ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像10

2021-04-12 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1962年 皇室一家 新吹上御所が完成し、その談話室で撮影

 1962年1月22日~2月11日 両陛下の名代としてインドネシア・パキスタンを訪問

特別機の中で

 

西パキスタンのカラチ市内を儀装馬車で大統領官邸に向かう

 1962年1月29日 パキスタンの首都カラチで大統領の歓迎を受ける

 

国境地帯のカイバル峠を視察

西パキスタンの州知事公邸を訪問

東パキスタンのダッカ、シュート工場を視察

インドのカルカッタからインドネシアのジャカルタに向かう途中、赤道通過証を受け取る

 

インドネシアのジャカルタに到着し、スカルノ大統領の出迎えを受ける

 1962年1月31日 大統領官邸にて 手前の蘭には美智子妃の名前がつけられた

カリバタ英雄墓地へ参拝

晩さん会へ

スカルノ大統領とハルティニ第二夫人と

スカルノ大統領の案内でインドネシア特産のバチックを見る

インドネシアの最高勲章を受ける

バチック製作を視察

 

ボゴール宮殿に集まった1万人の学生達のコーラスに応える美智子妃。この時、皇太子は風邪で静養中

バリ島のデューバン空港から宿泊先の大統領別邸に向かう。スカルノ大統領と共にオープンカーで向かう

風邪から回復して大統領別邸の庭に出た皇太子

ケチャの鑑賞

スカルノ大統領と別れを惜しむ

 

 1962年2月23日 浩宮の誕生日。両親に手を引かれ参内

2歳の浩宮を抱っこする美智子妃

 1962年2月24日 葉山静養に向かう

 1962年3月2日 葉山にて

 1962年4月19日 兄・巌氏の結婚式にて

 1962年4月 大阪国際見本市にて

訪問した仁徳天皇陵で国民に取り囲まれてしまう

 1962年4月 こどもの国の工事現場を視察

 1962年4月29日 天皇誕生日

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像 9

2021-04-02 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1961年4月28日 徳仁親王と

 

 1961年5月13日 中国宋元美術展を単独で鑑賞

 1961年5月20日 都内のばら展を鑑賞

   1961年6月24日 葉山静養

 1961年6月26日 記念艦「三笠」を視察

 1961年7月14日 皇居内パレステニス場でテニスをする

 

 1961年7月 東久邇茂子さんが死去。葬儀

 

 1961年8月28日 軽井沢静養

 

 1961年夏 剣道大会観戦

 1961年10月6日 自らキッチンに立つ妃

 1961年10月 京都・奈良訪問

 1961年10月 立山連峰ケーブルカーにて

立山連峰天狗平にて

 1961年10月17日 立山弥陀ヶ原にて散策

 1961年11月1日 園遊会

 

 1961年11月20日 英国大使館でのアレクサンドラ王女主催の晩さん会

 1961年12月17日 光輪閣主催の晩さん会へ

 

 

 

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像8

2021-03-24 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1960年10月20日 浩宮のカーディガンを編む美智子妃

 1960年 劇場へ

 

 1960年11月12日~12月9日 イラン・エチオピア・インド・ネパール訪問

 1960年11月 エチオピア帝国のハイレ・セラシエ一世主催の晩さん会

 

 1960年11月15日 イラン訪問 パーレビ国王主催の晩さん会

(成婚時のドレスを着回し)

 1960年11月 インド訪問 タージマハールにて

 1960年11月30日 インドにてチャイを飲む皇太子

 1960年12月 ネパールでの晩さん会

 朝日グラフ1960年12月15日臨時増刊号

皇太子ご夫妻アジアアフリカの旅」

 

 1960年 ソニー新社屋を訪問

 

東宮御所で鯉にエサをあげる

植樹祭にて

 

 1961年1月 天皇一家

 1961年2月6日 日赤でミシンをかける 災害用ベビー服を縫う

秩父宮妃・高松宮妃と。

一人だけ洋服にエプロン姿

 

 1961年1月19日 皇太子と浩宮とお里帰り

 1961年2月 赤十字で慰問品を作成

2月 浩宮が乗った玩具を引っ張る美智子妃

 1961年2月23日 浩宮1歳で参内

 1961年 田園コロシアムにてデビスカップ観戦

 1961年3月8日 学習院同窓会で北白川肇子嬢と会話する美智子妃

 

 

 

 

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像7

2021-03-20 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1959年11月22日 正月用に撮影された写真

みんな、本当に楽しそうに笑っています。なぜ平成や令和にはこんな写真がないんでしょうね。

今思えば個性が強い義姉とうまくやれたおスタちゃんは偉い!!

 

 1960年2月23日 浩宮誕生

宮内庁病院へ向かう車列

病院に向かう皇太子

見舞いを終えた正田夫妻

記者会見に臨む正田夫妻

祝賀にかけつける高松宮夫妻

両陛下

宝塚歌劇団もお祝い

 

記者会見の為、宮内庁入りする正田夫妻

 

天皇家にひどいことされたアピールがすごかった正田夫人ですが、こうしてみるとちゃんと宮様のお見舞いに行けてるし、一体何が不満だったのか・・・

 

 1960年3月12日 退院日

今思えば、牧野女官長が怒って当然の写真ですよね。

生まれたばかりの宮を寒風とフラッシュにさらしているし、「主役は私」とど真ん中が美智子妃だったわけだし。美智子妃からすれば親王をあげて非常に鼻が高かったし、自分の唯一の味方である国民にアピールしたかったのかもしれませんね。

 

 1960年4月12日 賢所皇霊殿に謁するの儀

公開された写真

 

 1960年 ネパール・マヘンドラ国王妃ラトナ陛下と

 1960年4月29日 天皇誕生日

 1960年5月2日 貞明皇后の大宮御所の跡地に建てられた東宮御所を訪問

 1960年5月16日 東宮御所入り

 1960年7月1日 両陛下を東宮御所にお迎え

 1960年7月18日 那須静養

 1960年 夏 浩宮を連れて散策

 

自転車に乗ったり、殺生石を散策

 1960年8月 那須ローンテニスクラブにて

いちゃいちゃと皇太子が美智子妃の手の手当てをする

 

 1960年8月14日 島津夫妻と

実は、夏は皇太子一人で広島へ行ってます。公務ですが美智子妃の同行はなし。

夏中セレブな奥様だったんだなあと。

 

 1960年9月 日米修好通商条約を記念して渡米する美智子妃の公式ポートレート

訪米前の記者会見

 

 1960年9月27日 国務次官と空港で握手する夫妻

 

アイゼンハワー大統領夫妻と歓談

 

 1960年9月28日 ディズニーランド

ディズニーのアトラクションは・・・お嫌い?「浩宮を連れて来たかった」のでしょうか

 

ポトマック川を航行するマウント・ヴァーノン号にて

ハーター米国務長官夫妻によるレセプション

ウォルドルフ・アストリアホテルにて

皇太子明仁と美智子妃、日米修好百周年を記念して訪米中、ニューヨークのウォルドルフ=アストリア・ホテルにて写真撮影。プリンセスは白い足袋と金の草履を履いていた。
明仁と美智子はチャーミングだが全く正反対のパーソナリティを示し、皇太子はシェルターのような長年の皇室暮らしの産物である、抑制されたフレンドリーな威厳を見せている。美智子は平民の生まれで、暖かい格式張らない雰囲気を持っている。ロイヤルカップルの性格は、この稀な公式ポートレイトにキャッチされている。ライフ誌は両殿下がニューヨーク滞在中、撮影の独占許可を与えられた。美智子妃は特にアメリカ人女性に人気で、その人形のような美しさとエキゾチックな日本の衣装でうっとりとさせた。この写真の衣装は、伝統的な帯を結んだモダンなデザインの着物である。」

 

 

 1960年9月 サンフランシスコのミュアウッズ国定公園訪問

シカゴの科学産業博物館訪問

ニューヨークのザ・ウォルドルフタワーズホテル訪問

ロサンゼルスにて

シカゴのミッドウェイ空港でシカゴ市長夫妻と

1960年10月 ヤンキースタジアムで

 

ハワイにて

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像6

2021-03-08 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1959年4月16日 ご成婚祝賀都民大会

 1959年4月 明治神宮参拝の折、御苑で花を見る

 

 1959年4月18日 伊勢神宮で神馬に人参を

 1959年4月18日 伊勢神宮外宮参拝

 1959年4月 渋谷区の常盤松小学校の子供達が奉祝の為東宮御所訪問

 

 1959年4月 皇太子の学友を東宮御所に招いてパーティ

 1959年4月29日 天皇誕生日

 1959年5月 里帰りの美智子妃を皇太子が迎えに来る

 1959年6月7日 皇太子ご成婚コリー祭に出席

皇太子夫妻は新婚時代に犬を飼っていた。

 

 1959年6月24日 靖国神社参拝

 

 1959年7月6日 愛育病院訪問 三笠宮百合子妃もいる

 1959年7月19日 青山の国立テニスで日本庭球協会の奉祝試合

 1959年 この年に出来た西洋美術館を訪問

 1959年 葉山を散策

 1959年 東京私立中学校協会が開いた私学祭

 

 1959年 軽井沢で皇太子の足をマッサージする美智子妃

 1959年9月9日 香淳皇后の母、久邇俔子さんの三年祭

美智子妃のみ和装

 

 1959年10月20日 25歳の誕生日を迎え参内

 19659年10月 母校聖心女子大国際バザーに参加

 1959年10月 エチオピア皇太子夫妻と埼玉の鴨場で鴨猟を楽しむ

 

何というか、結婚の「奉祝」が1年続くんだなあと。

そういえば平成時代も「即位30周年」とか「成婚50周年」とか奉祝が1年も続いていましたっけね。

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像5

2021-03-06 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

いわゆる「昭和34年の国会」については過去記事で長々と引用しています。

書き起こしが大変だった記憶がありますので、興味のある方は探してみて下さい。

たしか美智子さんが何度も見合いをして波多野という人物と婚約をしていたという暴露もあります。

かなり突っ込んだ質問や批判があっても、宮内庁はスルーしましたよね。

 1959年(昭和34年)4月9日 正田邸に集まった人達にお手ふり

 1959年(昭和34年)4月10日 正田邸を出る

 

 アサヒグラフ 1959年4月19日号

素晴らしいお妃さまに

 

 1959年4月12日 饗宴の儀

 週刊読売 1959年4月19日号

皇太子さまご結婚記念特集 おめでとう美智子さん

 

 1959年4月18日 伊勢神宮参拝

 1959年4月21日 多摩御陵参拝

 1959年4月27日 初めてのお里帰り

 

 ご成婚後のテニスファッション&ドレス

 

 1959年7月 愛育病院視察 7月15日 ご懐妊発表

 

 女性自身 1959年10月7日号 カラーグラビア

 女性自身 1959年10月28日号 カラーグラビア

 

 1959年10月20日 25歳の誕生日を迎えた美智子妃

とにかく着道楽!の一言ですね。

国民は「綺麗でおしゃれなお妃様」に夢中になっているようです。

確かに美しいですが、昭和34年といえばまだ、昭和天皇は御文庫に住んでいらっしゃった程なのに、贅沢な服装ばかりだなと。

「足袋とか生地とか全部正田家から持ち込んだのよ」ってうちの母は言ってましたけど、財力がある人は違うな~~と感じたものでした。

 

 

 

 

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像4

2021-02-25 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

1958年12月21日 東宮御所でアルバムを見る

 

 1958年1月13日 お妃教育スタート

 まるで「プリンセスロード」が出来上がり、追っかけファンに見守られているような図式に見えます。お妃教育の為にわざわざ歩かせているとしか思えない。

子供も老人も仕込みじゃないの?と疑いたくなりますよね。

 

 朝日新聞 1959年1月14日

美智子さんは何を習うか」

 

 1959年1月14日 納采の儀

 ことごとくカメラから視線を外しまくる富美さん・・・すごすぎ。

 

 1959年1月20日 皇太子とテニス

 1959年 2月 ミッチーブームでデパートのマネキンにも登場

 

 1959年3月16日 告期の儀

 

 1959年 3月 兄弟そろって東宮御所へ

 

正田家の朝食風景

正田本家のある舘林を訪問

聖心女子大学同窓会にて

 女性自身1959年3月27日号

美智子さんの近況 万感をこめて母校聖心に最後のお別れ

婚約中 母と丸善書店に外出する姿やカードで遊ぶ姿

 1959年 旧高松宮邸でドレスの仮縫い

美智子さんのドレスは1957年ディオール死去によりブランドを引き継いだイブ・サンローランがデザイン。
仮縫いのため来日したスタッフのノアールさん談「イブ・サンローランはストールで着物的要素を、下はフランス的なふわっとしたエレガンスを表現。日仏両方の美しさを結び付けようとしました。」
美智子さんからは「遠いところからよくおいで下さいました。本当に感謝しております。」という言葉と銀の宝石箱が贈られた。

 銀の宝石箱を贈る正田美智子嬢。この頃、すでに「皇族」になったつもりなんでしょうか?

  銀の宝石箱で正田家がいかにお金持ちか示すよい機会だったのでしょうか?

旧皇族や旧華族は悔し涙にくれていたでしょうね。でもちょっと考えると、小和田雅子さんの「金箔箪笥」にもひけをとらないような気がします。

 

 TIME1959年3月号の表紙を飾る

 1959年3月24日 お妃教育へ行く道に観光バスが通り窓を開ける乗客

 女優魂を見たような・・・こんなに多くの人にシャッターを向けられても全然怖気づくこともなく、むしろ晴れ晴れしているんですから。

 

 1959年3月30日 自宅からお妃教育へ向かう

宮内庁分室前で花束を手に

 1959年4月 独身最後のパーティを自宅で

自分のお印が「白樺」に決まったので植樹する美智子さん

 

一体、どれだけのマスコミを抱え込んでいたんだろうと思います。

朝日新聞だけでなく毎日新聞、読売新聞・・・記者は皆お友達。

カメラを自宅に引き入れて、ありとあらゆる「場面」を撮影させる事で、既成事実を作っていたような気がします。

親兄弟は決して「祝福」しているような雰囲気がないのが不思議です。

特に父親の正田栄三郎氏は、能面のような顔になっていますし、常に妻の影にかくれている感じ。

「テニス」が花嫁修業の一環、お見合いを掴むためのアイテムなら、妹も同じことをしていたのでしょうか?

姉妹でテニスをしている様子もないし、ダンスもまたしかり。

なんていうか・・・正田家の教育は美智子嬢一人に注がれていたのでしょうかね。

 

お印については、皇后から「野菊」を提案されたけど、断って「白樺」にしたことは有名な話です。

「野菊」・・馬鹿にされたような気がしたんでしょうね。でも野に咲く菊とはいえ、菊は菊。見事な提案だったと私は思います。

一方の白樺は木で、通常、女性のお印には用いられないのです。

あえて「軽井沢の思い出の白樺」を選んだ所に、「私は男と同等」という強い意志を感じます。

野菊はどんな環境でも毎年花を咲かせます。素朴ですが飽きがない。

でも、白樺は皮をむいて火をつけると燃えちゃうんですよね。

(だからなんだって話ですけど)

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像3

2021-02-22 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 1958年11月事前に宮内庁に提出された美智子さんの婚約当日の写真

 朝日新聞号外 1958年11月?日

皇太子妃決まる正田美智子さん 皇太子殿下がご懇望初めて民間から愛情に支えられて殻を破った人間皇太子」

 

 週刊明星 1958年11月23日号

内定した!?皇太子妃正田美智子さんその人の素顔」

 

 1958年11月26日 行きつけの美容室で

 

 1958年11月27日

皇太子殿下の婚姻に関する件」について皇室会議で可決した文書

 

 1958年11月27日 婚約が発表される前に母親と散歩に出る美智子さん

 新潟日報 1958年11月27日

皇太子妃今日決まる皇室会議後 正午頃発表」

 

 読売新聞 1958年11月27日

皇室会議全会一致で皇太子妃に正田美智子さん承認

 

 1958年11月27日 ドレスを身に着けた美智子さん

 朝日新聞 1958年11月28日

皇室に新しい歴史「同感だ」と三笠宮さま 27日皇太子殿下の写真を手に持ちながらご婚約を喜ぶバイニング夫人」

 

1958年11月27日 正田邸

 

 婚約発表前の正田美智子嬢

 記者会見

 婚約発表後の正田美智子嬢

 

皇居へ挨拶にいく

宮内庁を退出

 

 1958年11月28日 婚約後、初めて東宮御所へ

 毎日グラフ臨時増刊号の表紙

 毎日新聞の1面を飾った写真。

当時の美智子嬢はクリームと口紅のみでおしろいは使っていないと報道される

 毎日新聞記者が撮ったポートレート

 美智子嬢のドレス姿とピアノを弾く姿

 

 週刊読売 1958年12月7日号

特集・皇太子妃・テニスコートの皇太子殿下・正田美智子嬢

皇太子の恋愛結婚 テニスコートで結ばれたチャブとミッチー
皇太子のご婚約によせて ホッとした三つの気持ち(秋山ちえ子) / 花ひらいた人間宣言(本田顕彰)
だれにも愛され慕われた生い立ち / “武門出”の秀才ぞろい(正田家の家系図) / “皇后学修行”に明け暮れる今後 / ご婚約成立までの経過
インサイドレポート“姫君”追いかけた五年間 おきさき記者の秘話
グラビア特集美しきプリンセス喜びの正田美智子さん
“孤独の人”に春が来た(藤島泰輔)

アサヒグラフ緊急増刊皇太子ご結婚記念画報 1958年12月10日号

 1958年12月6日 婚約後初のテニスをする為に東京ローンテニスクラブを訪れる

 週刊読売 1958年12月14日号

特集プリンスの恋を実らせた人小泉信三」

 

 アサヒグラフ1958年12月14日号

われらのプリンセス

 

 LIFE 1958年12月15日号

日本の将来の皇后ーどのように彼女が選ばれたか」

 

正田邸にて

1959年 正月

 納采の儀後の写真。帯は香淳皇后から贈られたもの

 

正直、こんなに写真を撮られ慣れている素人さんっていないんじゃないか?と思います。

今の時代ならともかく、昭和30年代ですよね?

婚約が取りざたされてから、嫌がらせの電話が鳴りっぱなしだったとか、虐められたとか色々言われていますが、正田家はノリノリだったじゃないですか。

自宅にどんどん新聞記者を呼んで写真を撮らせたり、個人的に手紙のやりとりをして「美智子嬢の心境」を語らせたり。

結婚前なのに、「美智子さまはこういう風に思っていらっしゃる」が筒抜けだった気がします。そういう印象操作に長けているなと。

 

正田家の家族写真。笑顔がなく冨美さんに至っては目を伏せている程。

つまり「正田家は本意ではない。皇太子殿下の為に仕方なく娘をやるのだ」というスタイルを貫こうとしているような。

正田家にとって、美智子妃誕生は「闘い」の始まりだったのかもしれませんね。

 

 

 

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像2

2021-02-17 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 平凡 1954年6月号

さようなら学習院 大学ご卒業の皇太子殿下

 お妃最有力候補は北白川肇子さん。

 島津純子・廸子さん姉妹も候補。

 

 1956年(昭和31年)振袖でカルタ遊びをする

 1956年春 新潟スキー場で

 1956年 プレジデント(全学自治会長)として活躍する。全学自治会長になると洗礼を進められるが受けなかったとされる。

 

 1956年 テニスの軽井沢トーナメント試合で三冠獲得

テニスの練習の後、友人たちと昼食

 1957年3月15日 正田美智子が取得した中学校教諭・高校教諭の資格免状

 1957年3月 聖心女子大学卒業

 

作家・武者小路実篤と。

 

独身時代のポートレート

 「女優足」と言われる独特な足の格好は、「くせ」だったのかなと。相当自意識の強いお嬢さんであることは確か。こんなに写真を撮る度に気を張っていたのでは身が持たなかったのではと思ったり。

 せっかく教師になる資格を持ちながら就職はしなかった。

 確かに当時の女性は22歳くらいでお嫁に行くのが当然ですし、とはいっても公務員なら共稼ぎも可能。「働く」ことがまだ名誉にはならない時代でしたね。

 

 1957(昭和32年)年8月18-19 軽井沢テニストーナメント表

正田美智子22歳の夏

 1958年3月 23歳 日清製粉を見学

 

 1958年5月4日 日本郵船飛田給体育場でのトーナメント後、一緒にプレーした皇太子殿下からのお土産のちまきをいとおしそうに見る

 

 何気ない写真・・・でもカメラを意識しているんじゃないか?と?

 

 アメリカ新聞 1958年6月18日

日本の皇太子妃最有力は元プリンセス北白川嬢

 

 1958年7月 軽井沢のテニスを観戦

 

 1958年8月9日 軽井沢のテニスコートで

 1958年8月10日 軽井沢のテニスコートで

 1958年夏 ダンスパーティで。ダンスを習っていた

 なんていうか、学生時代から青春をテニスにつぎ込んでいた正田美智子さんという感じです。女子のプロテニスプレイヤーなどいなかった時代?

時代が違ったらプロになっていたのかなと。

皇太子の写真を見ると、遊んでばっかりいたような印象しか持ちませんけどね。

戦争が終わって10年あまり。皇族がこんな優雅な青春を送っていたとは。

 

 1958年9月 単身ヨーロッパ旅行。

 宮内庁から「皇太子妃」を打診された正田美智子嬢が、聖心女子大同窓会世界大会に出ることで色々時間稼ぎをする。要は考える時間確保の為の旅行と言われて来ました。

しかし、この当時、一部外務省の人間くらいしか海外旅行が許されない時代、単身で海を渡るのはものすごく異例。

私達が小さい頃にこの写真を繰り返し見せられたものですが、何の疑問も抱かなかった自分が不思議です。っていうか、教えられていなかったんですよね。

これは国がご用意した「旅行」であると。

婚約がすでに決定した時のご褒美旅行なのか・・・悩みに悩んでって感じではありません。ちなみに聖心女子大の同窓会が海外で行われたのはこの時だけです。

帰国し「美智子は参ります」と言った・・・とテレビでは報道してました。

正田家は一貫して「辞退」だったけど、美智子さんが「皇太子殿下の為に」と輿入れを決意した美談になっています。

しかし、写真を見る限り本人は乗り気だったようですけどね。

 

独身時代の美智子さん 

1958年11月4日

1958年11月8日

 

私達が小さい頃、なぜ美智子妃が皇太子妃になったかという話については

「学習院や旧皇族や旧華族をあたったけれど、皇太子妃にふさわしい人がみつからなかたった」

正田美智子嬢は日清製粉のお嬢様でお金持ちで頭がよく聖心女子大では成績トップ。しかも美貌の持ち主。彼女に勝てる人はいなかった・・・・と。

でも、ぎりぎりまで北白川嬢が残っていたことを考えると、昭和天皇や香淳皇后の間では北白川肇子さんで決まっていたのではないかと思われます。

しかし、それを覆したのが小泉信三ら宮内庁内カトリック勢力だった・・・と言えるでしょう。

昭和の侍従長として有名な入江相政もまたカトリックでした。

戦後の進駐軍の流入と共に、バイニング夫人と共にあらたな勢力となったキリスト教信者。皇室は神道ですからこれはいけない筈ですが、公に「信仰の自由」が法律で決まった以上、皇室が表だって「NO」は言えなかったかもしれません。

彼らは、一定の勢力として「皇室を改革」していく事に情熱を燃やしていました。

すなわち、「現人神」から人間天皇への変化。そして皇室を「菊のカーテン」から引きずり出し、国民のアイドルのような存在にすること。

昭和天皇や皇族方の中では、「皇太子妃は旧皇族・旧華族がよい」という考えがあっても、実際に皇室を動かしている職員達の勢力では「皇太子妃こそ庶民から上がるシンデレラストーリーでなければ」と考えた。

家柄よりも、資産状況と学歴や美貌を優先したわけですね。

 

そして、それら宮内庁と正田富美さんの間で何らかの「裏取引」があった。

正田美智子を入内させる代わりに・・・というもの。

海外旅行もその一つだったかもしれません。

しかし、実際には美智子妃誕生後の正田家はひたすら身を慎み、目立たない様に暮らすしかなかった。富美さん晩年の「私が名前を上げたら困る人達が50人はいる」発言。

本当に誰のことで、何の話だったのか・・・100年後の歴史家にゆだねるしかないのかもしれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご自分の長女である東久邇成子さんが「庶民」としてつましく暮らしているのをご存知な香淳皇后は「新興貴族勢力」の正田美智子には絶対反対。

しかし、昭和天皇は、「科学的に」近親者との婚姻よりはよいと思った。

そんな科学者天皇の考えを利用し、民間妃を皇室に入れ、どんどん価値観を変えていった人達の急先鋒が入江侍従長だったのかもしれませんね。

私、小さい頃からこの人の顔はテレビで知っているけど、まさにお公家さんという顔で、話し方も穏やかな中に厳しいものがあり、「お上」と天皇を呼ぶ神々しさに立派な人だと思っていたんですけど・・・ねえ・・・)

 

 

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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像1

2021-02-09 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

 令和も3年。平成は遠くなりつつありますが中でも上皇夫妻の存在感が当たり前のように希薄になっています。

そのうち、顔も忘れてしまいそうですが、昭和生まれの私達にとって「美智子妃」は憧れの存在であり、世界に誇ることが出来る「皇太子妃」でした。

しかし、時代が変わり次第に美智子皇后の過去が暴かれてみると「国民はこんなに騙されていたのか」と失望するばかり。いや、こっちが誰かにきちんと伝えないとまだ夢の中にいるおじいちゃんやおばあちゃんも多いでしょう。

戦後の日本、高度経済成長の象徴、華族制度がなくなりみんなが平等になった自由の象徴だった美智子妃は「聖女」のように敬われ美辞麗句で包まれていました。

しかし、現在は「彼女こそ戦後教育の悪しき象徴」になってしまったのです。

「聖女」から「稀代の悪女」へ変貌していった一人の女性。

日本の歴史上、もっとも有名でその名を残すことになる「美智子妃」「美智子皇后」「上皇后」の真実はどこにあるのでしょうか?

雅子妃や紀子妃と異なり、上皇后が生きた時代と私達は必ずしもシンクロしているわけではありません。歴史の一場面、あるいは時代背景としてしょうがなかった部分もあると思います。

それらをなるべくわかりやすく解説しながら、上皇后の素顔を追って見たいと思います。

なぜなら上皇后の存在こそが雅子妃を生み出し、そして今のような皇室に作り替えてしまった原因なのですから。

 1934年 正田美智子さんが赤ちゃんの頃の写真

昭和9年は後の満州事変などを控え、つかの間の昭和の平和な時代の終わりくらいの年です。

中国は中華民国と満州国が並立しているような時代でした。

東京宝塚劇場が開場したのもこの年。

 

 1935年ごろ

 1936年ごろ

 

 1940年ごろ

満6歳の正田美智子は七五三を迎える。

時代背景としてはヨーロッパではナチスドイツが侵攻し戦線が拡大。

皇紀2600年。

大本営が「世界情勢に伴う時局処理要綱」を発表。

「贅沢は敵だ」のポスター・・・ダンスホール閉鎖、敵性用語撤廃等々。

洋服の方はベルベッド地で一目で高級品とわかりますね。

着物の方も非常に豪華だなあと思います。貧富の差が激しかった当時、爵位などはなくてもいわゆる「お金持ち」の部類に入っていたのでしょう。

 1941年 雙葉幼稚園にて。

 1941年 雙葉国民学校入学

言うまでもなく昭和16年は12月9日真珠湾攻撃があり日米開戦となった年です。

 

  1947年3月 雙葉小学校卒業

丁度、我が家の郡山の宮夫妻が同年代になるのですが、小学校時代の思い出と聞くと「ほとんどない。働かされてばかりいたからまともな授業をしてなかった。戦後は墨塗り教科書が思い出」と語ります。

当時の小学生にとって国語や修身の教科書に墨を塗って読めなくすることは、価値観が180度変わった事を指し示す重大な出来事で、先生達の態度がころりと変わった事で人間不信に陥った人達も多かったようです。やがて彼らが安保闘争などに傾倒していく気持ちもわからないではありません。

正田美智子嬢も、学校で「教育勅語」を暗唱していた筈です。

「朕思ふに・・・」で始まる教育勅語は日本人の根幹を示す大事な教えだったと思いますが、「墨塗り」によって「朕=天皇」を否定する考えが頭の隅によぎったのかなと思ったり。

一方、その1世代上の大正初期生まれの私の両親はどっぷり戦前の教育に浸っていたし、母は教育者で「教育勅語」を暗唱させる側にいたのです。台湾で日本人の子達でなく裕福な中国人の子供達にも同じような教育を施していました。父は戦争で負傷した後に台湾へ渡ります。

二人に思想のぶれや考え方の変化はありませんでした。

正田美智子は雙葉中学ではなく、聖心女子に入学しました。

雙葉が自宅から遠かったことで祖母のきぬさんが雙葉への進学に反対。

学校側の了承を取り、聖心女子に入学したのでした。

 

 1951年ころ 運動会の?写真

 1951年 軽井沢のテニスコートにて

1951年(昭和26年)当時といえば、すでに華族制度はなくなり11宮家も臣籍降下をしていました。宮邸はGHQに取り上げられ、その後は莫大な税金をかけられて世間に放り出される始末。

皇族や華族の屋敷を買い取ったのは、戦後のゴタゴタでお金を手にした「成金」達。

栄華を誇った特権階級が軒並み没落していき、有楽町のガード下には華族のお姫様が「パンパン」として立っていたなどという話を聞く事もあったようです。

国全体が飢えと貧困に苦しみ、引き揚げ者達で日本中が困っていたころの正田家は大変裕福な家庭に見えます。

正田家が経営する日清製粉は戦後も順調に成長して行ったのですね。

このような「新興貴族」の台頭が旧皇族や旧華族達のプライドをずたずたにしたことはいうまでもありません。

特に聖心女子大学のキャンパスは元香淳皇后の実家である「久邇宮家」の跡地。

正田美智子と香淳皇后の招かれざる縁というか、対立の構図はすでに出来上がっていたのかもしれません。

 

 1951年秋 河口湖へ修学旅行

 1953年 聖心女子大への入学試験後

 1953年 聖心女子高等学校の卒業式

軽井沢のテニス大会で優勝

 1955年 四国に家族旅行

 成人の日の記念論文「はたちの願い」に応募し2位入賞

タイトルは「私達は虫くいのリンゴではない」

成人の日を前にして、過去二十年の私の足どりを静かに顧みる時、私の脳裏には、 ある老人の語られた言葉が強くよみがえって来るのです。
「不安な、よりどころのない環境から、貴女達年齢の者に共通した性格が生れて来ている」

 世間ではいわゆる「アプレ気質」で通っている私達に共通した性格、それは他の多くの人からも聞くことなのですが、私達年齢の者が二種に大別される--つまり感受性の強い 小学校五、六年のころを、変転の激しい不安な環境の中に過ごした結果、ある者は極端に 空想世界へと逃避し、他はあまりにも現実を見つめすぎる傾向が強いというのです。

前者は実生活に立脚した夢を忘れ、後者は非現実の存在すら認めようとしない、つまり、その中庸をとって夢を抱きつつ、しかも、それを実現させようと努力する 人間が少ないという事でしょう。

ギャング映画の主人公に魅せられて強盗を働いた、こんなのは前者の極端な例です。

また、ちょっとした過失から後先見ずに自殺を企てるなどは後者の例と思われます。
この世界はリンゴの実のようだ」とハーディーの書いたテスはいっています。

虫のついた実とついてない実と…」そして、自分は虫食いのリンゴの中に 生まれついたのだといっています。

 この二、三年、私達の経て来たさまざまな体験を思い返して見るごとに、 私がはとかく自分もテス同様、虫食いの世界に生まれて来たのだと投げやりな 気持で考えがちでした。いいかえればいくら夢にむかって努力した所で、あの恵まれなかった 過去から急に明るい未来が生れ得るものではないと信じていたのです。

 しかし成人の日を迎えるに当り私はもう一度、自分に聞いてみようと思う。
「私達が困難な時代に生れて来たことは確かだ。 しかし私達はこれを十九世紀の宿命論者のように全くの運命としてあきらめきってしまうべきなのだろうか。そして戦争で背負わされた多くのハンディキャップをいつまでも宿命として負って行って良いのだろうか」と。

 もし、この答が「イエス」であったなら、そしてもし私達すべてが、自分は宿命的に不運な世界に生れついたのだと、考えて投げやりな生活を送ったとしたなら、私達の時代が来た時、それが暗たんたるものである事だけは間違いありません。

 私の“はたちのねがい”―それは私達年齢の人々が過去の生活から暗い未来を予想するのを止め、未来に明るい夢を託して生きる事です。それは同時に、現在を常に生活の変り目として忠実に生きる事でもありましょう。現在は過去から未来へと運命の道を流れていく過程の一つではなく、 現在を如何に生きるかによって、さまざまな明日が生れて来る事を信じようと思います。

 あるフランスの詩人が「生きているというのは少しずつ新しく生れて行く事だ」という意味の言葉を言っています。そして、これを私は成人の日を迎える私共の深く味わうべき言葉だと思うのです。自分の力で常に新しい自己と未来を生み出して行く、そして次に生れて来る未来を息をひそめて待つという生き生きした期待にと毎日を生きたいと思います。

 戦争と戦後の混乱を背景に過ごした私達の生活は、確かに恵まれたものではありませんでした。しかし、それはすでに過去のものであり、私達の努力次第で明日は昨日に拘束されたものではなくなるはずです。成人の日を迎える今日、私はこう言いたいのです。

「むしばまれたリンゴは私達の世界ではない。私達がその中に住んでいたのは単にある一つの “期間”であったに過ぎないのだ」―と。」

まさに才色兼備・文武両道・眉目秀麗・・美辞麗句が浮かんでは消えるような方です。

しかし、この論文の中の「わたしたち」は「恵まれなかった」と言いますが、正田美智子自身は本当に恵まれない戦前戦後を過ごしたのでしょうか?

そして「宿命的なハンディキャップ」とは、自虐史観の事なのか、それとも「可哀想な過去を持つ私達の世代」が引きずる何かなのでしょうか?

 

 

コメント (10)
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