ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

皇統は男系男子に限るのです

2024-04-17 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

21世紀の今、当たり前のことをあらためて言わないとわからない連中がいると言う事に腹が立つし、いわゆる「嫌がらせ」でそういう事やってるんだなと思えば、罰が当たれと思ってしまう。

どういう経緯かわからないけど、最近の「愛子天皇派」の言い分は

 愛子様の方が人気があるし品があるし綺麗だから天皇になってくれたら嬉しい

 秋篠宮家はいやだけど愛子様なら天皇にふさわしいと思う

 男の子を産んだからってティアラを被れるのが不思議。男尊女卑

これらは全部悪口なんですよ。

天皇家への悪口と言うのは、実は今が初めてではありません。

1970年代から1980年代くらいまでは「天皇制廃止論」系の本ばかりが並んでいました。

全部昭和天皇の戦争責任を問うものばかりで、むしろ昭和天皇を讃える本を探す方が大変だったくらいなんですよ。

若かった私には昭和天皇の「戦争責任」がよくわからなくて、今でもよくわからないよねという感じ。

一般人はみんな昭和天皇の事を敬って「日本のおじいさま」と思っているのに、なぜ本屋へ行くと、こんなに批判と悪口ばかりの書籍が並ぶのかなと思ってました。

 

そして今は秋篠宮家バッシングです。

ネットに書き込んだり、週刊誌の記者達はどうせ皇室がなんたるかなんて知らないし、関係ないし、実際、実生活には関係ないから平気で罵詈雑言が言えるんだろうと思います。

その昔は「古事記や日本書紀は全部嘘」論がまかり通っていた時代だったので、古代の天皇を全員なかった事にして、「天照大神」なんていないじゃんと悪口を言っていたのですが、今や「愛子様こそ天照大神」とか分けわからんことを書き込むわけですね。

同じ事を何度も書くのはどうかと思うんですけどね。

 もし日本に天皇がいなかったら

確実に日本は朝鮮半島のように同じ民族が争う事になり、やがて中国に侵略されていたと思う。

天皇というのは、日本列島に住む人、そして渡来人も含めて、全ての部族の統合的存在で、その中心に伊勢神宮があり、天照大神を祀る天皇がいる。

天皇の役目は「鎮護国家」に尽きます。

日本の安泰の為に祈る。あらゆる手を尽くす。そういう存在です。

政治は主に政治家がやる。

日本にも部族同士の争いはあったのです。でもそれをやってると国が亡びると考えて平和的な方法を見出した。それが「天皇」という存在なのです。

 元号は文化遺産

役所以外で元号を使う人はもういないけど、元号はその時々の祈りがこもっているものだし、時代を象徴する言葉です。

かつて中国にも元号はあったし、ヨーロッパにもあった。でも、今や日本くらいしか使わない。だから大事。歴史も考古学も知らない、必要ではないと考える人も多いですけど、歴史を知らないと世界で恥をかくし、その国独特の文化を持つ者は尊敬されます。

明治になって「1天皇1元制」になりました。つまり元号は天皇の人生そのものなんです。だからこそ、安易に退位してはいけないんですよね。

歳をとった、ボケた、歩けなくなった・・・そんな世俗的な事はどうでもいい。天皇というのは、それでも国の安泰、国民の幸せを祈る存在であるから。

今の天皇が尊敬されないのは、そういう「元号を背負った重み」を感じていないからでしょうね。

 皇統は男系男子に限る

と、皇室典範に書いてあります。

みなさん「憲法9条」の改正にはやたら反対するのに、皇室典範の改正には「早く女性、女系天皇を認めろ」とせかす。これっておかしくないですか?

憲法9条はアメリカから与えられた思想で、日本潰しの条項です。これに縛られる日本を馬鹿にしているのもまたアメリカ。

しかし、そのアメリカも旧皇室典範から戦後の典範への変更はあまりなかった。

「皇統は男系男子に限る」という部分は変えなかったのです。

また、どこかの教授が「後桜町天皇」を例に出して、直系長子じゃないとダメ云々と書いていますが、教授の肩書がついているのにその知識量のなさに呆れます。

江戸時代の天皇の即位は常に吊り橋状態、いつ綱が切れてしまうかわからない状態での継承が行われて来ました。

後桜町天皇は嫡出の皇女ですが、非嫡出の弟宮が即位後、さっさと亡くなってしまったので仕方なく践祚。しかしそれは、次の天皇たる男系男子に繋げる為の中継である事ははっきりしています。

非嫡出だった弟君、桃園天皇はいわゆる皇后の「嫡子」とみなされたので、本来内親王宣下を受けない後桜町天皇も地位が上がっただけです。

結果的に桃園天皇→後桜町→後桃園→光格となるわけで、光格天皇は閑院宮家出身です。

後桜町天皇の実力が発揮されるのは、皇位から降りた後で「国母」と言われるようになったんですね。

 次世代天皇は秋篠宮悠仁親王です

これは決定事項であり、「好き嫌い」「向いている」とかで言われる事ではありません。

「ふさわしい」かどうかで天皇が決まるのなら今上はいません。

綺麗だ、品がある、可愛い、人気があるでは天皇は務まりません。

22歳にしてやっと一人で雅楽鑑賞が出来るようになった内親王が、母親が祭祀を全く重視していない時点で、本来なら皇籍はく奪ものです。

 

何度もいいますが、天皇のもっとも重要な役割というのは「祭祀」です。

国家の為、国民の安泰の為にひたすら祈るのです。

その大前提があっての被災地訪問であり、赤十字であり、福祉活動であり、各公務であると言う事。

 

上皇夫妻が昭和天皇のすねをかじりながら、ブルジョワ的生活を謳歌したために、小和田雅子は「皇室に入れば贅沢できる」と単純に考えたのかもしれませんけど、守るべき伝統を守らない時点で失格です。

 

男子が生まれない皇太子家に遠慮して12年も出産を控えられていた秋篠宮家。

GOサインが出た時はすでに40近く。

しかもリスクを抱えてのご出産。そして日嗣の皇子はお生まれになったのです。

 どこまでも愛嬌のあるお顔で、ちょっと細くて小っちゃくて泣き虫なこの親王をどれ程待ち望んできたでしょうか。

トンボが大好きで、ご両親からもお姉さま達からも愛されて、笑顔がとびきり可愛らしくて。

それなのにどうでしょ。

伊勢神宮や武蔵野陵を参拝する時はドキっとするほど大人びて、学者っぽくて、

神様も喜んで殿下をお迎えになっていた・・・・

大人びて、そんなに早く大人にならなくていいと思いつつも、殿下のめざましいご成長に日本にも希望があると思う私です。

 今や立派な学者さんです。

あるべき皇族の姿を体現されているのが悠仁親王殿下。

18歳のお誕生日も、それから加冠の儀も楽しみですが、式年遷宮にはきっと大切な役割を果たされると思っています。

こればかりは「練習」してどうなるものではないので。

やがて来る、悠仁天皇の御代まで生きていたいものです。

 

 

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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する2

2024-02-27 07:06:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

森暢平氏が一番言いたかったことは「11宮家は元々臣籍降下するしかない家柄」だったから、それなら現役皇族の愛子内親王を天皇にしようという話でしょうね。

有識者会議の「養子縁組を含めた皇統に属する男系の男子の方々が皇族となることについても、比較的前向きな意見が多くあったのではないか」(2021年6月16日)

を結論ありきのでっち上げだとしています。

いわゆる「皇族ノ降下ニ関スル施行準則の前に増えすぎる皇族を何とかしようと、何度か「臣籍降下しろ」という要請が政府からあったのですが、臣籍降下する皇族がいなかったんですね。

なので。最終的に大正9年にこの制度を確立したわけですが、この法律にひっかかった皇族がいました。それは有栖川宮家です。

有栖川宮家は後継ぎがいなくて養子をとろうとした所で、この法律が出来てしまい、大正天皇に「お願い」をしたんです。

しかし、天皇はこれを聞き入れることが出来ず、泣く泣く祭祀と宮家を天皇の3男「宜仁親王」にゆずり、「高松宮家」を創設させたのです。

そしてこの法律は

 5世孫から臣籍降下

 長男以外は華族に臣籍降下

 伏見宮家だけは邦家親王を祖として5世孫から

 一旦臣籍降下したら皇籍復帰を認めず

という事になりました。

でお、これも「勅旨」「請願」があれば・・という事で絶対にってわけでもなかったようです。

例外を認めようと言う事ですね。

というのも、皇族がいつ減るか・・というのはわからないからです。

江戸時代、明治に危機的な皇位継承者不足を経験した皇室ですから、政権もそこまで「何が何でも」とは言えなかっただろうと言う事。

とはいえ、「宮家を継ぎたくない」からと自ら進んで臣籍降下した人もいるし、後継ぎが決まっていても亡くなる可能性もあったわけだし。

11宮家のうち、絶対に「断絶」だったのは梨本宮家と東伏見宮家。

 

でも内親王が嫁いで創設された宮家は別だったんだろうと私は考えます。

すなわち、明治天皇の3内親王が嫁いだ、竹田、北白川、朝香の3宮家は皇位継承順位の上に来たはず。

さらに昭和天皇のご長女が嫁いだ東久邇宮家はさらに上に来たのではないでしょうか。

皇統は男系男子で。母が皇族であればなおよろしい」という考えたですね。

 

この考え方に従えば紀宮の嫁ぎ先は旧宮家でよかった筈なんです。

しかし、上皇后が「旧皇族・旧華族」を退けてしまったので、繋がりが消えました。

結局、「民間のお妃」は「皇統」の為に自分を犠牲には出来なかったのでしょう。

ゆえに今上の結婚でも「皇統」は考えず、本人のお好きにさせたのですね。

危機を救った秋篠宮家には足を向けて眠れない筈なのに、産児制限までかけていたと言う事で。

本当に悠仁親王が生まれて下さってありがたかったです。

「旧宮家養子案」を潰したいのなら、悠仁親王が一日も早くお妃を娶り、男子が生まれるまで着実に出産を重ねて頂くしかないのです。

 

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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する 1

2024-02-27 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

サンデー毎日に載った「旧皇族に継承順はなかった「有識者会議」の牽強付会」

なんですけど、森暢平氏の論文。

さっぱり意味がわからなくて。

要は「有識者会議が旧宮家を養子にしようとするのは間違っている」と言いたいらしいのです。

 有識者会議の言う「日本国憲法及び現行の皇室典範の下で、皇位継承資格を有していた方々であり、その子孫の方々に養子として皇族となっていただくことも考えられるのではないでしょうか

 戦後の臣籍降下時、当時の皇太子明仁→常陸宮→秩父宮→高松宮→三笠宮→寛仁親王・・・の次に継承権を持ってたのは山階宮武彦であるということ。

 かみ砕くと

 旧典範ではなく戦後の新典範において、山階武彦王が皇位継承順位7位だったんだよ・・と解釈します。

山階宮武彦王

この方ね。昭和天皇のいとこにして、海軍航空隊に所属した「空の宮様」

森暢平の言い分

 旧典範では「嫡出」「庶出」があり、嫡出が先に継承権を持つ。

 伏見宮邦家王の子供達がそれぞれ宮家を創設

 本来の継承順位は伏見宮家が先に来る

 ゆえに伏見宮博明王が7位の筈。

 かみ砕くと

 山階宮は邦家王の側室が生んだ子の子孫なので、本家本元の伏見宮博明王が先に皇位継承順位が来るはず。

 

ここまで大丈夫ですか?

次ね。

 戦後の11宮家は博明王以外は庶出だった

 新典範により、全ての宮家を「嫡庶関係ないみなし皇族」とする

 昭和22年の公示は「伏見、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、北白川、竹田、閑院」の順になった。

 宮家にとって席次が重要なのに、皇位継承順位順ではなかった。

 ゆえに11宮家の皇位継承順位はなかった

 かみ砕くと

 最も大事な「皇位継承順」に並ばなかった11宮家には継承順位がついていなかったんだよ。

 

だからどうなんだ!って話ですけど、話はこれからです。

 大正9年「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定

 伏見宮邦家から数えて5親等離れた子孫は、皇籍を離脱することが決まっていた

 戦後の臣籍降下はそれを早めたにすぎない。

 かみ砕くと

 そもそも11宮家なんて臣籍降下するしかなかった皇族なんだよ

 

って事です。

ここが一番言いたかったみたいです。

何を今更・・・・って感じですが。

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皇嗣と皇太子の違いについて なぜ秋篠宮は皇太子にならない?

2023-04-22 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 何度も書きますが、みなさん、ちゃんと記事を読んでいただいているのでしょうか?

「王様・・・」の衣装については今時の若者好みという事はわかった上で私はあえて「バブル世代がみると」とつけているんですね。

一々否定するようなコメントは煩わしいのでやめて頂きたいです。

また、ボードワン国王の葬儀についてですが、エリザベス女王は最前列を歩くつもりだったのです。

ところが、「個人的な親しさ」を優先したファビオラ妃のやり方に不愉快になったという事です。

おかしいと言われても実際そうで、女王は亡くなるまでベルギーに行かなかったわけで。

考えてみると「エリザベス女王即位60周年」に行きたいからと言って、手術を早めてイギリスにいった上皇上皇后陛下もメンタルは今上と同じなんじゃないか?と思います。

それと・・・ミルクアレルギーの粉ミルクは、神木隆之介と我が家のジュニアの世代には、ボンラクト(大豆乳)とMA-1しかなかったんです。

うちのジュニアはボンラクトが合わず、MA-1を飲ませたら吐血して、結局半月くらいエレンタールという芋から出来た栄養乳を飲ませていました。

(非常にまずくて嫌がる子も多いけど、ジュニアは仕方なく飲みました)

MAー1は今でも4000円くらいするんですね。当時は売ってる薬局も1つしかなくて、切らしたら大変と何缶かまとめて買ったのですが、2週間で1缶を飲みきるのでどうしようと思って。幸い病院に勤め始めたら安くしかも定期的に購入出来たのでよかったです。

今は安くていい物が沢山あってよかったですね。

ちなみにアレルギーはミルクだけでじゃなくて、穀物アレルギーというのもあります。米がダメで粟やひえを食べさせるんだそうですね。

さて、本題。なぜ秋篠宮殿下は「皇嗣」で「皇太子」ではないのか。本人の意思?

順番を追って行きましょう。

 平成の天皇が退位しようと思った理由は?

一番は健康問題だと思います。

昭和天皇は亡くなるまで「天皇」でしたが、がんを発症されてから、その病気は秘密にされ、倒れてから3ヶ月あまり、毎日体温・血圧・食事等が速報で流れ(それこそコロナの感染症患者発表みたいに)

特に「下血あり」とか「重湯を飲まれた」とかそんなプライベートな事まで発表されて国中が段々暗くなりました。

特に「結婚式の自粛」「宴会の自粛」「お笑いの自粛」等、誰がそれを求めたわけではないけどそういう風な流れになったんですね。

国民はそんな毎日に次第に慣れて行ったけど、当時皇太子だった明仁親王は「何で天皇の健康状態がここまで発表されるのか」と疑問に思った筈。

皇太子と天皇の仲は、正田美智子を妃とした時点から非常に悪化し、テレビの画面からも皇太子がそっぽむいている事に気づくほどでした。

昭和天皇はそんな皇太子に戸惑って、どう接したらいいかわからない印象。

また、不仲になった原因の一つに、大正時代、皇太子だった昭和天皇が「摂政宮」となった事により、貞明皇后が非常に傷つき、政府の陰謀とすら思った事があったと思います。

ゆえに

 天皇は務めを果たす事が出来なくなったら退位すべき

 摂政は国を乱す元になるから設置するべきではない

と考えたのだと思います。

平成後期、天皇は前立腺がんに心臓弁膜症と様々な病気を乗り越えていましたが、終わり頃は明らかに「認知症」の症状が出た為、そうなったら公にあれこれ言われるのが嫌だったんだろうと思います。

また、天皇であるのに皇太子に役割を譲るのはプライドが許せないとか、様々な感情が渦巻いたのではないかと推察します。

が、皇室典範に「退位」条項はありません。

なぜなら「一世一元」といって、一人の天皇が生きている限り元号を変えないというのが明治以降の最も重要な部分だったからです。

政府はスルーしようとしましたが、反日NHKがスクープを流し「退位」は日本中を駆け巡り、とうとう政府も何等かの答えをだす必要性に迫られ。

結果的に「強いお気持ち」とか国民が賛成しているというデマが大手を振るって「退位」したのです。

安倍総理や麻生さんなどは左傾化する皇室を憂えていたでしょうが、マスコミ操作に長けている皇室には勝てなかったんですね。

理を解いても無理だったわけです。

 

 秋篠宮が「皇嗣」になったわけ

政府は恐らく、「退位」を超法規的措置のような形で認めたものの、その後は皇室典範に沿った形で行おうと思ったに違いありません。

天皇の長子を皇太子

・天皇に皇太子がいない場合、皇太弟を置く

となっているからです。

令和の天皇には皇太子がいませんから、当然秋篠宮が皇太弟になる筈でした。

ところが、「秋篠宮殿下は宮号を残したい」とおっしゃったので、では皇位継承1位を表す「皇嗣」をくっつけ「秋篠宮皇嗣殿下」と呼ぼうという事になりました。

 

 なぜ「秋篠宮家」を残したいと思われたか

問題はここですよね。

個人的に「秋篠宮」という宮号は大好きです。

上品でセンス抜群とご結婚当時から思っていましたから。

秋篠宮殿下としては、皇太子が普通に結婚して男子を得てくれたら、自分の所も息子を何人か儲けて「秋篠宮家」を存続させたいと思っていたでしょう。

しかし、番狂わせが。

皇太子家に男子が生まれなかったのです。

昭和天皇も明仁親王誕生までかなり時間がかかりましたが、秩父宮は皇太弟も皇嗣にもなりませんでした。

その理由は、当時の昭和天皇と香淳皇后には希望があったからです。

しかし、徳仁親王家の場合、愛子内親王が生まれてすぐ「第二子断念」と勝手に自分達で決めてしまった。

問題はそれだけではなく「愛子天皇」擁立の動きが始まりました。

皇室典範には「男系男子」が天皇になるとあるのに、「過去に女帝がいた」「男女平等ではない」といいだし、「女帝」でいいじゃないかと雑誌を使って喧伝し始めたのです。

秋篠宮は自分達がどうのこうのと言える立場ではない事を知っていましたから黙っていたのです。

しかし、皇太子妃の「適応障害」から始まっためちゃくちゃな行動は、皇室のあるべき姿を求める者にとっては非常に見ていられない状況。

本来なら天皇皇后が東宮家に対し、厳しく対処すべきだったのに「悪者」扱いされるのを嫌がり、やりたい放題にさせてしまった。

そして、小泉政権時代、あと一歩で「天皇の長子」が・・・となる寸前に悠仁親王誕生となり、皇室典範の改正を阻止したのです。

そしてこの時から小さかった秋篠宮家へのバッシングが、見るも無残な程ひどい状態になって、眞子様はPTSDになられたのです。

「自分達が耐えれば」と思っていた秋篠宮両殿下。しかし、小さい内親王の心を大きく傷つけた。

もし、今上の即位によって「皇太子」だの「皇太弟」などになったら、もっともっとバッシングされるか、暗殺されるかと思い、ぎりぎりの選択だったんじゃないかと思います。

ゆえに「私は別に天皇になろうとしているわけではない」と引いた形になりました。

安倍元総理の暗殺で、宮家はより「左翼」の怖さを感じたろうと思います。

 皇太弟と皇嗣の違い。

一言で言えば「皇嗣」は男系男子であれば誰でもなれるものです。

しかし、皇太弟は「皇位を継ぐ天皇の弟」という特別な立場です。

 皇太弟の立場・・・・ 内廷皇族

             医療費・通信費・旅費無料

             称号がつく(〇〇宮佳子殿下、〇〇宮悠仁殿下)

             御用邸を使う権利がある(葉山・那須・須崎)

             公務の時、警備の数が多くなる

             東宮御所に住む

 皇嗣の立場・・・筆頭宮家と予算は変わらず

          医療費10割、通信費・旅費自腹

          御用邸を使う権利なし

秋篠宮殿下の場合、即位の儀式では東宮しか着る事が出来ない黄丹の袍、皇嗣では異例の「立皇嗣の礼」を行うことで「東宮と皇嗣の中間」の立場となり、そうはいっても、東宮が持つべき権利はないわけです。

126代の天皇の中には宮家からいきなり天皇になった人もいます。

だから本来は立場に拘らなくても、天皇の後継ぎは秋篠宮と悠仁殿下だからいいんです。

海外では「CROWN PRINCE」って呼ばれるわけだし。

多分、人より脳の衰えが激しいだろう今上は「摂政」を置くしかないと思います。(モラハラやパワハラを受け続けると性格も変わるし、人となりまで変わってしまうそうです)

 

とはいえ・・・正直、称号がついた眞子様・佳子様・悠仁殿下を見たかったなと思います。

それに那須の御用邸を散策する宮家も。

東宮御所なんて上皇に取られるとは実は誰も思ってなかったろうにと。

ご結婚されてから、紀子様は散々上皇后に説教され、厳しくされて苦労が絶えず、おまけに週刊誌にはバッシング記事が載り、どれほど悔しかったかなと思うんです。

上皇后は紀子妃に辛くあたっても東宮妃には甘かった。

泣かされた事も多々あったと思うし。

幸せになって欲しいのに、どうしてこうもうまくいかないんだろうと自分の事のように悲しいです。

人間だもの。

ここまで意地悪されたら今上のように「馬鹿」っぽくなってもおかしくないです。無表情で何も考えず、へらへらするしかないというような。

心を病むってそういう状態になる事なんですよ。

あるいは眞子様みたいに自虐的になって、わざと自分が傷つき孤独になるように自分を仕向けるとかね。

でも紀子妃は耐えて耐えて、今は光輝く美しさをお持ちです。

それは大変素晴らしいけど、やっぱり「心からの笑顔」を見たいじゃないですか。

皇后と愛子内親王の二人が存在する限り、一生気を遣って苦労するしかないのかと思うと可哀想だし、悠仁親王のお妃になる人も可哀想です。

一日も早く平安が訪れ、世界に誇る天皇と皇后、そして若き皇太子を見たいです。

 

 

 

 

 

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森暢平の記事は間違っているし大学教授の資格なし2

2022-07-04 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 前回は、後桃園天皇の娘、欣子内親王を愛子内親王になぞらえ、傍系宮家の光格天皇が「婿養子」として天皇家に入った・・・という森氏の考え方を紹介しました。

しかし、あくまでも内親王は「中宮」であって「天皇」にはならないのです。

 江戸期の皇室において正室、側室はほぼ「女御」で統一

 死後に「皇后」に叙される事はあった

ので、欣子内親王は天皇の一人娘という事で、最初から「中宮」でした。

中宮と皇后の名称の違いは何かというと、位としては皇后の方が上に感じます。

平安時代には正式の妻は「皇后」だけど、天皇が本当に好きな女性で身分が皇后と相応ならば「中宮」という感じで覚えておけばよいでしょう。

「皇后」はほとんどなる人はいない。

では先に行きます。

 

欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。

しかし、困ったことがあった。

何が困ったことなのかしら?とちょっと不思議になりますね。欣子内親王が中宮にたてられたのは1974年の事です。

光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。

典侍というのは女官の名称で、位が高い方にあたります。しかも天皇の身近にいるので自然に側室になりますわね。

1800年に勧修寺さんとこに寛宮さんがお生まれになったんどす。

同じ年に中宮さんも温仁親王さんをご出産あそばれたものの、すぐにのうなってしまわれたんです。だから・・・

彼は(寛宮)9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。

欣子は若くして得た男子を亡くした後、子供に恵まれない状態が続いた。

そこで側室の子である寛宮を養子として、天皇の後継ぎとした。

ところが自分が出産し、いわば正統の天皇家の子供ができたのだ。

1816年に中宮さんは悦仁親王さんをご出産あそばされたんどす。

 でも、勧修寺さんの宮さんはすでに東宮さんにおなりや。

 今更中宮さんが親王さんを上げられても、次の御代は勧修寺さんの寛宮さんでお決まりや。

ただ、すでに立太子が行われたこともあり、寛宮が後継ぎであることに変更はなかった。

1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。

ここまで大丈夫ですか?

系図にするとこんな感じです。

 

1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。

光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。

一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。  

現皇室典範の考え方から言えば、当時の天皇の男系長男なのだから、鍠宮が皇位継承者となるのが筋である。

しかし、当時はそのようには考えられなかった。仁孝天皇はいわば中継ぎであり、本家正統の高貴宮こそ、次の天皇だと考えられたのである。

 ここまでわかりましたか?

へえ、そうなんだ~~と思ってしまう人もいるんじゃないかと思います。

でもここに惑わされてはいけないのです。

仁孝天皇を悠仁親王になぞらえているんですね。そして最終的には愛子内親王の子供が皇位を継ぐ。なぜなら愛子内親王の系統こそ本家正統だからと。

 また今の皇室典範を江戸時代にあてはめて考えるなんておかしいと思いませんか?嘘を見破ったり。って感じです。

 

つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。

それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。  

皇統が完全に閑院宮系に移ってしまう可能性はなるべく排除し、従来の天皇本家の血統を継ぐ女性として、欣子は重要な存在となった。

 これは完全に間違った考え方です。

 「皇后腹」から生まれた子の方が尊いという考え方自体、中国や朝鮮の考え方なんですね。ゆえに、あちらの国ではいつも正室と側室の間で皇位継承争いが起き、毒殺などが横行するわけです。

 日本の場合、江戸末期になると皇族よりも「五摂家」の方が高位になります。

 また、日本の場合は皇后が、中宮が・・・ではなく、「〇〇家」の後ろ盾という方が力が強いのです。仁孝天皇の側室鷹司茂子は死後「皇后」を贈られています。

 ではなぜ仁孝天皇の子よりも中宮が生んだ子が東宮に?

 単純に言えば「年上」だったからです。この頃は乳幼児の死亡率が高くてとにかく生き延びた者勝ちになっているんですね。

 

  

ところが、高貴宮は1821年に5歳で亡くなってしまう。

42歳である欣子の年齢を考えると、天皇本家系で皇統を継ぐことが難しくなった。

さらに、鍠宮も同じ年に亡くなってしまう。  

加えて、仁孝天皇の正妻(女御(にょうご))であり、鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)も2年後、2回目の懐妊で女児を産む際、生まれた子とともに亡くなってしまう。25歳だった。  

天皇家に残されたのは、皇太后欣子(44歳)、欣子とは血がつながらない義理の息子である仁孝天皇(23歳)だけである。

仁孝がまだ若いのが希望であったが、皇統は危機にあった。  

結局、仁孝天皇は、側室何人かとの間に男子に恵まれそのうちのひとり、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。  

ただし、仁孝天皇や孝明天皇には本来、天皇本家の血統ではないことに対するコンプレックスが強かった。

 はあ?もう誰はだれやらわからんわ。

大丈夫です。

森氏のいう「中継の天皇の長男」は鷹司繁子がお産みまいらせた安仁親王

でもわずか1歳でのうなってしまわれて。その頃、着袴の儀を迎えていた悦仁親王が東宮さんになるのは自然な流れやったのではないかと拝察します。

前述したように鷹司繁子さんは五摂家出身で死後「皇后」さんを追贈されてます。

決して立場的に皇太后さんと同じくらいやと思います。

 さて、仁孝天皇や孝明天皇が「直系ではない」コンプレックスを抱えていたというのは間違いです。

  歴史を振り返るに、継体天皇、南北朝、直系でない天皇なんてざらにいましたし、何より貧乏な皇室の中で天皇になっても何か得する事があるかしら?って思いませんか?

  むしろ、親王や内親王に生まれて寺に預けられ五摂家に頭を下げて生きなくていい・・・くらいがせいぜいのプライドです。

 森氏が傍系といいますが、光格天皇からずっと直系で繋がっているわけで仁孝天皇も孝明天皇も「男系の天皇」である事に違いはなく、コンプレックスを持つ事もなかったでしょう。

 むしろ、課題は「どうやって皇統を繋ぐか」という事で、仁孝天皇は4つの世襲宮家から猶子を入れて万が一に備えていました。

 

孝明天皇の即位の年、67歳まで生きた欣子は、いわば、天皇本家の実質的家長であり、広い影響力をもった。

皇位継承や側室の序列など皇室内部のことについて、彼女の意向や考え方が決定に大きく反映されたのである。

維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。

天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。

 要は愛子内親王の貴種性が高く、秋篠宮も悠仁親王も先に死ぬぞ・・・と脅しているような文章に見えます。

しかし、実際に女性として位人身を極めたのは、仁孝天皇の娘にして孝明天皇の姉である淑子内親王です。

 淑子内親王・・・閑院宮愛仁(なるひと)と婚約によって「内親王宣下」を受けるもその2日後に彼は死んでしまう。

その当時絶家となっていた桂宮を継承。12代桂宮になる。

1866年、准三宮、一品となり「桂准后宮」と呼ばれた。

孝明天皇の正妃、九条夙子もまた准后ではあったけれど、位としては淑子内親王の方が上です。

なぜにこの内親王が高位を極めたかと言えば、現天皇の姉にして先帝の娘、宮家の当主であったからでしょう。その代わり、一生独身ではあったのですが。

 もはや嫡流が光格天皇になっていた幕末期における皇太后欣子は過去の人というか、知る人ぞ知る「後桃園帝の女一宮」でしょう。未亡人が皇室の政治に口を出す事などないと思いますし、穏やかで静かな老後だったのでは?

 

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。

 江戸時代の皇位継承を現代の皇室典範にあてはめて考えたのは森氏である。

 秋篠宮文仁親王は先帝の二の宮で悠仁親王は皇孫です。いわば直系の血筋です。森氏の理論から言えば今上だって「光格天皇の子孫」である事をコンプレックスに思わないといけないのではありませんか?

 秋篠宮を閑院宮と同じく語るのは無茶苦茶でおかしいです。

 

江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。

愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。

 つまり、森氏達のような「女系派」が考えているのは、愛子内親王の即位ではなく、その子供の即位なのです。

  愛子内親王が旧宮家男子と結婚しても愛子内親王は「妃」です。その長男はあくまでも宮家当主であって悠仁親王の男子には到底及ばない事を考えるべき。

っていうか、本気で愛子内親王が旧宮家男子と婚姻すると思ってるのか?

 あちらさんも選ぶ権利がありますよ。家柄のよさを誇る旧宮家なら水俣病チッソの会長の孫の血を受け継ぐ嫁は欲しくないでしょう。

 正田美智子さんが皇太子妃になっても、結局旧宮家や旧華族と仲良く出来なかったのはそこにありますからね。

 

今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。  

コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。

江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。

男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。

 女性皇族の地位が低かったわけではない=男系継承だけじゃない

これって全然違う論理の展開で論文の末としてはペケを付けざるを得ません。

だらだら書いて結局そこかい?その証拠を並べ立てたつもりが、全然違ってたという事になるのです。

 男女共同参画といえども、独身の承子女王より、出雲に嫁ぎつつもあっさり東京に帰ってきた典子さんより、嫁いで男子を得た綾子さんの方が「元女性皇族として立派にお仕事をやりとげた」という事に違いはないのです。

 男女共同参画といいつつも、雅子皇后は養蚕すら一人では出来ずに家族を巻き込み、仕方なくやる。

公務が嫌いでえり好みし、すぐに「体調の波」を理由に休む。これが男女共同参画時代の象徴には見えません。

 愛子内親王もまた、生まれた時からまもとに学校に通った試しがなく、大学も通えず、成年になっても仕事をしない。これが「男女共同参画」時代の皇族の在り方なのでしょうか?

  

どんな理由を上げようとも、「公務を受けることが出来ない」女性皇族はいらないのです。

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森暢平の女系論は間違っているし大学教授の資格なし1

2022-07-01 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

悔しかったら原稿料で稼いでみろ・・・と言われそうだけれど。

サンデー毎日に掲載の「江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か?」

は呆れてものが言えない程のこじつけが書かれており。

でも、成城大学の教授が書いているんだからそうなんだろうと思う人も多いと思うのです。(私の同僚は絶対信じるだろう)

しかし、いわゆる「愛子天皇派」のいう事って決まっている。

 女帝の娘が即位しているから女系

 天皇が内親王と結婚して婿入りしたから女性天皇でも女系でもいい筈

どっちも間違いです。

皇室典範の解釈も違います。

まず彼の文章を見てみましょう。

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。

天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

 そんな議論は起きてません。徳仁天皇の次は文仁天皇でその次は悠仁天皇です。

 

 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。

江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。

  近代にしろ現代にしろ、愛子内親王の正統性はありません。

 男系女子ですが皇位継承権を持っていない

それに尽きるからです。(そりゃ他にもありますよ・・・もにょもにょ)

愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。

 愛子内親王が仮に旧宮家の誰かと結婚しても、降嫁するだけですし、皇室典範改正による旧宮家の復帰があるとしても「妃殿下」になるだけです。あくまで投手は「男系男子」です。

 今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。

前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。

 いいえ、男系継承のみです。「男系継承」と「女性皇族の地位の高低」には関連も関係もありません。

 

今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。

当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。

1816(文化13)年2月25日、中宮欣子に男子が生まれた。

高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)である。

欣子は当時36歳(満年齢に換算、以下同じ)。

彼女は20歳のとき、一度男子を産むが2カ月で亡くし、その後出産していなかった。

当時の感覚で言えば「高齢出産」。それゆえにこの皇子誕生は驚きをもって迎えられた。  

欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。

しかし、困ったことがあった。

光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。

彼は9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。  

光格天皇は、閑院宮家出身である。

曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。

町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。

 傍系の宮家出身、それも母方の身分に難があった光格が即位したのは、後桃園天皇の一人娘である欣子と結婚することが担保になっていたためだ。

2人の結婚は1794(寛政6)年、光格が22歳、欣子は15歳であった。

誤解を恐れずに言えば、光格は「婿養子」として天皇本家に入った。

 

ここまでさら~~~っと読みましたか?

ええ・・・何が何だかわからないですよね。

いいんです。わからなくて。ただ、「光格天皇」「欣子内親王」「閑院宮家」を覚えて下さい。

森氏の文章に正当な理論をしかける前に、私達は予備知識が必要です。

まず、「閑院宮」から始めましょう。

 

 閑院宮家って?

1710年に新井白石の進言によって創設された「世襲宮家」の4番目です。

 鎌倉期から天皇家はとても貧乏になった

 徳川政権によってさらに弱体化

 天皇の子供は、皇位を継ぐ男子以外は全て寺に預けられ親王宣下もなし。女子も徳川家、貴族に嫁いだ場合を除きみな寺へ。

 直系に皇統の危機が起きた時に即位出来る「世襲宮家」が誕生。

桂宮

伏見宮

有栖川宮

この3つも色々あって、特に桂宮家は何度も断絶しているのですが、4番目の「皇統の危機を救う宮家」として閑院宮家が創設されたのです。

上記の系図を見て下さい。

閑院宮家は東山天皇の子供から始まっています。

後桃園天皇には一人娘の欣子内親王しかいなかった。

俗に「女一宮」と呼ばれ、天皇の一人娘。

森氏はこの欣子内親王を愛子内親王に重ねているのです。

もし、ここで安易に女性天皇が認められていたら、欣子内親王が女性天皇として即位してもおかしくないですよね。

過去に明正天皇、後桜町天皇などがいたのですから。

しかし、天皇になった女性は結婚出来ません。

なぜなら女性天皇に子供が出来ると、皇位を巡って継承争いが起こるからです。

ゆえに、江戸期の女性天皇は弟や他の男系男子が成長し天皇となるまでの「中継」として即位し、譲位後は院になるのが普通でした。

さて、光格天皇は確かに「傍系」の男子ですが、立派な男系男子です。東山天皇からみれば曾孫であるし、後桃園天皇からみても遠い従兄弟くらいの近さです。

他の3家よりはずっと天皇家と血が近かった事。

そして、欣子内親王と年齢も釣り合うことで、光格天皇が即位し、欣子内親王はその身分にふさわしく「中宮」となったのでした。

 

森氏のいう「担保」という言い方は恐ろしく不敬です。

 江戸時代、天皇の妃は一様に「女御」となり、「皇后」は追贈される場合が多い。

 欣子内親王が中宮になったのは、皇族であったから

です。

ただ光格天皇が即位出来た事はものすごく運がよかったんですね。

それというのも、いわゆる「次の天皇」を決める事を始めたのが欣子内親王が1歳の時。

 天皇の血筋に近い宮家出身

 欣子内親王と歳が近い未婚の男子

 法親王になる予定がある

光格天皇は閑院宮家の第6子ですが、長子は既婚、その下は皆法親王になっていたので還俗できず。1歳下の弟は寺に入る予定がない。

そんな様々な条件をクリアできたのが光格天皇だったのです。

光格天皇は後桃園天皇の養子になって立太子せずに即位しました。

この場合、語るべきは「光格天皇は婿養子になったから即位出来た」ではなく、「光格天皇は後桃園天皇の養子となったので欣子内親王を妻とした」になるのです。

 

父親の後桃園天皇からすれば、一人娘を即位させて後に寺にいれるなんて重い運命を送らせるより「妃」として君臨した方がよいと思ったんじゃないかと思います。閑院宮家としてもこれはよい話でした。

 

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侮辱罪厳罰化で秋篠宮家を救えるか

2022-06-14 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 1ドルが135円・・・いやーーもうどうしようもないですよね。

現在は少し下がって134円台。14日に日銀が買いオペしたら少しは・・とはいっても原材料の値段は上がる一方。それだけじゃない理由でも上がる一方。

値上げを受け入れているのではなく「仕方なく」買っているのです。

日本の場合は物の値段があがっても給料は上がらないはガチで、それに怒ることもしない国民性もうどうかと思いますが。

国外に生産を頼りすぎていると品物が入って来ない。

だからもう少し国産を増やすべきで、国産は高いというイメージを払拭する為に努力するべきです。

「べき」ばかりだけど、輸入物が高いと言う事は国産にとってチャンスの筈なんですけどね。

さて、侮辱罪が厳罰化さて、SNS投稿者の開示請求もやりやすくなると言う事で、女性週刊誌、文春、新潮などは勿論YAHOOコメントに見られる秋篠宮家への誹謗中傷は止むのだろうか。

これって、韓国の「慰安婦問題」と同じで、こちらがいくら「こっちが事実なんだよ」と言っても聞く耳を持たずに「日本人(秋篠宮家)は謝れ!消えろ」と言っているようなものじゃないでしょうか。

先日の「植樹祭」も、秋篠宮夫妻がやれば「なんでわざわざ赤坂御用地で植樹するのか?」といい、「天皇皇后」がやれば、すっかり同じ事をしているのに大絶賛。

そこにいくら「そもそも赤坂御用地で植樹し始めたのは天皇皇后です」と言っても、ああ聞こえない 秋篠宮家はおかしい、金の無駄遣いばかりしているの1択しかなくなる。

「全国ろうあ協会」の行事に佳子内親王が秋篠宮夫妻と一緒に出ないという事に関しても「親子関係が悪いから。佳子様は殿下と口を利かない」とか、そんな憶測ばかりの記事を出す。

同日に佳子様が障害者ダンス大会におでましになれば「愛子さまは御所にいるのになんで佳子様は外に出るのか?」ととんちんかんな叩きを始める始末。

「れいわ流」は何でも一家で行動するらしく、「公務を分担する事でより多くの公務を受けられる」という秋篠宮家の考え方とは真逆。

あくまでも「歴代皇后」の仕事である「養蚕」を一家でやってしまう伝統破り。

体調不良だ、腰が~~と延期はしてみたものの、それでもやらないわけにはいかなくて仕方なく出てきているというのが現状でしょう。

愛子内親王もいつになったら大学へ行くのか?と思えば、YAHOOコメントする人達にとっては現在は「コロナ禍」にほかならず、外に出る方がおかしいんだそうで。

じゃあ、何で天皇皇后は「琉球」展に行ったのか?

上皇夫妻もお出かけになったのに、愛子内親王は幽閉でもされているのか?

それとも毎日職員とバドミントン三昧なのか?

一度も対面授業に出ないままに卒業しちゃおうという、「皇室特権」を使いまくっている事はスルー。

そもそも高校入学の時点で出席日数足りないでしょ・・だった内親王。

高校でも不登校を繰り返していたのに、推薦入学なんて出来るレベルじゃなかった筈。でも入学させられて・・お気の毒ですよ。

そんな内親王を毎週、女性週刊誌は「決意」と上げで「~なのではないでしょうか」とポジティブな観測気球を上げるけどぜーんぜん効果なし。

今週は香淳皇后例祭があるけど、愛子内親王のお出まし予定はなし。

3年生にもなれば毎日授業があるわけでもないでしょうにね。

 

私は侮辱罪に問うなら、まず渡辺みどり香山リカ、友納尚子を訴えたいです。女性週刊誌3紙も。

かれらの秋篠宮への侮辱の歴史は長すぎる。

かれらのせいで眞子様がどれほど傷つき、心を病んでしまったか。

その責任は大きいと思うからです。

 

特筆したいのは篠原由香という人。

この人は誰の命令でやってるのか?

画像

この人の本気でやるというのは秋篠宮家と上皇后を潰すことだそうです。

これこそ侮辱罪ですね。

 

 

 

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悠仁親王を頂点とした天皇家になる為には

2022-04-14 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

本題からそれますけど、ちょっと書かせて頂きますね。

「宝塚歌劇団」というものに関して、勘違いされているのではないでしょうか。

まず、宝塚歌劇団は1914年に設立された今や「伝統芸能」と呼ばれてもおかしくない「女性だけの歌劇団」です。

小林一三の提唱した「清く正しく美しく」がモットーです。

そして音楽学校は専門学校の分野に入ります。入学出来るのは中卒から高卒まで。合格率は非常に低いと言われる音楽学校で2年間、徹底した礼儀作法と芸を磨き、歌劇団に入団します。

音楽学校に入ってから歌劇団を止めるまで「生徒」と呼ばれます。

じゃあ、先生は?演出家であり、脚本家であり・・・

トップスターは組の頂点ですが、それ以上に大事にされるのが「学年」と呼ばれる序列です。

生徒は入団した時から「研究科1年」で卒業するまで「研〇〇」と呼ばれます。

ですから、いわゆる芸能人とは違います。

以前はよくテレビにも出演していましたが、基本的に外部出演はしませんし、自分達が芸能人という感覚もないでしょう。

給料はものすごく安いです。持ち出しの方が多い程なのでファンクラブなど、支える者が必要です。

一種の「歌劇が大好きなプロに近い素人集団」です。

そして海外の人が異様な目つきで見るというのも間違いで、今や宝塚は世界中にファンを持っています。

悠仁殿下のお妃候補に音楽学校から歌劇団に入った女性がよいと私が思った理由は

 序列意識がきちんとあって守れること

 社交的で礼儀正しく言葉遣いもきちんとしていること

 実はお金持ちの子が多い。家柄のいい子も多い

という事です。音楽学校に入学の時点で恐らく「身元調査」もされているだろうと言う事は公然の秘密です。

東京では感じませんが、関西では劇場にくるおばさま達の会話をよくよく聞いてるとジェンヌを取り巻く世界が「上流の社交界」である事がよくわかります。

ゆえに、こっちから行くと非常に緊張を強いられる事もあるし、服装や身だしなみもめちゃ気を遣うといった事もあります。気にしなければそれでいい事なんだけど、やっぱり・・・ね。

 

宝塚歌劇団の生徒達は、いわゆる「ドレス」「着物」の着こなしが自然とよくなります。アクセサリーなども自分で作るのでセンスがよくなります。

 

どんなに学歴があっても、育ちがよくない人はお妃にふさわしくありません。

その「育ち」をはぐくむのが歌劇団です。

無論、別に歌舞伎界・能・狂言界などのお嬢さんでもいいのです。

多産系であれば。

しかし、絶対にダメなのが

 政治家・官僚の娘

 宗教団体の娘

 営利団体の娘

 キリスト教信者の娘

です。正田美智子氏は「営利団体の娘」であり「キリスト教信者の娘」でした。

小和田雅子氏は「官僚の娘」です。

川嶋紀子氏は「学者の娘」ですね。

昭和・平成と「恋愛結婚でないとダメ」というような風潮がありましたが、令和の今は出会いの機会もそんなにあるわけではないので、「お見合い」にも抵抗が少ないのではないかと思います。

まずは筑附の女子生徒から、それから旧華族や旧皇族の多産系の女子を選ぶか、最終的に宝塚歌劇団も入れて大丈夫という事です。

で、維新のいう「養子」案ですが、これは実際には難しいので、「旧宮家」の当主一家を丸ごと皇籍復帰させ「〇〇宮家」とするのが最も早いと思います。

「女性宮家」というのは、内親王が結婚して宮家の当主になる事で、相手は男系男子でなくてもいいというものですから排除。

その代わり、皇籍復帰した宮家に嫁げば「妃殿下」になる。

 

小さい子を養子にしたら誰が育てるんですか?という話になりますから。

私が以前から提唱している猶子案を誰も言い出さないのが不思議です。

知らないんでしょうかね・・・・

 

 

 

 

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維新のいう宮家の「養子縁組」案とは

2022-04-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

悠仁殿下も高校に入られた事ですし、紀子様がやらなきゃいけないのは「お妃選び」ですわ。

筑附もいいけど、宝塚音楽学校も視野に入れて欲しいものです。

あそこはブルジョアが多いですし、姿勢と礼儀のよさはお墨付き。ついでにいうなら努力家も多いのです。

今から予科・本科で目星をつけ、歌劇団でどの程度力を発揮するかを見極めつつ選んでは?その為には佳子様と悠仁殿下が一緒に宝塚を見に行くのが一番よろしいのですが。

大正天皇のお妃選びは、お姉さま達の遊び相手として御所に読んで女官達が選んでいくというもの。昭和天皇の場合は貞明皇后によって決められたのですが、昭和天皇の時は

皇族が第一候補で次が五摂家

・戊辰戦争で負けた方の宮家から選ぶ

という事で、久邇宮家の良子女王が選ばれたのでした。

天皇や皇后の意志が反映されずにお妃が決まったのが上皇で、大きな溝になりましたね。

さて、維新の会が評価し、意見書としてまとめた「旧宮家の養子案」ですが、私、これはちょっと意味がわからないのですが。

 旧宮家の誰を?

 何歳で?

 どこに?

 どういう形で?

 皇位継承権は?

この曖昧な「旧宮家の男系男子を養子にする」って意見書は、ちゃんと皇室の歴史をわかっている人の案なんでしょうかね。

今、男系男子が残っている旧宮家は5つほどあるらしいというのはわかっています。その筆頭が賀陽家です。

賀陽宮家は1900年に久邇宮から分かれて創設されました。

今、残っている旧宮家はみんな久邇宮家を祖とするもので、本家も東久邇家も男系男子に恵まれています。

また、宮家に生まれた次男らは伯爵家などに養子に入ったりしていますので、その系統を探せば、さらに男系男子は増えるものと思います。

問題は、それらの中の一体どこからどこまでを選ぶのかという事。

男系男子っていったら竹田さん家もそうだけど、ここは国民の心情的に嫌だと思うし。血筋だけで一斉に「20歳~30歳までの男系男子集まれ」になるのかな?

独身が条件ですか?それとも結婚しててもいいのか?

多分、独身でしょう・・・って事は「10代の男系男子集まれ」になる可能性もあり。

もし、愛子内親王や佳子内親王を旧宮家と縁組させたいなら、さっさとお見合い設定して事を勧めないと、正直本人の気持ちを云々している場合ではないのです。

そこらへん、政府も皇室ものんきすぎるというか、「本人の意思が大事」なんて言っていたら行かず後家になってしまいます。

とはいっても、高円宮家の典子さんみたいに形だけ結婚してやってる事は女王時代と同じでは困るんですけど。

 

承子女王や彬子女王、瑤子女王は大正天皇の家系ですからこの際は臣籍降下がふさわしいかと思います。こっちもさっさと相手をみつくろって・・っていうか引き取り手を見つけて降嫁させないと、一生独身で好き勝手やる事になりますよね。

養子が云々よりも、「女王の義務と権利と生き方」を書面にして出すべきではないでしょうか?

彬子女王のように大学の教授として京都に移住しているなら赤坂御用地はいらないでしょう。別宅も購入しているというし。さらに実の母に対する親不孝な行為及び言動でマイナス100点くらいですから、結婚していなくても自立しているという事で一時金なしで臣籍降下すべきと思います。

承子女王は週に何回お仕事しているのかわからないけど、相変わらず夜に飲み歩いているようで。そういう事が女王に許されるなら一般人と同じでしょ。

今、付き合っている彼氏とさっさとくっつきなさいと思いますけど。

瑤子女王だけは・・難聴を抱えているし社交的でもないようだし、信子妃と一緒なら宮家に残ってもいいのではないかと思いますが。

さて、「養子」というからには、誰かの養子になるんでしょう?

誰の養子になるんですか?

天皇?秋篠宮?常陸宮?三笠宮?高円宮?

それとも、お亡くなりになった秩父・高松を継ぐの?

宮家の養子になると言う事は、祭祀を受け継ぐという事で・・つまり墓を守って法事をやるって事です。

一番の候補は恐らく秋篠宮家でしょうけど、その際、悠仁殿下の弟にするのか、それとも兄になるのか?

常陸宮家の養子になったら、いきなり老人介護ですよね・・・

養子になっておいて宮邸に住まないのはおかしいし。

沢山の男系男子をみんな一律に皇籍復帰させたら宮邸が足りない。

ゆえにやっぱり大正天皇の家系には屋敷を明け渡して貰わないといけませんよね。

天皇の養子になっちゃったら、いきなり皇太子になるからそうはさせないでしょう。じゃあ、愛子内親王と結婚させて「婿」にして皇位継承権1位を狙ってますか?

全然現実的ではないでしょ

 

これだから歴史を知らない人は。

明治にいきなり久邇宮や山階宮などが宮家をたて、そこから次々別れて二世宮家が出来たんですけど、彼らは何をしたか?

留学ですよ!留学! 維新前までは法親王として寺に閉じ込められていたのが突然「宮様」になったものだから自由を謳歌したい!外国行きたい!と言い出す皇族が増えたんです。

で、明治天皇の財布からお金を出して貰ってイギリスやらドイツやらに留学して全然帰って来ないなんて皇族もいたほどです。

また、「こっちの宮家はいや」と言い出したり「養子をとる」と言い出したり、最後は「宮じゃなくていい」とか言い出したり宮内省を困らせた皇族もいるわけで。

当時はマスコミが発達していませんでしたから、国民にその事実が知れ渡る事はなかったけど、今ならスキャンダルです。

特に久邇宮朝融王・・・つまり香淳皇后のお兄さんの婚約解消話は昭和天皇が直々に怒ったという話がある程で。怒ったからって皇族位をはく奪されるわけでもないって所が嫌なんですが。

21世紀の皇室を担うという意味で、品行方正・質素倹約・義務に忠実な男系男子が果たして何人いるかって話ですよ。

それに今は天皇家が倫理的に許されない事ばかりやっているわけで、それなのに養子になる旧宮家の子孫に品行方正を求めるのは無理では?

また、その男系男子が誰と結婚するか。結婚できるか出来ないかもあるし、選ぶお妃候補が小和田家や正田家のようでは困るわけですから。

皇室結婚相談所」でも作って一定の範囲から選ぶという必要性も出てきます。

 

難題ばかりじゃないですか・・・どこがいい案なのよ。

「養子」なんてワンランク置くからダメなんでしょ。

この際は宮家をダイレクトに皇籍復帰させるべきです。

その際、「親王」なのか「王」なのか、親王の子はどうなるのか。つまり何世皇族として復帰させるかが大きな問題です。

・・・東京維新の会には言いたいです。

昭和に生まれて身分とか身位の違いを知らずに育った人が安易に「養子」なんて考えること自体がおかしいのです。

ゆえに上皇后や雅子皇后みたいに「身分を権力」と勘違いしてしまうんです。

もし、本当に皇室を存続させたいなら「親王」になる人とその配偶者に厳しい掟を課す必要があるでしょう。

 

 

 

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王朝を衰退させるもの 2

2022-04-07 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 

 皇后・皇太后・王妃が政治を担った時

④ 同族で殺し合いをした時

 

 オスマン帝国

宝塚で上演された「壮麗帝」はスレイマン1世という、オスマン帝国最大の権力者で領土を拡大した皇帝でした。

しかし衰退の芽はこの時から・・・それというのも、オスマン・トルコと言えば巨大なハーレムを想像しますよね。

ハーレムに入る女性は他国から連れてこられた奴隷の女達。

皇帝の寵愛を受けて皇子を産めば地位は向上しますが、あくまで身分は低いまま。側室で「スルタン」と呼ばれるまでには相当な功績がないとダメらしいのです。

スレイマン1世にはすでに皇后がいましたけど、奴隷のヒュッレムを側室にし、しかも後に正妻にしたものですから、元正妻の子、ヒュッレムの子と皇位継承で揉める羽目に。

奴隷を正室にするのは宮廷の掟破りでした。

この後、兄弟間による皇位争いが続くので皇位を継ぐと同時に弟達を全員殺すというしきたりまで生まれたのです。

なぜこうなったかと言えば、妃達が皇位継承問題に口出しをして自分に権力を集めようと熾烈な戦いを始めたからです。

やがて、アフメト2世の時代、一旦「弟殺し」は止めましたがその代わりに「鳥かご政策」と呼ばれる窓のない牢獄のような部屋に一生閉じ込めるという政策がとられるように。

それというのも皇帝の弟やその子、孫まで利用して自分が後ろ盾となり操ろうとする母后・王妃が乱立していたからです。

確実にオスマン帝国が衰退し始めたのはこのアフメト1世の正妃であったキョセムが在位僅かで亡くなった夫の代わりに帝国に第一の権力者として登場したからです。

キョセムはイスラムの長老達を背景に次々皇帝を立てて母后として権力を握ります。キョセムがいた時代にムスタファ1世・オスマン2世・ムラト4世・イブラヒム・メフメトと皇帝が変わりました。

このように母后が政治の頂点に立つことでどんどん皇帝が無能化していき、さらに継承者も減って滅んでしまうのです。

 

 清朝

清朝といえば西太后というくらい有名ですね。

彼女が咸豊帝の妃になった時から、清朝が滅びの一途をたどる事になります。

清朝は元々満州族、女真族の一族で一夫多妻制。

オスマン帝国のハーレムとよく似ていますが、違うのは妃達の地位がきっちり何段階にも分かれていることです。

一番上が皇后で後宮の経済から秩序まで全てを担いました。

その下に貴妃や貴人がいるのですが、これまたオスマン帝国と違ってそれらの女性達はみな実家を背負って入宮していることです。

ゆえに妃となったからには一日も早く皇子を産み、東宮にして自分は後の皇帝の母にならなければ生き残れないと考えるわけですね。

だから妃同士の争いも大きいし、その子供達も権力争いの犠牲になって死ぬ場合が多いのです。

皇后の地位は確固たるもので例え側室が生んだ子でも皇后がいる限りその方が「母」ですから、側室たちにすれば邪魔な存在ですね。

西太后の夫である咸豊帝は30歳で亡くなり、その弟達が皇位を狙う中でクーデターを起こし、自分の息子を皇位につけ同治帝とします。

睡蓮朝政を始める西太后ですが、同治帝は19歳の若さで梅毒による死去。後継ぎを残しませんでした。

そこで、西太后は妹が生んだ光緒帝を皇位につけ、権力を持ち続けます。

これが「蒼穹の昴」のお話。

光緒帝は清の近代化を進め、明治維新を成し遂げた日本を参考にしようとしますが、西太后は古い清朝のままを望み対立。

光緒帝は最も愛した珍妃を皇后に出来なかったばかりか義和団の乱で井戸に投げ入れられて殺されるという憂き目にあい、最後には西太后によって冷宮に幽閉されて亡くなります。

西太后が最後に後継者が指名したのがラスト・エンペラーの宣統帝ですが、彼は運命に翻弄され子を残す事もなく亡くなりました。その弟溥傑も娘しか恵まれず、清朝は滅んだのでした。

現在も満州族は存在しますし、が大っぴらに言えないようですね。

 

 朝鮮王朝

元々朝鮮王朝はイ・ソンゲという一人の女真族から始まりました。

それまでの高麗王朝とは民族が違うのです。

李氏朝鮮は中国王朝に隷属しましたので、身分も落ちますし文明も逆戻りするような発展の仕方をします。

李氏朝鮮になってから儒教が絶対的な「規律」になり身分の上下、年齢の上下、親子など、とにかく全てに「上下」が付きます。

そしてその後宮もまた清朝などとよく似ているのですが、要は王妃は後宮を束ねる人、王妃並びに妃達は実家をしょって立ち、実家の権力を増大させる為に頑張る存在で、両班達は常に2つ3つの派閥に分かれて権力争いをし、その力の差で王妃が廃されたり、皇子が殺されたりといった事が繰り返されて来ました。

そんな事ばかりやっていると、次第に後継者がすくなくなります。

24代目の憲宗で直系はすたれ、秩序崩壊、派閥争いは激化。

25代目哲宗はいわゆる反逆者で農民に落とされていたのを王に抜擢されたのですが、その裏には安東金氏という宮廷で絶大な権力を持っていた一族の太妃がいて、彼女のおかげで哲宗は王になれたので、彼は終生祖母に睡蓮朝政をゆるす羽目になりました。

安東金氏の派閥からようやく抜けて即位した高宗。

26代目の高宗は傍系のさらに傍系・・・といった家柄。

しかし、彼を牛耳ったのは父である大院君と妻の閔氏。

舅と嫁による激しい権力争いが始まり、日本が開国し日清戦争が始まって日本が勝利しても、朝鮮は立ち位置を中国の属国から離れようとせず、かと思えばロシアに逃げたり・・・閔氏に至っては自分の身の安全を保障する代わりにロシアに領土の一部を明け渡そうとさえしました。

大院君は日本を利用し、自分の手は汚さずに閔氏を殺しました。

高宗はハーグ密使事件を機に退位を迫られ、日本に併合された朝鮮は純宗が後を継ぎます。

けれど彼はどうもヒ素を盛られていたらしいです。

弟の李垠殿下は日本から妃を貰い、長男の晋が生まれた時に里帰りしますが、ここで晋が突然死してしまいます。その後、玖が生まれました。

彼は日本の皇族と同等の扱いで終戦を迎え、アメリカで市民権を取得。

2006年に日本の李王家邸で心臓麻痺で死去。

21世紀になって、傍系のさらに傍系達が継承争いをしているようですが・・・あまり意味がないですよね。

その他、一族皆殺しで滅びたネパール王室がありますね。これはれっきとした殺人事件ですが、犯人は未だに不明。

この流れを見ていくと、22世紀までに滅びそうな王室・・・それはタイじゃないかなと思います。

現ラーマ10世、ワチラロンコン国王は私的には発達障害を持って生まれたのではないかと思います。

数々の奇行が国際的に評判を落としていますし、何度も結婚しては妃の一族を追放、自分はタイではなくドイツに住むという身勝手ぶり。

タイでは近年学生たちによる「王制廃止」運動が起きましたが、見事に潰されてしまいました。

しかし、次代のラーマ11世となる王子もまたほとんどドイツにいるようですしね。

 

日本に置き換えてみましょう。

日本の皇室と世界の王室では役割や意義が違います。

だから、これまで滅んだ王朝の定義が全て当てはまるわけではないのですが、しかし、先例に学び滅亡を阻止する手立てを考える事は大切な事ではないでしょうか。

先に、江戸末期、孝明天皇の後をついだ明治天皇は一人っ子ですぐに後継ぎが必要でした。しかし、昭憲皇太后との間に子は出来ず、側室達の子供も次々夭折します。

ただ一人何とかぎりぎり助かったのが大正天皇ですが、彼は在位が短かったわりに4人の男子に恵まれ(それでも全部皇后腹)皇室の危機を救いました。

続いて昭和天皇は、側室制度を正式に廃止する代わりに、男子が生まれるまで子をなし続けた方です。そして生まれたのが平成の天皇です。

①の継承者がいなくなる・・という危機を乗り越え、②の革命にあたる明治維新や戦後のGHQ政策でも生き残った稀有な存在です。

その背景には近代の明治・大正・昭和の天皇皇后が必死に努力して「国の父母」としての存在感を示した事にあると思います。

中国や北朝鮮などがやっている愛国教育だけでは皇室への尊崇を維持する事は出来なかったでしょう。

 

しかし、皇室に予想外の事が起きます。

それが③と④です。

③に当たるのが、美智子皇后と雅子皇后2代による「陰の天皇」としての権力を振るったことです。

正田美智子は旧皇族でも旧華族でもない、ブルジョワジーから皇太子妃となり皇后となりました。

彼女の「家柄や血筋より学歴、成績」「物申す嫁は新しい時代の鑑」というプロパガンダが見事に成功し、日本は一大教育ママ製造工場になりました。

また、家制度が無くなった事で夫婦1単位が家族になり、「嫁」意識がなくなると同時に家族の繋がりが希薄になっていきました。

美智子妃は常に「悲劇のヒロイン」「庶民的な妃」をマスコミを通してイメージ作りをし、昭和の末期には「香淳皇后から虐められた」とはっきり言わせる程でした。

その陰で次々皇室のしきたりを変えていき、平成となってからは雑誌の見出しを飾る美智子さまの文字は、皇室外交、政治問題、継承問題にまで波及。

一度だけクーデターが起きたけれど、美智子皇后の「悲劇のヒロイン」ぶりに見事に国民は騙されて勝利しました。

美智子皇后の最大の罪は

 皇太子徳仁に小和田雅子を許したこと

 秋篠宮家に産児制限をかけたこと

です。平成も中盤になっていくと、皇室内の価値観すら「美智子さま」に合わせて世間の常識からどんどん離れていき、皇室外交の場でもその非常識は「常識」としてまかり通ってしまう始末でした。

皇太子の役割、天皇役割の一つに「後継ぎを残す」ことが最も重要であったのに、美智子皇后はそれよりも「学歴のある妃」を持つ息子の方がよいと考えたのでした。

結果、皇太子夫妻には8年もの間、子が生まれずやっと内親王が生まれたのですが、この内親王が今や皇位継承の火種を作ることに。

皇太子の心に配慮したのか、美智子皇后は秋篠宮家に産児制限をかけ、やっと許したのは紀子妃が40になる頃。

紀子妃は致命的に滅びの一途をたどる皇室を救いあげるかのように悠仁親王を産みますが、そのような快挙も皇后にとっては「自分の存在を脅かす者」として警戒するばかり。

そのような美智子皇后がなにゆえに天皇の退位に賛同したか。

仮に本当に「生前退位」を天皇が望んでも美智子皇后が反対したら実現しなかったのではないかと思われます。

むしろ後ろからすすめたのは皇后ではなかったかと。

それはもっとも大事な皇太子が天皇になる姿を見たかったことが一番だったでしょう。

 

雅子皇后は皇太子妃になった時から皇室に適応しようとせず、かといって自分の欠点を受け入れる事も出来ず、「嘘」の自分を作り上げました。

つまり「学歴・学力共にご優秀で総理大臣にもなれかたもしれない女性」といういつわりの姿で、そんな女性を妻に出来た皇太子は感謝しろといわんばかりの態度でした。

生まれた内親王に関しても、自分の子の現実を受け入れることが出来ずに「偏差値72で超ご優秀な」という枕詞をつけマスコミを味方に壮大な「愛子天皇」計画をぶち上げます。

皇位継承権は秋篠宮と悠仁親王にしかないにも関わらず、「女性だからって天皇になれないのは不公平」だと皇位継承とジェンダー問題をごっちゃにして、国民を扇動しています。

おまけに雅子皇后には外戚の小和田恒がくっついてコントロールしていますので始末が悪い。

清朝末期、朝鮮王朝末期も真っ青の秩序と伝統が破綻している・・それが今の皇室です。

そして天皇が自分の誕生日で語ったように「壬申の乱」を引き起こして秋篠宮家を潰そうとしている。

 

天皇家の役割は先の「継承」もありますが、さらに「国家鎮護」も大きな存在理由なのです。

あくまで天皇が祈るべきは日本という国の平和と安定であって、個人の国民ではないのです。

それを忘れて「国民に心を寄せる」などと言い募る天皇はもはや庶民と同じでただの人間。

そうなると皇室の行く末も危ないでしょう。

無事に悠仁親王に継承されれば救いの道もあるでしょうが・・・・

 

要は「王朝」の滅ぶ理由は「自己の利益ばかり追求する王族の存在」ということに尽きるのではないでしょうか。

 

 

 

コメント (6)
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