締によって、江戸十里四方追放処分をうける。その渦中にありながら、地方巡業に出演したり、文人として江戸文化人グループの熱烈な支援を受けるなど、飄々としながらも反骨精神旺盛な自由人だった。

 着ている半纏には市川右団次の「替え紋・松皮菱に蔦」の家紋が見られる。菱が重なった形が剥がれた松皮に似ていて、蔦は生い茂るたくましさから繁栄を象徴している。なので、ひょっと初代市川右団次なのかもしれない。

 

 腰から見える「三筋格子模様」の手ぬぐいが見える。鶴屋南北作の与右衛門の役で七代目市川団十郎がこの模様の衣装で出演して以来、これが江戸市中に氾濫するほどになったという。

 なお、カゴの前後の中身がよくわからないが、当時はやりの園芸ブームだった植木の職人ではないかと推測。天秤棒をかついで商品を売る「棒手振り(ボテブリ)」が当時の運搬手段で、古典落語でもしばしば出てくる。 

 残念、続きは次回へ。

 

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「笑いのない喜劇にしろ」ってか??

2024-05-10 22:41:11 | アート・文化

  以前、「笑の大学」の「舞台版」のDVDを観て、唸るほどの感動があった。その「映画版」があるというので急いで観ることにした。監督はドラマ「古畑任三郎」の「星護」、原作・脚本は三谷幸喜、公開は2004年、制作はフジテレビ・パルコ・東宝、主演は役所広司と稲垣吾郎。

 時代背景は日独伊軍事同盟締結・大政翼賛会が発会した戦時体制の1940年(昭和15年)。情報統制が一段と厳しくなった当時の、警視庁保安課検閲係・役所広司と劇団「笑の大学」の座付き作家・稲垣吾郎との上演許可をめぐる物語である。

 

 これにはモデルがいたようで、エノケンの座付き作家・菊谷(キクヤ)栄への鎮魂が込められている。波乱万丈に生きてきたエノケンのパワーを引き出した菊谷は、菊田一夫を凌いだとも言われていて、のちの井上ひさしにも大きな影響をもたらした。三谷も「こんな脚本家でありたい」とする理想の人物でもあったという。

   

  エノケンの全盛期時代の作品を数多く手掛けた菊谷は喜劇王エノケンの人気を不動にする。しかし、菊谷は1937年(昭和12年)に召集を受けたが、その二か月後中国で戦死。34歳だった。劇作家としての活動期間はわずか6年だった。昭和17年 (1942年) 夏、エノケン劇団が菊谷栄追善公演のため青森に訪れたとき、エノケンは燕尾服とシルクハットの礼装で明誓寺の墓に行き、しばらく伏して泣いていた、という。

   

 さて、三谷の手法だが、取り調べ室という狭い空間だけに場所を特定し、検閲係と座付き作家との二人芝居という限られたキャストに絞った。その限界に対しては三谷の並々ならぬ冒険と自信が見受けられる。25年かけて温めてきた作品だけに三谷の真骨頂がふんだんに仕掛けられている。

 「役所」が「人を笑わせることがそんなに大事なことなのか」という台詞が、本作品の重要な柱・問いでもある。

  

 三谷は同時に、これは「笑いをテーマにした作品ではなくて、ものを作ることに向き合ったあるいはものづくりにおける妥協とは何かという話なんです」と、述懐している。「稲垣」が7回にわたって台本を改作していく過程は、その妥協の産物だが、そこに流れる抵抗精神の本髄が笑いの深化にほかならない。

 検閲官が初期の国家権力の一翼からだんだんと立場が変わっていくところにこの作品の見どころがある。役所は「検閲しているというより、あなたと面白くするために協力しているみたいだ」という台詞があったが、まさにここに「妥協」の真価が内在している。

   

 三谷は、現在は「検閲はないけど制約はある」と語っている。その中での「ボクなりの戦い方」を込めているというわけだ。日本の制約は見えない同調圧力・タブーというものがある。その委縮はジャーナリズムに甚だしい。本当のことを言わない・言えない矛盾はポコポコ事件になるが、その事件はうっぷんであって本当のことに触れないところに特徴がある。

 二人芝居での役所広司の二面的存在感の見事さもさることながら、オラが以前観た西村雅彦(作家は近藤芳正)の検閲官の迫力は「役所」を越えている権力性が見事だった。その見事さは西村が普段出演しているドラマでの平板さとは対照的だ。

 なお、映画ならではという点では、昭和15年前後のポスター・幟旗・衣装など、細かいところまでの気配りが、戦時下でありながら昭和モダンを髣髴とさせてくれている。

 

 

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男は凡人、女は度胸

2024-04-19 22:36:47 | アート・文化

 わが畏友のブラボー氏からお借りしたフランス映画のDVD『女だけの都』を観る。1935年制作の白黒のコメディで、監督はジャック・フェデー、主役は監督の妻であるフランソワ・ロゼー。時代は17世紀初頭、謝肉祭目前のフランドル(日本ではフランダースが馴染み)の小都市にスペイン軍が凱旋するということで、殺戮・略奪の恐れがあり国中が右往左往してしまう。それに対し、世俗的に生きてきた男たちの臆病ぶりに敢然と立ちあがった女たちの物語である(NHK[プロフェッショナル]風)。

       

 圧巻は主役の市長婦人のロゼーが敵軍の将校を手玉に取る豪胆さが見ものだ。また、フランス映画の重鎮で司祭役の「ルイ・ジューヴ」は、「あくが強くなりすぎる手前で、演劇くささを見事にとめてみせる絶妙さ」でワルを演じきった(上の画像の司祭)。

 さらに、当時の中世ヨーロッパの貴族衣装を再現しているのも豪華だ。上の画像の晩餐会からもわかるとおり、かなり凝ったコスチュームで時代考証が練られている。カラー映画だとかなり派手な様相になったに違いない。また、ヨーロッパで手づかみの食事からフォークが普及し始めたことを象徴する食事シーンも歴史的に貴重だ。

     (39ショップから)

 なお、スペイン軍凱旋に男たちがおののいたのも無理はない。時代背景となっていたのは「80年戦争」(1568-1648)があったからだ。それはネーデルランドがスペインに対して起こした長期のレジスタンスで、この戦乱の血涙をきっかけに後のオランダが独立達成。

 1939年、ナチスドイツは本映画の上映を禁止し、オランダから独立を勝ち取ったベルギーへ侵攻。すなわち、映画を製作しているころはかなり戦雲の緊張感ある時代でもあった。

 そういうとき、こうしたコメデイを描いていくフランス文化の豊かさを感じ入る。残念ながら、日本は関東軍を中心に中国侵略を始めている。もちろん、「国民精神総動員」で言論統制 、芸術・文化への軍国化が官民あげて徹底され、日本人の委縮化・傲慢さが増幅される。

   (シネマパラダイスwebから)       

ブラボー氏の本映画評は次のように述べている。「ヨーロッパの歴史では何度も経験している戦争の実態をコメディ化してうまく映像として構成できている。ただフランスのコメディにはどこかに苦い、あるいは皮肉な味付けがほどこされる。

 本作を平和憲法下の日本で<武力を持たない国家の理想あるいは宿命>として受容するなら、SDGs下の日本女性から反論が出るだろう、いやむしろ社会がこれを期待する前提での憲法なのか?  日本だって侵略するほうも、負けてされるほうも、どちらも経験しているのだが、するもされるもどちらの場合も、する側は<洗練された文化的なヒトばかり>ではなかった。日本はその過程を念頭に日本史と世界史のなかで短絡的な俯瞰を憲法にしたのか?」と。

  (ブリューゲル・婚礼の踊りから) 

  世界はいま<短絡的な俯瞰>で相手国も自国をも見てしまう陥穽にはまってしまった。日本の伝統的に「洗練された文化」は、幼稚な小児病にとって替えられた。その意味での、コメディのスパイスは本映画には見事に効いている。しかし、現今の日本のコメディは、現状を攪拌するだけでお茶を濁すお笑い芸人のバラエティー市場と化した。そんななかで、「ヴナロード!」(石川啄木の詩から)と敢然と立ちあがるのは、やはり「女たち」しかいないのではないか。

 第二次世界大戦がはじまる直前の緊張感の中でのフランスは、東西対立の中でもファシズムを選択しなかったというフランスの「洗練された文化」が地下水脈としてコメディとして流れていたのではないか。濁流にまみれてしまった日本の「洗練された文化」はどこに彷徨ってしまったのだろうか。かつて、西村雅彦・近藤芳正主演の「笑いの大学」劇場版(原作・三谷幸喜)のDVDを観たことがあるが、やっと日本のコメディの真価を見た気がしたものだが。

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 火事と喧嘩は江戸の華

2024-04-12 23:13:46 | アート・文化

 とあるカレンダーに幕末から明治に活躍した豊原国周(クニチカ)の役者絵を見た。「明治浮世絵の三傑」というと、月岡芳年・小林清親・豊原国周だが、前者の二人の名前はよく出てくるが、国周はあまり知られていない気がする。しかし、引越しは83回、妻は40人以上替えたと言われた奇行の主だ。それでも、国周の役者絵の巧さは飛び出ている。

 この三枚続きの大判の錦絵は、明治24年(1891年)、澤久次郎が「歌舞伎新狂言出初之場」として出版したものだ。

  

 中央の「尾上菊五郎」は梯子のてっぺんから火事の様子を見るしぐさを表しているようだ。「纏持ち」は火消しの花形として人気の的であった。実際には火事の隣の屋根で纏を持って火消しの指図をする鳶職人の指導者である。だから、どこの組が一番最初に纏を掲げるかが町民の関心の一つで、そこでの先陣争いの喧嘩も見ものの一つだった。

 服装は黒のもも引き・腹かけの上に半纏を着ている。半纏の柄は、「吉原繋ぎ」というひし形の繋ぎデザインがぴったりだ。その「吉原つなぎ」は、吉原に踏み入れると解放されない意味と人間関係の良縁を現わす意味とがあるという。実際の現場では厚手の刺し子を着るようだが、出初式なので軽装である。火事現場は江戸っ子のいなせな男を代表する命がけの晴れ舞台だった。

  

 その左は、「筒先」の「尾上栄三郎」。浜松市佐久間町浦川の尾平峠になんと尾上栄三郎の墓がある。尾上栄三郎は、主に安政年間(1854~1859)に活躍したが、飯田で公演中に病で倒れた。浦川に蘭学の名医三輪見龍がいることを聞き、天竜川を下って辿り着いたが、病は全身を蝕んでおり、死を悟った栄三郎は、世話になった村人への恩返しに「仮名手本忠臣蔵 五段目 山崎街道の場」を演じ、その舞台の上でこと切れたという。安政5年(1858)4月、享年29歳だった。没後、村人は歌舞伎の魅力にとりつかれ、役者を呼んで歌舞伎を上演していたが、そのうち、自分たちで演じるようになり、地域住民による浦川歌舞伎が始まった。

 

 右側の「尾上菊之助」は「小頭」の法被も栄三郎と同じデザインの「釘抜つなぎ」。このデザインは多くの「九城を抜く」、つまり多くの城を攻略するたとえで立身出世をするとか、「苦を抜く」という江戸っ子らしい意味の法被で鳶職人に人気のデザイン。

 江戸の消防は武家には熱心だったが、町人地はおざなりだった。そこに大改革をしたのが暴れん坊将軍・徳川吉宗 というわけだ。その方針は、「町人による町人のための消防組織を設置する」というもの。それを受け、新たな消防組織づくりを実行したのは“大岡越前”こと大岡忠相(タダスケ)。1720年(享保5)、民間の「町火消」の誕生だ。だから、火事に悩む町人からはこの二人の人気は高まったわけだ。「め組」のロゴが圧倒するが、め組が有名になったのも奉行を巻き込んだ大喧嘩だった。

 

 

 

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猫好き国芳の寄せ絵

2024-03-29 23:23:22 | アート・文化

 最近、浮世絵には作家の思い入れが多様に込められているのを知った。今までは表面的な格好良さ・華麗さに目を奪われていたが、そこには庶民の生活や美意識の洗練さを見なければいけない。美術館では展示するだけが多いが、その隠された秘密と奥行を発掘するべきだと思うようになった。

 そこでさっそく、寄せ絵の奇才・「国芳」の浮世絵「野晒悟助(ノザラシゴスケ)」を入手する。発行は弘化2年(1845)ごろ。タイトルの「正札付(ショウフダツキ)現金男」とは、10人の任侠シリーズものということだった。江戸の商売は後払いの口約束「掛売り」が普通だったが、掛け値なしの正札どおりの現金払い、つまりこれは偽りなしの本物だよという意味合いだった。要するに、国芳模様で描いた仁義を重んじる本物の粋な任侠男だよ、ということだ。

  

 タイトル左側には、柳亭種彦の門人・柳下亭種員(リュウカテイタネカズ)の「仇し野の染色めだつ伊達ゆかた つまくる数珠や露の白玉」という狂歌が添えられている。ニュアンスはなんとなくアウトローな生き方が伝わるがはっきりした意味はよくわからない。野晒悟助は、山東京伝(サン)の戯作に登場する任侠だが、それを河竹黙阿弥が脚色して歌舞伎に仕上げて以来有名になる。

  悟助は、「一休」の弟子ということで僧侶になったが、自らの粗暴さを悔い、月の半分は仏道修行をし、あとの半分は俠客として人助けをし、葬儀屋となる。だから、悟助の衣服や青い袈裟には蓮の花・葉とかススキとかが描かれたり、猫や蓮葉の寄せ絵の髑髏がデザイン化されている。物語としては、ヤクザに絡まれた二人の娘を助け出し、その二人から求婚されるという歌舞伎らしい伊達男のシンプルな流れだ。

 また、刀から下げた下駄にもドクロが浮き出している。さらによく見ると刀の鍔にもお坊さんの持つ払子(ほっす)が描かれていて、抹香臭さのある絵柄だが、悟助の若々しさとの対照が面白い。

  

 京都の民話から。  

 在原業平が旅した時、ススキの原から歌が聞こえた。(秋風が吹くたびに、目が痛い、目が痛い……)と。何事かと業平が調べてみると、足元に髑髏が転がっており、その目の窪みからススキが生えていたという。すると、通りがかった村人が「そりゃあ小野小町じゃよ。昔は京の都でたいそう持て囃されたそうじゃが、歳をとったら落ちぶれて、故郷に出戻ったきり、野垂れ死んでそのざまじゃ」と。悟助の衣服にはこんなはかない背景があった。

 そこから、人の災いを救うには髑髏の目の中の草を抜くが如くせよ、という道徳訓が横たわる。悟助はそれを完遂したわけだ。幕末に五代尾上菊五郎が悟助を公演し、2018年にも75歳の菊五郎が悟助を若々しく艶のある演技で好演している。

    

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児雷也の妖術の出番だ

2024-03-01 23:14:55 | アート・文化

 歌舞伎ファンではないが、歌舞伎カレンダーが気に入っていてネットでなんとか確保する。1~2月の浮世絵は、八代目市川團十郎の児雷也だった。作者は、三代目豊国(一代目国貞)、版元は林屋庄五郎、彫師は彫竹、出版年は江戸末期ペリー来航の前年の1852年(嘉永5年)、タイトルは「直福蒔宝子、実ㇵ児雷也」というもの。「宝子」は女性を表すので女装の児雷也ということになる。

          

 児雷也こと「自来也」は、宋時代中国の実在の人物だった。「我、来たるなり」と書いて堂々たる盗賊で、これが日本に伝わったわけだ。1806年(文化3年)《自来也説話》というのが刊行され、それを河竹黙阿弥が歌舞伎に脚色してから大評判となる。八代目市川團十郎の当たり役となった。

 大正10年(1921年)には映画「豪傑児雷也」が上映され、日本初の特撮映画となる。ひょっとして、オラの少年時代にそれを観たような気もする。もちろん、戦後だけど。最近では漫画の「ナルト疾風伝」が評判を呼んでいる。

 (japaaan webから)

 ガマの妖術を駆使する児雷也は、悪事を重ねるオロチ・大蛇丸をナメクジ秘術の使い手の妻「綱手」とともに退治するというシンプルな物語だ。現実の世界は武力と権力をかさに庶民を統制している実態がある。日本の金権腐敗政治も見えない糸で庶民の脳幹を麻痺させている。そんなときだからこそ、児雷也の妖術が必要なんだが、ねー。

 

 

 

 

 

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「浜野矩隋」は実在のアーティストだった

2024-02-21 22:07:10 | アート・文化

 五代目圓楽の人情噺にまたまた酩酊する。「浜野矩隋(ノリユキ)」は江戸後期に活躍した実在の名人の「浜野矩康(ノリヤス)」につながる彫金師だった。落語では最初は腕の悪い一人息子という設定。酒好きの先代「矩康」が49歳で亡くなり、そのため息子「矩隋」への期待は大きかった。骨董屋の若狭屋は彼への支援を惜しまなかったが、腕の悪さにさすがに匙を投げたことからクライマックスが始まる。

      (画像はaucfan webから)

 この噺の山場は、若狭屋の諫言をきっかけとした母親の「矩隋」への戒めだった。古典落語の先進性は女性差別も表面的には散見するが、今回のように息子への説諭がきわめて説得力があるという点である。人生の大事な節目で女性がダメ男を覚醒させていくという場面がしばしばある。公教育が不備な時代にあって、落語がある意味では人生や人の道を学ぶ社会教育や家庭教育の一端を担っていたのではないかとうことを発見する。

 

 五代目圓楽の名人ぶりは、斬新な切り口で品の良い笑いを紡ぎ出す。小話の「短命」では見事な笑いの連発を誘う。何回聞いてもそれが新鮮だから不思議だ。そうした古典落語を聞いていると、今日のマスコミを巣くうお笑い頂戴ブームの浅薄さを抉り出して余りある。

 エピローグでは、江戸の儒学者の坂静山(バンセイザン)の次の言葉で締めくくる。「怠らで行かば千里の果ても見ん 牛の歩みのよし遅くとも」。牛歩の一歩を続けていけばきっとゴールは見えてくる、というわけだ。そもそも、怠惰だった「矩隋」が名人になった理由がここにある。

  (画像は「落語のごくらく」webから)

  実在の「浜野矩隋(ノリユキ)」は、刀剣の装飾の「腰元彫り」として当時では名人と言われていた。上の画像のとおり、刀剣の柄部分の装飾だが、靖国神社「遊就館」にいまも保管されている。

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鐘が鳴るとき、運命が廻り始める

2024-02-19 21:14:39 | アート・文化

 雨が続きそうなのでこれ幸いと、若者たちで好評を博した『ダブリンの鐘つきカビ人間』のDVDの[2002年版]を観る。2002年の4~5月には6か所で全国公演が繰り広げられた。その後もキャストや内容も再編され公演は続けられて、2020年には久しぶりの再演を予定したがコロナ禍で中止となった。

    

 背景はアイルランドらしい中世で起きた怪しい物語。人によって症状が違う奇病の蔓延で町が衰退し、森が広がり魑魅魍魎が巣くう田舎での出来事だ。その奇病で誰も近づきたがらない醜い容姿となったカビ人間と、思っていることの反対の言葉しか喋れなくなった美しい娘が主人公となっている。

 2002年版の主演は大倉孝二と水野真紀だが、その後、佐藤隆太と上西星来らも主演している。王様役はいずれも原作の後藤ひろひとで、漫画チックなギャグを乱発している。

     (画像はELTRAのwebから)

 アイルランドと言えば、エンヤのヒーリングやアイリッシュギターの音楽など、自然と一体的なメロディが想起される。しかし、見事にそれは壊される。この舞台は「劇団・新感線」の流れをくむギャグとパロディ満載のコメディだった。それは一時流行した「キン肉マン」のギャグが連想された。

   (画像は「ケルトの笛屋さんweb」から)

 奇病を完治しムラを立て直すには、「伝説の剣」を探し当てなければならないという。そこへ、偶然立ち寄った若い旅人二人がその冒険の旅に出かける。そのあらましは、歌あり、踊りあり、活劇ありでテンポよく飽きさせない。そこにブラックファンタジーとギャグの「これでもか調味料」でかき回される。

   (画像はパルコ劇場webから)

そうして、「伝説の剣」と不思議な歌、さらに不思議な鐘の音が合わさった時、悲しくも美しく、そして残酷な奇跡がおきる。前半のドタバタから後半の緊張したラブロマンスが感動を詰め込む。差別されてきたカビ人間は、山高帽のチャップリンの孤独と哀しさとがダブって見えた。

    (画像はアイルランドのロマネスクwebから)

 いつも大民族からの侵略と迫害を受けてきたアイルランド人に対して、司馬遼太郎は「客観的には百敗の民である」と評した。しかも、いまだにイギリスからの圧力は根強い。しかし、司馬は「アイルランド人は主観的には不敗だと思っている」と付け加える。そんな魂が、民話・神話・音楽に現れている。「伝説の剣」のデザインは、キリスト教の十字架と違いケルト土着の丸十字の形をしたものだった。キリスト教より古いケルトの宗教は縄文文化と似ている世界観がある。コメディでありながらそんな奥行をもチラリと感じさせた舞台だった。

  

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熱量放射のチームワーク

2024-02-05 23:07:43 | アート・文化

 東京では久しぶりの大雪だが、オラたち界隈は思ったより多い雨の日となった。予定していた農作業ができないので、前から気になっていた「髑髏城の七人」(劇団「新感線」)の舞台DVDを観る。時代は秀吉が天下統一を狙っているころ、関東ではその隙間から権力をめざす髑髏党の蛮行があり民衆は命がけで暮らしていた。その理不尽を変えるべく立ち上がった戦士らの物語という設定だ。前半は「劇団新感線」らしい漫画チックな内容が気になっていたが、後半からは見ごたえあるシーンに引き込まれていく。

       

 1990年に初演して以来、舞台は勿論若者を中心に人気が広がり、テレビ・映画・小説などにも進出していく。中島かずき作、いのうえひでのり演出。いわゆる現代版の「いのうえ歌舞伎」の登場だ。見どころは、殺陣のキレのよさ、ダンスのような華やかさ、が目立つ。とくに、早乙女太一(蘭兵衛)と森山未来(天魔王・党首)との殺陣、主演の小栗旬(捨之介)と森山未来との殺陣の迫力は圧巻だ。また、ミュージカルのような群舞・集団の仕草などの見事さは、困難でハードな練習を共有してきた仲間意識の形成が感じられた。

  (画像は劇団新感線から)    

 後半からどんでん返しがあり、高齢者にはついていけない複雑な展開になってしまうが、単純な物語にキャストの苦悩を強いるところの煩悶も見どころかもしれない。主演の小栗旬が「みんなに支えられてできた」舞台だったと言い切ったが、そのふるまいはそのまま彼の謙虚さ・包容力そのものが演技に醸し出されていた。また、周りから出演者の屋台骨だったと言われた小池栄子(極楽大夫)は、その風格・存在感は確かにその通りだった。ふだんは無口ではにかみ屋の早乙女太一の殺陣は出演者のみんなが認める鮮やかさだった。

     

 テンポの速さ・ロック調の音楽・照明の多用・アップテンポなダンス・ギャグなどは現行の歌舞伎を越えるものがあるが、それが若者の心をつかむ要因でもある。衣装の派手さは歌舞伎と似ている。

 天魔王による血をドバっと流すような残酷な殺戮シーンもあったが、それは彼が信長親衛隊だったこともある。が、信長のジェノサイドを見てきた捨之介や蘭兵衛らはむやみに敵を殺戮しないところに救いがある。68回の公演をやってきただけあって、軽薄そうだがみんなの心をつないでいく兵庫役の勝地涼のパワーや熱量は、舞台上だけではなくまわりの尊敬と感動と元気とを与えていたのも特筆すべきことだった。きっと、生の舞台を見ていたらその熱量を作品全体から感じるに違いない。  

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円朝の人情噺を圓楽が…

2024-01-19 22:38:42 | アート・文化

 五代目圓楽の真骨頂ともいうべき「江戸桜心灯火/助六伝」に感銘して、引き続き、今度は落語界や歌舞伎でも多くの芸人が演じている「文七元結(モットイ)」をCDで聴く。三遊亭圓朝が、幕末から明治にかけて薩長の侍が跋扈している姿に抗して江戸っ子気質を見せるために創作したと言われる人情噺の名作。それを生家の寺院の石碑や過去帳を踏まえて圓楽が新たに発展させていく。

 賭博のため困窮していた左官・長兵衛が、大金を失くした責任をとって身投げしようとしていた文七を助ける。そのうえ、身売りして親の借金を工面しようとした長兵衛の娘の資金によって文七の過失を解決していく。

     

 文七が身投げしようとしたのは隅田川の「吾妻橋」。投身の場所としてしばしば落語でも登場する「名所」らしい。文七は店の主人から預かっていた50両を失くしたが、長兵衛は命には代えられないとせっかく入手した50両を文七に与えてしまう。

  「五代目圓生」は「この噺を演ると目が疲れていけない。ぐったりする。」と言っていたという。身投げする文七を助けようとするときの長兵衛の断腸の葛藤を表現する際、すべてを目に凝縮したからなんだと、弟子だった圓楽はその名演技を述懐する。

      

 ゼニのために生きてきた文七の主人・べっ甲問屋の宇兵衛がその長兵衛のきっぷのよさにハッとしたところに圓楽の着眼がある。その宇兵衛が文七と長兵衛の娘・お久とを夫婦にしていくというハッピーエンドで締めくくる。

 歌舞伎では五代目尾上菊五郎が長兵衛を明治35年(1902年)初演して以来、戦後の17代目中村勘三郎(1909-1988)の十八番ともなっていくなど名演者の話題には事欠かない。(画像は,山田洋次演出脚本、中村獅童・寺島忍ら主演のシネマ歌舞伎。AmebaNewsから)

    

 噺の途中でその婚礼にかかわる言葉でわからなかったのは、「切手」だった。要するに、それはお酒の商品券というのが分かった。また、「角樽(ツノダル)」もなかなか目にしない祝宴用の酒樽だ。さらには、「猫の小腸(シャクシロ)みたいな帯」という表現も、よれよれのくたびれた帯という意味であることも調べてやっとわかった。古典落語ではそうした現代ではなかなか耳にしない言葉がひょいと出てくるのが曲者だ。(画像は、落語散歩web及び酒問屋升本総本店blogから)

  

「元結」とは、髪を束ねる際に使うこよりの紐。文七夫婦はその後小間物屋を店で開いてめでたく活躍したという。(画像はTenki.jpから)

 落語家でこの「文七元結」を演じているのは、志ん生・志ん朝・林家正蔵・桂三木助・立川談志・柳家小三治・金原亭馬生ら錚々たる師匠が連なる。圓楽は、「闇の夜も吉原ばかり月夜かな」という芭蕉の一番弟子・宝井其角の俳句を引用して博学さをみせるものの、ところどろに下ネタもいれて「涙でしめっぽく終わらないよう」心がけたという。

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