ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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令和が始まって5年 日本が終わりの始まりを迎えた

2024-05-02 07:00:00 | 皇室報道

マスコミはこぞって5月1日を祝うけれど、果たして祝う価値があるか?

この5年の「災い」が全て天皇皇后に責任があるとは言えない。

科学的に言えば馬鹿な話です。

しかしながら、あの二人にはそう思わせる雰囲気と行動があると言う事。

平成が始まった時も、天皇皇后が調子に乗って外遊ばかりしたり、舞踏会で踊ったりとブルジョア臭をまき散らし、結果的に美智子皇后に不満を抱いていた宮内庁からの突き上げが怒った。

でも令和は、不満さえ閉じ込める程の「独裁政権」が皇室内で起こっている。

誰の?雅子皇后。いえ、影の天皇・雅子である。

令和元年5月1日。この日から。

皇室の伝統をさらに破壊、左翼の言いなり、愛子天皇を企む、世界から歓迎されない天皇皇后になってしまいました。

 令和元年の出来事

 京アニ事件

 東日本で台風被害

 首里城消失

そんな中、

恐ろしい台風の中で行われた即位の礼。

パレードで泣く皇后。さらに化粧直しもばっちり撮影されました。

御所に到着してもなかなか降りずにしゃべくりまくっているので、秋篠宮殿下が先に降りる事に。

何よりも、後の世を感じさせる出来事がありました。

それが「国民祭典」における「謎の天皇陛下万歳」事件

伊吹文明氏が「天皇陛下万歳」を言ったあと、どこからともなく「天の陛下万歳皇后陛下万歳」の声が・・・・最初は応じていた国民が、次第に「怖い」と言い出す。

伊吹氏も全然予定と違う事に驚きを隠せず。

誰が、何のためにこのようなアナウンスを流したのか。延々と。

万歳」という言葉は中国由来と思われます。

要は「万年も続きますように」という意味で、基本、皇帝にしか使わない言葉です。

日本では天皇にしか使ってはいけない言葉です。

じゃあ、皇后には何と?

それは「千歳」(せんざい)です。皇后はあくまで皇帝より格下ですから、同列に語ってはいけないのです。

しかし、ここで「皇后陛下万歳」とはっきり言ってますね。

由来を知らずに言ってるなら馬鹿というか、どこかの宗教団体かと思うし、由来を知りつつ言ってるのであれば、やっぱりそこにどこかの宗教団体と小和田家が背景に見えるのです。

はっきり言って、本当に不気味でありえないセリフでした。

何というか、個人的に「日本は変わる」と思いました。

翌年から新型コロナが流行。日本人は「スペイン風邪」以来の疫病に取りつかれた。

世界的に。

安倍総理は病気悪化で退陣を余儀なくされ、後に暗殺。

首相が暗殺されるなんて、歴史教科書でしか知らない事。なのに、きちんとした捜査も行われず、国葬には左翼が大騒ぎ。

ジャニーズ事務所には法則発動して今や形が代わり、そこに韓流が占拠している。

 

いち早く防護服を手作りし、オンラインで公務を始めた秋篠宮家に対し、天皇皇后は赤坂御所に引きこもり、愛子内親王は4年間大学にいかず。

 

今や、日本は円安が進み過ぎて不況の真っただ中。

日本は中国や韓国よりもひどい国になっている事に多くの日本人は気づいていません。

続々入って来る中国人に土地を取られ、帰化され、留学生が恩恵を受け、日本人は肩身の狭い思いをする日々です。

LGBTなどという思想が声高に言われ、女性達は「女性蔑視」より嫌な思いをする羽目になっています。

この動きは世界的にそうで、未だ日本は平和とか言ってるお花畑さん達はいい加減目を覚まさないと隣の中国人に殺される日が来るかもしれません。

なんせニセコは中国に支配され「日本人お断り」になっている。

GWこそ、観光地である北海道のこの問題を取り上げるべきなのに、全く無視。

無視無視無視です。

とにかく令和になってから、外国勢力による「内側からの侵略」が始まってしまいました。

本当に恐ろしい。こんな時代でも「イギリスへ行く」という天皇皇后を受け入れるわけにはいかないじゃないですか?

天皇とは、国家安泰を祈る存在であるのにその姿勢を全く見る事のない5年間でした。

 

 

コメント (5)
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悠仁親王と蜂子皇子

2024-05-01 07:00:00 | 皇室報道

 もうX始め色々なブログで拡散されているので、今更な話題ですが、改めて「ふぶきの部屋」風にお知らせしますね。

 2023年6月18日 悠仁親王は山形県の出羽三山をお参りした

 この神社の開祖は「蜂子皇子」という人で崇峻天皇の皇子

 殿下はご自分で歴史を調べ予定をたて、6月18日(その日は祭礼の日)に恐ろしく困難な山を登り、神社にお参りした

 宮司の話「悠仁親王が参拝されると急に雲が現れ、風が吹き雨が降りだした。このような事は70年生きていて初めてのこと。恐らく風神雷神八百万の神々が悠仁親王を歓迎したものと思われる。

 宮内庁の日程にはなく、お忍び中のお忍び行動。

 崇峻天皇って誰?

天皇になる前の名前は泊瀬部皇子。

この頃、敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇となります。

敏達天皇と推古天皇は夫婦で、二人には竹田皇子がいました。が、蘇我・物部戦争で負傷し死去。

用明天皇は2年程で病気で亡くなりました。長男である聖徳太子はまだ10代。

天皇にふさわしいと言われる年齢は30歳すぎ

なので聖徳太子では若すぎる。

用明天皇には弟が何人かいましたが、そこで生き残り、蘇我氏を母とする崇峻天皇が擁立されました。

しかし、崇峻天皇と蘇我馬子は対立していきます。

一番それがわかるのは、彼の正式な妃に蘇我氏が入っていない事です。

蘇我馬子は正室との娘を聖徳太子と結婚させ、側室の娘を崇峻に嫁がせました。

で、崇峻が後ろ盾としたのが大伴糠手で蘇我氏でなかった事もわだかまりの原因。

ある日、イノシシが献上され、崇峻は「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と言ってしまい、それが馬子に伝わって「イノシシは自分の事」と思った馬子は崇峻天皇を暗殺したのです。

結局、蘇我腹の有力な皇子がいなかったため、推古天皇を立てて「中継ぎ」としました。

 蜂子皇子って誰?

伝承として「崇峻天皇の3男」となってますけど、「日出ずる処の天子」では、初めての子のような扱いでしたね。

大伴小手子から生まれ、ゆくゆくは大伴氏を母に持つ天皇誕生という所で、蘇我氏からすると危機感があったのだと思います。

崇峻天皇暗殺時、聖徳太子がこの蜂子皇子を助け京都から船で日本海を渡って山形まで行き着いた・・という話は、東北出身の私も聞いた事がありません。

聖徳太子は、歴史上「暗殺」された唯一の天皇に対する思いがあったと同時に、蘇我氏への怒りを感じたのでしょうね。

ゆえに従兄弟の蜂子皇子を助けたと思います。

蜂子皇子は山形で出羽三山の開祖となり、人々から信仰を集めました。

顔が怖いのは人々の悩みや苦しみを聞いたのでこのような顔になったと伝承。

いやいや、「処天」に出てきたちょい役皇子が実は東北ゆかりの方とは驚きました。

そういえば、悠仁親王が生まれた時、出羽三山に龍雲が出たと話題になりました。

ですから、ご自分で「蜂子皇子」に興味をお持ちになり、自ら調べその地へ行かれたというのは、まるで導かれたかのように思われます。

悠仁殿下といえば理系を想像しますが、このように歴史も大変造詣が深く、またご自分で探求していこうというお気持ちがある。つまりこれが「帝王学」であるという事ですね。

(死ぬ前に一度行ってみたい)

そして悠仁親王参拝の折の八百万の神々の祝福が心に刺さります。

こういう感覚ってわかる人しかわからないというか。ほんの気づきなんですが。

明治神宮へ行った時に、本殿にさわやかな風が風が吹き渡り「ああ、神様がいる」と私は思いました。また、清正の井戸への道々は人が沢山歩いているのに、なぜか静でそこに自然界の偉大さを感じました。

そういう「天候」を感じたのは昭和天皇の大葬の礼の時です。

あの日は、朝から雪が降ってそれが幻想的で、日本中が悲しみを感じていた。

明治神宮ミュージアムで見た明治天皇大葬の礼の車列の模型。

私は高校の時に図書室にあった「大葬の礼の写真帖」を何度も見ました。

車列が何ページにも渡って写真になってて。正直、その時は退屈でそこは見飛ばし、

大正天皇、貞明皇后や昭憲皇太后の写真ばかり見てたんですけど、日本における天皇の「大葬」もやっぱり伝統行事であり、簡単に「簡略すべきものではない」と私は思っています。

あの模型が目の前で繰り広げられたら、どこの国の人だって「荘厳」としか言いようがないだろうと思うので。ゆえに私は上皇陛下の「大葬の礼はしないで」には反対です。

で、昭和天皇の大葬の時にテレビでそれを見る事が出来、やはり荘厳さを感じました。

ではなぜ悠仁親王は蜂子皇子に興味を持ったのでしょうか。

私は単純に「名前」だと思います。

「蜂子皇子」は「はちのこのおうじ」とも読みます。つまり蜂の幼虫ですね。

何でこんな名前を付けたのだろう。

私も「処天」で変な名前と思った口で。

っていうか、古代の皇族・豪族の名前は現代では理解しがたい名前が多々あります。

よく子供が「小野妹子」は男なのに「子」がついていると言って笑いますが、「子」という文字は中国では非常に身分が高い、あるいは「学識」が高い名前です。

中国では「子」を「ズ」と発音し、名前の上に持って来ます。「子○」って。

 

馬子も同様ですね。舒明天皇以降、皇子皇女の名は生まれた地名や乳母の氏由来になっていきますが、この時代は恐らくですが

 子を入れる

 蜂や馬、貴重なものの漢字を入れる

 唐とか漢とか、ちょっと外国人っぽい名前をつける

 漢字の意味より音を重視する

 地名を羅列した名前

があったのかなと思っています。

例えば聖徳太子は「厩戸皇子」ですが、当時の漢字の意味と今の漢字の意味では違っているかもしれないし、もしかすると発音が違うのかもしれないと感じます。

さらに「桜井皇子」「桜井弓張皇子」「星河女王」とか、非常にロマンチックな名前もあります。

また聖徳太子の子の名前で「馬屋古女王」という姫がいますが、これは「古」は「子」に繋がり、「馬屋」は「厩戸」に繋がるのではないかと思います。

要するに末っ子で最も愛された姫だったんじゃないかな。(漫画では恐ろしい姫ですが)

そんな想像をすると楽しいのですが、なんせ学者じゃないので論文にするわけにもいかず。

 

だから「蜂子皇子」は「蜂」という蜜もとれれば針もある強くて魅力的な昆虫のような強く生きてという願いがあったと。

ちなみに蜂子皇子の妹に「錦代皇女」という方がいて、これこそ皇女にふさわしい名前ですね。小手子と錦代皇女もまた聖徳太子に助けられて福島県まで逃れたのですが、皇女は途中で亡くなり、結果的に母と息子の再会はなかったようです。

 

悠仁親王のおかげで私達はものすごい歴史を知る事が出来ました。

北関東や東北というのは、なかなかこのような伝承が大げさに語られる事がない土地です。なぜなら「隠れ里」の意味もあり、大っぴらにすれば殺される危険性があったからでしょう。

でも今は21世紀ですから、このような東北と皇族の関りをもっともっと広めてもいいのではないかと思います。

 

 

 

コメント (3)
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