水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

連載小説 靫蔓(うつぼかずら) (第百二十三回)

2012年08月26日 00時00分00秒 | #小説

  靫蔓(うつぼかずら)       水本爽涼                                     
 
   第百二十三回
しかし、直助は牡丹灯籠ではないにしろ、そうした感情を早智子に抱いていたのである。
 結局、その日はなにごともなかってたかのように一日、誰も来店しない店で座り続ける直助であった。瞬く間に時は過ぎ、早や夕方を迎えようとした頃、ふと直助は店内に人の気配を感じた。あの時と同じ夕刻の五時半ばであった。直助は、いつもの椅子に座り、店番をしながら書き溜めた原稿を推敲していた。直助が左手で凝った右肩を揉みながら、ふと顔を正面に向けると、遠くの本棚の前に早智子がいた。いや、おそらくは、そう思える年格好の女…と思えた。暗闇となり、日射しが完全に消え去った店外と、直助が座る真上の裸電球の灯りでは分からない明るさだから、推測の域は越えられない。早智子と思えるその女は、あの時と同じ本棚の前で本を眺めていた。だが、ただ眺めているだけで、早智子と思しき女は、いっこう直助の方へ近づこうとはしない。直助はそれでも十分、いや十五分ばかりの間、無言で我慢してその女を見続けた。それでも女は、凍りついたようにその場から動く気配はなく、直助に声をかけるでもなしに立ち尽くしている。
「あのう…もし!

 ついに直助は、その女へ声をかけていた。女は一瞬、店番をする直助の方へ顔を向けた。紛れもなく早智子だった。直助は無意識に椅子から立ち上がり、見える早智子の霊の方へ少しずつ歩み寄っていった。


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