古舟(こぶね)物産の課長、底板(そこいた)抜雄(ぬけお)は失敗をよくする男だった。いつも何かが脱落しているのだ。自分ではすべてが整ったと思っていても、他人から見れば何かが一つ足りなかった。
つい一週間前にも、こんなことがあった。
「すまんね、底板君。ひとつよろしく頼むよ!」
今年、執行役員に昇格した古舟物産の屋形(やかた)が底板に頼み込んだ。明日、間にあわなければ、間にあわせます! と上役に胸を叩(たた)いた屋形のメンツは丸つぶれになるのだ。
「ああ、それはお任せ下さい。ちゃんと明日には都合をつけますので…」
「ははは…いや、助かる助かる…」
翌日、屋形は、ちっとも助かっていなかった。数量がひと桁(けた)違ったのである。発注数は一万個ではなく、十万個だった。メンツをつぶされた屋形はそれ以降、今朝まで底板と口を利(き)いていない。その屋形と底板がどういう弾(はず)みか今朝、会社の玄関でバッタリと鉢合わせてしまった。双方とも別に喧嘩(けんか)している訳ではない。同じ会社の人間である以上、挨拶しない訳にはいかなかった。
「おはようございます…」
底板がやや深めに頭を下げお辞儀した。その言葉の奥には、『先だっては、どうもすみません。二度と、ああいうミスを犯さないよう心がけます…』という文言(もんごん)が秘められていた。そうなのだ。事あるごとに失敗をよくする底板は心がけることにしたのである。言うまでもなくそれは、すべての物事に注意を心がける・・というものだった。
「おっ! おお…おはよう」
罰が悪そうに屋形も言葉を底板へ返した。その言葉の裏には、『まあ、ミスは仕方ないが、十分、注意しなさい。まあ、君には頼まんが…』という文言が秘められていた。そうなのだ。完全にメンツをつぶされた屋形は心がけることにしたのである。言うまでもなくそれは、今後、底板には頼まないよう心がける・・というものだった。
THE END
人は誰もが同じ考え、同じ思想…で繋(つな)がっている。人々は、そうした同種類の人々を見出(みいだ)しては引かれ合い、引き合って繋がりを深くする。その集合体が見えないゾーンである。これは表立っての政党とか会社、組織、グループ、会…などの見えるゾーンとは違う、いわば、表立っては見えない感情のゾーンなのだ。見えないのだから始末が悪い場合もあり、よい場合も当然、生じる。
出汁(だし)邦雄は自分は今、とんでもない方向に進んでいるんじゃないか…と悩んでいた。
一ヶ月前のことである。
「いや、あなたのような人物を探していたんですよ、実は…」
競合するライバル会社のスカウトマン、餅鍋(もちなべ)に遭遇したのだった。露骨な引き抜きである。餅鍋はあの手この手で出汁が生存する見えないゾーン、要はプライべートな趣味などの志向性を探(さぐ)り、上手(うま)く釣ろうとモーションをかけたのである。最初の内は、警戒、プライド、会社への責任感が餅鍋の誘惑を撥(は)ね退(の)けていたが、その砦(とりで)も崩壊(ほうかい)寸前にあった。だが、一抹(いちまつ)の遮(さえぎ)る感情が働き、スカウトに乗ることにブロックをかけ悩ませていたのである。ライバル会社は見えないゾーンで出汁を餅鍋の話の中へ注(そそ)ぎ入れようとしていた。
「もう少し、待ってもらえませんか…。私にも家庭があるんで」
「前向きにはお考えいただいておるんでしょうか?」
「ええ、それはもう…」
課長の出汁を取締役格の部長に迎えようというのが餅鍋の仕掛けた釣り餌(えさ)だった。もちろん、ライバル会社の意向は、利用するだけ利用すれば、そんな話をしましたか? である。二つの見えないゾーンの攻防は、出汁本人の心中で激しく戦われていたのだった。
二ヶ月後、出汁の姿はライバル会社にあった。ライバル会社の業績は伸(の)び、株価も上昇した。餅鍋の釣りは成功したかに見えた。だがそれは、甘かった。
この話は出汁が悩んでいた過去へ遡(さかのぼ)る。実は、悩んだ末(すえ)、出汁は会社の重役、葱(ねぎ)に相談した。葱は釣られたフリをしろ・・と、命じたのである。むろん、ライバル会社が凹(へこ)んだ暁(あかつき)には、出汁を部長として再雇用しようという会社契約書の一筆を渡したあとである。いわゆる、逆スパイになれという見えないゾーンである。
半年が経過したライバル会社の朝である。
「えっ? そんな馬鹿なっ!」
スカウトマン、餅鍋が社長に呼び出された。
「私が、出鱈目を言う訳がないだろ。この会社は今月で終わりだよ…」
「出汁さんは?」
「出汁はもう辞(や)めたよ。私らは出汁に出汁を取られたんだよ、君」
餅鍋は渋い顔で、上手(うま)いこと言うな…と思った。その頃、出汁は契約書どおり部長に昇格し、部長席にいた。見えないゾーンは結局、古巣(ふるす)の会社が占有した。美味(おい)しいお雑煮(ぞうに)が出来たのである。
THE END
並木有也は勝負師を自負するサラリーマンである。彼は生活のすべてで勝負して生きている。それは、目に見える場合もあり、心だけの目には見えない場合もあった。」
ここは人事部管理課のデスクである。早くから仕事熱心な管理課長の毛利(もうり)が出勤してきて、席に座っている。
「おはようございます」
並木の心の中では勝負が始まっていた。
━ さて、今日は陽気なパターンでいこう。果たして、3文字以上、口を開くか? ━
並木は他人が聞けばどうでもいいような勝負を、内心で勝負していた。
「ああ…」
━ チェッ! 2文字かよ… ━
並木が不満げに腰を下ろした姿を、運悪く毛利が見ていた。
「どうかしたの、並木君?」
毛利は毛のない頭を禿(はげ)散らかして、そう言った。出勤時間としては、双方ともかなり早く、まだ誰も出勤していなかった。
「いえ、べつに…」
「そう? …今朝も早いね」
並木としては思わぬ展開である。
━ 2文字だったが、2文字以上だな。ヨッシャ! ━
並木は内心でガッツポーズをした。恰(あたか)もサッカーの決勝点をゴールへ叩きこんだストライカーのように、である。これで並木の出たとこ勝負は決した。昼食は食堂ではなく、行きつけの鰻屋、魚政に決まったのだ。
昼の休憩になり、並木は喜び勇んで駆け出した。だが生憎(あいにく)、店は臨時休業していた。
━ なんだ… ━
並木の出たとこ勝負は、コンビニ弁当に変化した。人生とは、こんなもんだ…と、並木は大げさに思った。
THE END
時間の空(あ)きが出来たから、ひとつ今日は食欲をそそるものでも作ってみよう…と小坂七郎は思った。冷蔵庫の中を調べるのがまず、料理の第一である。いわゆる、調理の第一歩だ。梅雨時でウインナが臭い始めていた。これは、調理崩れになる危険性を孕(はら)むと予見した小坂は、使用するのをやめ、それを湯がいた。食べられなくはないが危うい食材を捨てるのは、俗(ぞく)に言う『もったいない』だ。湯どうしすれば、これはもう医学で言うところの殺菌消毒に他ならず、目に見えない菌達は時代劇的にバッサリ! 斬られたことになる。死滅するのだ。料理はスムースに進行し、冷やし中華が完成した。だが、まだ調理は終わっていなかった。
「さてと…」
小坂はひと声、呟(つぶや)くと手を動かし始めた。料理のあと片づけである。まず、使った料理用具、食器を普通料理用洗剤で洗い、収納した。調理の一を終えた。俎板(まないた)を殺菌用の洗剤で洗い流した。調理の二を終えた。続いて、食器などを拭(ふ)いた布巾(ふきん)を漂白剤+洗濯洗剤+水の溶液につけ殺菌処理をした。調理の三を終えた。なんか、身体がジメジメしたのでシャワーでサッパリした。調理ではなかった。
THE END
久しぶりに仕事が早く上がり、滝山正は美味(うま)いツマミを味わいながら軽く一杯やっていた。たまに飲む酒である。酔いが、いっきに襲い、滝山をホッコリとさせた。世に言う、ほろ酔い寛(くつろ)ぎ気分である。滝山が久しく忘れていた気分だった。滝山の場合、これが、いけなかった。忘れたままならよかったのだが、思い出してしまったのである。滝山はそれ以降、仕事が終わるとこのホッコリ気分が味わいたくなっていった。そして、それが重なり、病(や)みつきになった。人生はどこでどう転ぶか起きるか分からない。仕事がおろそかになり、滝山は貧乏になった。転んだ訳である。こうなれば、ホッコリ相場の話ではなくなる。滝山は仕方なく、また仕事に精を出し始めた。すると、ホッコリとし、仕事に張り合いが生まれた。滝山はまた金が貯(た)まり出した。起きた訳である。久しぶりに仕事が早く上がり、滝山正は美味いツマミを味わいながら軽く一杯やっていた。たまに飲む酒である。酔いが、いっきに襲い、滝山をほっこりとさせた。これは過去にあったパターンだぞ…と滝山は思った。ホッコリは、いけないいけない…と滝山はホッコリ気分を慎(つつし)んだ。
THE END
困ってもいない人に出しゃばれば、大きなお世話となる。さらにそれが高じると、もう迷惑以外の何ものでもなくなり相手を怒らすことにもなりかねない。
牛窪(うしくぼ)和馬(かずま)は買物をしていた。もうないか…と買い忘れを確認し、牛窪はレジへ回った。レジに並ぶ人が少ない列を選んだ牛窪は前の人が支払い終わるのを待った。前の人は老婆だった。レジ係はその老婆には何も言わず、牛窪には「お持ちしましょう」と、勝手に運び始めた。牛窪は少し腹が立ったが、そこは抑(おさ)えて腹に収めるとレジ係の女性に言った。
「いえ、結構です。戻(もど)して下さい」
腹は立っていたが、荒げず穏やかに言い返した。レジ係は元へ戻した。支払い終え、牛窪は店のトイレへ入り、はたと考えた。そのレジ係の何がそう言わせたのか、についてである。一見すれば、自分はまだ老い耄れていないぞ! という確信が牛窪にはあった。外見もまだお年寄りには見えないだろう…と分析した。では、なぜ? である。店が指導する接遇に問題があるのではないか? と考えてみた。困っている人のみを対象にすれば、ことは足りるのだ。その指導が徹底されていないのではないか…と考えた。まあ、そんなとこだろう…と分析を終え。牛窪はトイレを出ようとした。考えながら用を足していた牛窪は、トイレットぺーパーの先をいつの間にか折っていた。次の人が使いやすい…という単純な潜在意識がそうさせていた。次の人には大きなお世話だった。
THE END
どうも最近、ムラムラする・・と、馬宿(うまやど)景太は思った。夜になると、なぜか腹が減って寝られないのだ。退職してから、この傾向が強まったように馬宿には思えていた。初めのうちは即席のカップ麺でなんとか凌(しの)いだものの、人間とはどうも欲深(よくぶか)に出来ているようで、馬宿は次第に内容をグレードアップしていかざるを得なくなっていった。本能的な欲望の叫びに勝てなかったのである。即席のカップ麺だったものが生麺カップとなり、やがては自(みずから)、袋入り麺をスーパーで買い、それを調理するまでになっていった。
「よし! まあまあだ…」
出来上ると、馬宿は味見して、満足げにそう言った。当然、そのあとは食した。食べ終えてすぐ、眠気が馬宿を襲った。馬宿はこれで眠れる…と、胸を撫(な)でおろし、眠りについた。だがそのパターンもそう長くは続かなかった。馬宿が、さてどうしたものか…と思いあぐねていた深夜、遠くで夜鳴きそば屋が吹くチャルメラの音がした。馬宿の足は瞬間、無意識に動いていた。言うまでもなく、外の夜鳴きそば屋をめざして、である。
「毎度! また、ご贔屓(ひいき)に!」
勘定を済ませ店を出ると、暖簾(のれん)越しに屋台の主(あるじ)の声がした。家に戻(もど)ったとき、眠気が俄(にわ)かに馬宿を襲った。馬宿はこれで眠れる…と、胸を撫(な)でおろし、眠りについた。だがそのパターンもそう長くは続かなかった。ついに馬宿は夜鳴きそば屋を開業することにした。
THE END
船路(ふなじ)灯輝(ともき)は風変わりな老人画家として世に知られていた。彼は思ったことをズバッ1 とあからさまに言う性格だった。ズバッ! と言う・・とは、単刀直入(たんとうちょくにゅう)の直球で語るということだ。インタビューが、この性格から中断されたことは幾度もあった。
「え~~、受賞されたご感想は?」
「ははは…下さるんなら、いただきましょう・・ってとこですかな。それより、アンタのネクタイ似合ってないよっ」
「えっ? …大きなお世話ですよ!」
今日も、取材が中断された。旋毛(つむじ)を完全に曲げた取材記者をアレコレとカメラマンが慰(なぐさ)めた。
「やめやめっ!」
取材記者の怒りは鎮(しず)まらず、先に帰ってしまった。カメラマンは、ペコリ! と船路にお辞儀すると部屋を出ていった。
「ふんっ! 世話の焼ける奴だ。初めから来なきゃいいじゃないかっ!」
船路はそう吐き捨てると、またキャンパスに向かい、色を塗りたくった。
そんな船路が国営放送に討論会に特別ゲストとして登場した。制作サイドの思惑は、建前(たてまえ)で語る論客に飽(あ)きがきたからだった。アナウンサーの沈着かつ冷静な質問に対し、船路の強烈であからさまな発言が飛び出した。
「はははは…。あなたはお仕事ですから、あなたに、とやかく言うつもりは毛頭ございませんが、私に言わせりゃ、この討論会は茶番劇ですな。いや、失礼…」
「と、申されますと?」
「与野党とも、しっかりしたことを言っておられる。よく聞いておれば双方とも間違っておらないように聞こえる。ははは…実は、双方とも、少し間違っておるということですかな」
「例(たと)えば?」
MCの解説委員が訊(たず)ねた。
「細かく言いますと、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。あからさまに言えば、まあ、皆さん、テレビ目線の立場で語っておられる。これが居酒屋かなんかで、一杯ひっかけながら美味(うま)いツマミを味わい、赤ら顔で語ってみなさいな。あからさまで、返って上手い具合に。ははは…そうはいかないでしょうがな。では私はこれで。仕事がありますのでな。あっ! どうぞ、立て前をお続け下さい」
テレビ中継の途中にもかかわらず、船路はスタジオから退席した。その後、憤慨(ふんがい)して誰も発言する者はいなくなり、中継画面は途絶えた。
[番組の途中ですが、予定を変更いたします]
音楽が流れ、テレビ画面にはテストパターンと字幕が映し出された。テストパターンだけが、あからさまだった。
THE END
学校へ通じる細道と新幹線がクロスする高架(こうか)下である。自転車で走る中学1年の穴道(あなみち)進の頭の上を、轟音(ごうおん)とともに新幹線が通過していった。進は無性の負けず嫌いだった。新幹線が通り抜けた瞬間、イラッ! ときた。僕の頭の上を断りもなしに通過するとは…と、怒れたのだ。度々(たびたび)、新幹線が通過する姿を進は見てきたが、幸(こう)か不幸か、高架の下へ入った瞬間の遭遇(そうぐう)はなかった。それが今日は、タイミングよく同時となったのである。進としては最悪の事態だった。自転車を漕(こ)いでいて高架が近づいたとき、今までにも新幹線が通過すると進はムカッ! とはしていた。それでも、イラッ! とまではしなかった。今日はムカッ! ではなくイラッ! としたのだ。それからが大変だった。そのことが大きな事件を引き起こしたのである。その日から進の姿は忽然(こつぜん)、と消えた。当然ながら、家族から警察へ捜索願が出された。誘拐(ゆうかい)、事故(じこ)、失踪(しっそう)の三面から捜査は開始されたが、明確な情報は得られず、月日は流れていくだけだった。
「ただいま…」
なんの前触(まえぶ)れもなく突然、進が家へ帰ってきたのは、それから数ヶ月先だった。両親は驚きと喜びを同時に露(あら)わにした。
「イラッ! としたから、家を調べに行ってやったんだ…」
「…」
両親は進の天然さに返す言葉が出なかった。
THE END