水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

よくある・ユーモア短編集-51- 笑顔

2016年11月12日 00時00分00秒 | #小説

 世の中で生きていく瞬間は、すべてが真剣勝負だが、そこに臨む本人の姿勢で大きな差異を見せることが、よくある。
 太馬(ふとうま)は、よしっ! と気合いを一つ入れると家を出た。今日はリストラ後、職探しをして受けた会社の面接があるのだ。これまで数社、受けたが、すべてボツで採用されなかった。帰宅して腕組みで考えても、思いつくような原因が太馬には掴(つか)めなかった。ただ、今朝、起きたとき、洗面所で閃(ひらめ)いたことが一つ、あるにはあった。そのこととは、笑顔である。それまでの太馬は仏頂面(ぶっちょうづら)で面接に臨んでいた。だから当然、受け答えする声も陰鬱(いんうつ)で、試験官には悪い印象を与えていたに違いなかったのだ。太馬は今日は一日中、何があっても笑顔で愛想よく振舞おう! と決断したのである。よしっ! と太馬が気合いを入れて家を出たのには、そういう理由があった。
 駅構内へ入ると、偶然、見知らぬ老いた駅員と対向して出会った。
「おはようございます!」
 太馬は微笑(ほほえ)みながら、元気な声でその駅員に言った。
「あっ! おはようございますっ!」
 駅員も笑顔で返事を返してきた。計算でそうした太馬だったが、なぜか気分よくなってきた。それに、何も楽しくないのに、どこかハミングが出るほど楽しい気分がしてきていた。面接は10時からだったから、時間にはかなり余裕があった。事前に面接場所の地図は、ある程度調べておいたが、実際には一度も行ったことがなかったから太馬は迷った。そのとき、目の前に古くからあるような小さな八百屋が現れた。太馬は中へ飛び込んだ。店奥には店主と目(もく)される中年男が、新聞を広げて座っていた。
「あ、あの◎△商事へは、どう行けばいいんでしょう?」
 太馬は笑顔を絶やさず、下手からその店主らしき男に柔和に訊(たず)ねた。その笑顔に気をよくしたのか、店主は新聞を畳むと、立って近づいてきた。
「あんた、この辺のひとじゃないね。◎△商事なら、この前の道を真っすぐ行って、二つ目の信号を右に折れた所さ。…書いてやるよ」
 太馬が頼みもしないのに、店主らしき男はボールペンで新聞のチラシ広告の裏に略図を描いて渡してくれた。
「ど、どうもありがとうございます! 助かります!」
 太馬は笑顔で愛想よく礼を言った。
「ははは…。あんた、いいねっ! あっしも気分がいいや。いやなにね、こちとら江戸っ子でぇ~」
 その日の試験が終わり家に帰宅するまで、太馬は笑顔を絶やさなかった。そして、一週間後、太馬の家へ採用通知が舞い込んだ。笑顔が合格という福を呼び込んだのである。
 笑顔で気分をよくすることは、確かに世間で、よくある。

                    完


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