風景シリーズ 水本爽涼
特別編 その後[1] 「家族五人」
僕の妹もある程度大きくなって、今や這(は)い這いが出来るまでになった。これには並々ならぬ皆の苦労が・・と書きたいのだが、そんなことはなく、寝る子は育つで、母さんの養育以外は自然とそうなったのだ。むろん、僕にしたってそれは同じで、養育以外は、なにも皆の力を借りた訳でもなんでもない。ただ、一つ言えることは、担任の丘本先生も称賛する僕の才で、恐らくは賢明な母さんの遺伝子によるところが大のように思う。間違っても父さんのそれではないだろう。というのも、いつか学校の図書館で読んだリンカーン大統領の伝記にその事例が明記されていたからだ。彼の(というと、いかにも僕が大物のような物言いになるのだが)母親はナンシー夫人といい、たいそう賢明な方だったらしい。ところが、彼女の夫(リンカーン大統領の父親)は読み書きも出来ない男だったそうである。そんな事例でそう思ったのだが、父さんは読み書きは人並みにできるから、そこまで言えば彼の品位を下げることになり、そうは言わないことにしたい。
「おお、よく寝てるな…」
風呂上がりの父さんが赤ん坊ベッドで眠っている妹の愛奈(まな)を通りがかりに垣間見て横切った。母さんは寝かしつけた愛奈の傍で正座し、洗濯物をたたんでいた。運の悪いことに、その少し離れた台所のテーブルにはじいちゃんがいて、新聞を読み終えたところだった。耳がよく利くじいちゃんは、そのひと言を聞き洩らさなかった。テレビも点(つ)いていた訳で、並みの老人なら聞き洩らしたところだろうが、うちのじいちゃんは、そんじょそこらのじいちゃんではない。いつぞやも言ったと思うが、仏さまの光背のように神々しい頭を照からせているスーパーじいちゃんなのである。加えて、この日は風呂上がりの一杯のあとだったから、赤ら顔の茹でダコだった。
「他人の子みたいに言うなっ!!」
俄かの落雷が父さんを直撃した。父さんは雷をもろに受け、倒れ死んだと思いきや、さにあらず、彼は長年の免疫のような電磁バリアで身体を甲冑(よろい)風に覆い尽くし、ビクともしなかった。っていうか、逆にどこ吹く風の無表情で、応接セットの長椅子に座った。隣には僕がいた訳で、風呂上がりのジュースを堪能(たんのう)していたところだった。険悪なムードになったぞ、と危険を察知して立ち上がった僕を背に、父さんは落ち着き払ってチラッ! と台所のじいちゃんを一瞥(いちべつ)し、立つと縁側廊下へ向かった。そしてドッカとふたたび座布団に座りなおし、馴れた手つきで将棋盤の駒をおもむろに並べ始めた。すると、じいちゃんもスクッ! と台所椅子から立ち、居間へと入った。そして、縁側廊下の父さんに対峙するとドッカと座布団に座り、さも当然のように駒を並べ始めた。要は、二人の間に出来ている暗黙の了解・・ってやつである。母さんは洗濯物を畳み終えると、「正也! 湯冷めしないうちに早く寝なさいよっ!」と言いながら浴室へと消えた。僕は馬鹿馬鹿しくなってコップを台所へ戻す通りがかりに愛奈を覗き見て呟いた。
『大きなお世話だよな…』
妹に僕の言葉が聞こえていたかどうかは分からない。