私が毎朝の朝焼けのランニングの時に聴いているAudibleの『李陵』。
以下のフレーズが、この李陵のクライマックスと思われるのですが、ここを聴くたび、私はいつも12.5年監禁された後藤徹さんのことを想っている。
~~~以下引用~~~
想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠まことに凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人(なんぴと)にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
~~~引用終わり~~~
これを後藤徹さんに当てはめると:
想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもいつまでも続くか分からぬ長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠まことに凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、家族の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られぬかもしれないというほとんど絶望的な事実も、この男にとって、平生の信仰を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
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「蘇武持節」ってのは中国では四字熟語的になっている。こちら
『李陵』を愛して30年になりますが、「持節」とか「節を持す」って言葉は、蘇武の故事から生まれた、ってことを、本日初めて知った、、、
※ 「節義」の「節」までが蘇武由来かは今日のところは未確認
蘇武が胡地で節を持していたのは19年。伝説の19年。19年も祖国漢を思い、使者の証である「節」を持していた。だから「蘇武持節」が故事になった。
後藤さんが信仰を持ち堪えたのは12.5年。「後藤持節」ならぬ「後藤持信」(信仰を持つ)も四字熟語になっていい。
後藤徹さんに敗訴した鈴木エイト氏や拉致監禁に深く関与してしらばっくれていらっしゃる紀藤正樹弁護士にも、この中島敦の名作『李陵』を読んでいただきたいものである。
後記:リンク貼れませんが、日蓮聖人もこの蘇武の逸話を引用している文献が8個もある。日蓮も蘇武好きだったか、、