人は誰もが同じ考え、同じ思想…で繋(つな)がっている。人々は、そうした同種類の人々を見出(みいだ)しては引かれ合い、引き合って繋がりを深くする。その集合体が見えないゾーンである。これは表立っての政党とか会社、組織、グループ、会…などの見えるゾーンとは違う、いわば、表立っては見えない感情のゾーンなのだ。見えないのだから始末が悪い場合もあり、よい場合も当然、生じる。
出汁(だし)邦雄は自分は今、とんでもない方向に進んでいるんじゃないか…と悩んでいた。
一ヶ月前のことである。
「いや、あなたのような人物を探していたんですよ、実は…」
競合するライバル会社のスカウトマン、餅鍋(もちなべ)に遭遇したのだった。露骨な引き抜きである。餅鍋はあの手この手で出汁が生存する見えないゾーン、要はプライべートな趣味などの志向性を探(さぐ)り、上手(うま)く釣ろうとモーションをかけたのである。最初の内は、警戒、プライド、会社への責任感が餅鍋の誘惑を撥(は)ね退(の)けていたが、その砦(とりで)も崩壊(ほうかい)寸前にあった。だが、一抹(いちまつ)の遮(さえぎ)る感情が働き、スカウトに乗ることにブロックをかけ悩ませていたのである。ライバル会社は見えないゾーンで出汁を餅鍋の話の中へ注(そそ)ぎ入れようとしていた。
「もう少し、待ってもらえませんか…。私にも家庭があるんで」
「前向きにはお考えいただいておるんでしょうか?」
「ええ、それはもう…」
課長の出汁を取締役格の部長に迎えようというのが餅鍋の仕掛けた釣り餌(えさ)だった。もちろん、ライバル会社の意向は、利用するだけ利用すれば、そんな話をしましたか? である。二つの見えないゾーンの攻防は、出汁本人の心中で激しく戦われていたのだった。
二ヶ月後、出汁の姿はライバル会社にあった。ライバル会社の業績は伸(の)び、株価も上昇した。餅鍋の釣りは成功したかに見えた。だがそれは、甘かった。
この話は出汁が悩んでいた過去へ遡(さかのぼ)る。実は、悩んだ末(すえ)、出汁は会社の重役、葱(ねぎ)に相談した。葱は釣られたフリをしろ・・と、命じたのである。むろん、ライバル会社が凹(へこ)んだ暁(あかつき)には、出汁を部長として再雇用しようという会社契約書の一筆を渡したあとである。いわゆる、逆スパイになれという見えないゾーンである。
半年が経過したライバル会社の朝である。
「えっ? そんな馬鹿なっ!」
スカウトマン、餅鍋が社長に呼び出された。
「私が、出鱈目を言う訳がないだろ。この会社は今月で終わりだよ…」
「出汁さんは?」
「出汁はもう辞(や)めたよ。私らは出汁に出汁を取られたんだよ、君」
餅鍋は渋い顔で、上手(うま)いこと言うな…と思った。その頃、出汁は契約書どおり部長に昇格し、部長席にいた。見えないゾーンは結局、古巣(ふるす)の会社が占有した。美味(おい)しいお雑煮(ぞうに)が出来たのである。
THE END