世の中で生きる人々には勢いが個々にあって、それらが他の人の勢いと鬩(せめ)ぎ合って渦巻(うずま)いている。だが、その勢いは誰の目にも見ることができない。いわば、その人を取り囲んで守り、あるいは攻めようとするオーラというようなものに他ならない。その勢いが強く、大きければ大きいほど他の勢い、すなわち、他の人々を靡(なび)かせることができるのである。逆に考えれば、その強い勢いに自然と人々は靡くことになる。選挙の当選、出世による地位、名声、金、権力など・・それらのものにとどまらない。国内政治の潮流、さらにはグローバルな地球規模の国家間情勢にも波及する。
「ほんとに、いい加減にしてほしいわっ! どうしようかしら…」
猪口(いのぐち)家の主婦、美智江は、キッチンで洗い物をしながら主人の明男に愚痴った。
「なんのことだ?」
意味が分からない明男は、キッチンテープルで見ていた新聞の手を止め、洗い場に立つ美智江をチラ見した。
「鹿尾さんの奥さんよ。次のPTA会長選挙に出るそうだけど、勧誘がすごいのよっ! レストランに招待されちゃった」
「行きゃいいじゃないか…」
無関心を装(よそお)い、明男は小声で言った。靡けばいいだろうが・・と明男は思った訳だ。
「でも、あんまり好かないのよ私、あの奥さん」
「なら、行かなきゃいいさ…」
明男はまた無関心に返した。
「私が入れたいのは松月(まつづき)さんなんだけどね…」
「なら、松月さんでいいじゃないか…」
明男は愚痴を聞くのが嫌になったのか、無関心から投げやりな口調になった。
「でもさ、松月さん、誘ってくれないのよねぇ~」
要するに美智江はレストランの食事で釣って靡かそうとする勢いと戦っていたのである。
「レストランへ行って入れなきゃいいだろ?」
明男は妙案を出した。靡くふりをせよ・・ということだ。無記名投票なら、お前がどっちに入れたか誰にも分からんだろうが・・と暗に言ったのだ。
「あっ! そうよね、そうするわ…」
美智江はレストランの豪華な食事を連想したのか、舌舐(したな)めずりした。まあこれは一つの例だが、世の中は大よそこんな感じで流れていて、勢いに押され、知らず知らず物事や人に靡くことは、確かによくある。
完