朝からバタバタしているのは、犬のペグを飼っいる柔木(やわらぎ)である。というのは、預(あず)かってもらった動物病院から早朝、電話が入り、出産が近いというのだ。目の中に入れても痛くない…これはまあ、少し大げさな物言いだが、それほど柔木が可愛がっているペグである。当然、バタバタする訳だ。いつもはのんびりとトイレの便座に座る柔木だったが、この朝は便座に座りながら歯ブラシを縦横に小忙(こぜわ)しく動かしていた。もう一匹、飼っている子猫のミーチャは、そんな柔木を、『見ちゃいられん…』と、お気に入りの高台で寝ながら首を動かし、柔木の一挙手一投足を眺(なが)めていた。
「ミルクは、いつものとこだからなっ! とうちゃん、これから行ってくる。すぐ戻(もど)る…」
柔木は、バタバタしながら靴を履(は)き、バタバタと玄関ドアから出た。
動物病院へ柔木が着くと、ちょうどペグのお産が終わったところだった。
「3匹、生まれましたよ。皆、元気です」
獣医の梢(こずえ)は笑顔で柔木に声をかけた。
「そうですか…。ありがとうございました」
柔木が軽くお辞儀をした。そのときだった。柔木の携帯がピピピピ…と激しく鳴った。
「はい、柔木ですが…。おおっ! 田所君かっ! どうした? 君、今、旅行中だったろ?」
『はいっ! 実は乗っていたツアーバスが崖(がけ)から転落しまして、僕、今、病院で手当を受けたとこなんですっ!』
「なんだってっ!! 大丈夫かっ!」
『ええ…お蔭(かげ)さんで僕は軽傷で済んだんですが…』
「あとの3人はっ!!」
『… …』
携帯から田所のすすり泣く声だけが聞こえた。そのとき、飼育室から出てきた梢が柔木に声をかけた。
「3匹、見ますかっ!」
「やかましいっ! それどころじゃないっ!!」
「はあ?」
梢は少し表情を強張(こおば)らせながら、訝(いぶか)しげな顔つきで柔木を窺(うかが)った。
「いえっ! なんでもありません、こちらのことです。…すみません! すぐ、そっちへ行くっ!」
柔木は梢に慌(あわ)てて否定し、ひと言、加えると携帯を切った。柔木は切ったあと、どこへ行けばいいのか分からず、しまった! と悔(く)やんだ。そのとき、ふと柔木は、3匹が生まれ3人が死ぬという妙な偶然の一致にゾクッ! とした。
世間で、妙な偶然の一致は、確かによくある。
完