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SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 ソン・ケムン 第24回

2017年12月31日 | 日記

イエス様が病人をいやされた時、また、石を持った律法主義者からマリヤを救い出された時「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8:11〕と言われたのは、不可能なことを要求されたのでしょうか? 違います! 誤った福音はクリスチャンもずっと罪を犯すしかないと教えます。しかし真の福音は、今この瞬間罪に勝つことができ、またこれからも勝つことができると言います。

 イエス様は、人が罪を犯さなくても生きられるという事実を知っておられます。どうしてですか? 人間として来られたその方が、罪を犯されなかったからです! 罪の一つの性向にも屈服せず、勝利できるという事実を経験的に知られたのです。そのため「今からは決して罪を犯してはなりません」と要求できるのです。もし人間の立場をとられなかった神様が言われたのなら、私たちは数多くの言い訳を生み出すことができます。

 皆さんが、今実際に十字架の下にいると想像してみてください…。

イエス様が釘づけにされ、血が十字架の下に落ちています。

自分はその下にいます。そこで十字架を眺めています。

十字架を眺める人は、キリストがそうだったように、罪を犯すことを死ぬことよりも恐れます。

十字架の下にいる人は、自分の罪の凶悪性を誰よりもよく知っています。ですから十字架の恵みを知る人は、自分の救いが最終目的地ではありません。私の永遠の運命とは関係なく、自分が今、息をしているこの瞬間、父なる神様とキリストの栄光が、自分を通して高められることを切望する人生を生きるのです。


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第23回

2017年12月30日 | 日記

世の人と私が同じ罪を犯しているのなら、彼らより罪悪感をもっと強く感じることを除いて、違いは何ですか? それで、十字架は罪の呵責を感じる私の良心を慰めてくれる赦しの道具以外に、何の役割がありますか?

 これは福音ではありません。 それは人類を罪の鎖で縛ろうとするサタンの欺きです。十字架によって勝利する力を与えてくださる、キリストの愛と聖霊のパワーを悟った後では、もはや罪の支配下にいる必要はない、という事実を知るようになりました。

 堕落した本性を持っているので、罪は仕方なく担っていかなければならないと思っていました。しかし、「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」(ローマ6:6)とあります。私たちがキリストと共に十字架につけられたら、罪を征服するようになるということです。

多くの人たちが、罪を赦してくださるキリストだけを愛しています。なぜ私たちを清めてくださる、キリストの力を信頼できないのでしょうか! 実際キリストは、私たちの犯した罪のためだけではなく、私たちを罪に誘う潜在的な性向からも救うために来られました(1ヨハネ1:7、9; ローマ7:23~25)。聖句の通りに「すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(1ヨハネ1:9)方なのです。


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第22回

2017年12月29日 | 日記

イエス様は、私たちが犯した罪だけでなく、私たちを罪に導く潜在的な性向からも救うために来られたことを、悟るようになりました(1ヨハネ1:7、9;ローマ7:23、25)。

イエス様が私たちと同じ、罪の性向を持つ肉体をとって来られた事、悪に傾きやすい先天的、後天的性向を含めた、すべての罪の習慣と「すべての不法」(テトス2:14)から、私たちをあがない出すために来られたという、驚くべき福音を悟った瞬間でした。

 

私を罪から助けてくださるのです! マタイ1:21の聖句は、何回も見て、説教もしましたが、覆われた目では悟ることができなかったのです。「十字架の赦す恵み」だけが必要だった罪人が、「十字架を通して与えられる聖霊の力」によって「罪に勝利するクリスチャンになることができる」事を初めて悟った瞬間でした。

その日の朝、神学者たちが語るイエス様ではなく、本当に「私の神様」に会った感激と感動は、表面的な信仰と知的な教理でしか知らなかったイエス様を、直接触って、感じて、熱く愛することができるように導きました。その日の朝の家庭礼拝で、神様の愛に打たれて家族と抱き合って泣いて、子供も一緒泣いて…。そうしながらその日の朝、「小さな一つの炎が」という賛美歌を歌いました。

  ♪  ♫

小さな一つの炎が大きな火となり

周りの人の心を燃やした

主の愛を一度味わえば、その愛を皆に伝えたいと思うようになる

山に登って世界に叫ぼう、私にくださった主の愛を伝えたい

 

その日以降、過去に全く感じたことのない平和がいっぱいになり、キリストの十字架の犠牲をしみじみと悟るようになり、以前には感じていなかった、真理の尊さを悟るようになりました。それから聖書を見るたびに、まるで聖句が金色に光っているように、新たに理解できるようになりました。

私は生まれ変わる前、このような説教をしていました。「私が嫌悪するその罪を、いつの間にか行っていることを発見します。私たちは神様の言われる通り生きようと努力しますが、彼の言葉に完全に服従することは人間には不可能です。 十字架を見ましょう」。

皆さんの中に、このような状態の方はいませんか? この誤った説教が皆さんに慰めを与えますか? それなら何が間違っていますか? それならクリスチャンと、世の人との違いは何ですか?


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第21回

2017年12月28日 | 日記

また、別の疑問は、「果たしてイエス様は、私の悩みや誘惑と戦う苦しみをわかってくださるだろうか。こんなに細かいことまで理解してくださるのか? 聖霊の法則と罪の法則が戦う、この経験がどういうものか分かってくださるだろうか?」ということでした。

福音の力を全く経験できず、知識としてしかイエス様を知らない私には、解けない問題でした。この問題を解決するため、1年余り壮絶な戦いをしました。高校3年の受験生のように、夜12時まで聖書を勉強し、朝4時には起きて、切実に祈り叫びました。しかし、知識では分かっても、体験的に理解できないもどかしさを味わいました。

真理に対する渇きを解決するため、長い期間、凄まじい闘争をしてきたある日の明け方、「これからは、聖書を知的な研究の対象としてではなく、私が救いを受けるため、『罪人を救ってくださる神様の福音』を体験させていただきたい」と切にお祈りした後、マタイによる福音書から読み始めました。そしてゆっくり一節一節を読んでいきました。「 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。

その時、まるでイエス様が私の耳に、直接語っておられるような感じを受けました。「君を罪の鎖から解放させてあげよう。遺伝的に持っている罪の弱さも、私に持って来なさい。それを可能にするために、私はこの地に来たのだよ!」


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第20回

2017年12月27日 | 日記

単純で純粋な福音の代わりに、イエス様のある部分は遺伝法則を受け、ある部分は遺伝法則から除外されたと説明する、複雑微妙なイエス様像を反キリストは作りました。そしてキリストは誘惑に勝利する事において、私たち人間にはない特別な能力を所有していたので、私たちはキリストのような「勝利者」にはなれない、という教えが教会を荒らすことになりました。そのため、人間の完全な服従とか、キリストが罪の性質を持って受肉されたことを教える人は「おかしくて危険な人たち、異端」と呼ばれる状況になってしまいました。

神様のなさったすべてのことを、サタンは偽造しています。キリストの受肉という美しい福音も、サタンが偽造しました。それで私たちは福音を正しく理解しなければならないのです。

 

私がいつも悩んで、苦しかった一つの問題がありました。それはまさに「罪」の問題でした。罪に陥った時「本性的に罪人の私はどうしようもない。ああ、神様、私を赦してください!私は、十字架なしに一瞬も生きられない者です」と言いながら、赦しの恵みにすがりました。しかし、私のような者も赦されるその恵みの大きさにもかかわらず、時には「これが本当に福音だろうか?」と感じるもどかしさがありました。

「こんなに神様を愛したくても、再び罪を犯すこの悲惨な経験の繰り返しが、キリスト者の生活だろうか? 私がこんなに罪と戦っても、結局、十字架で赦されるしかないのか? 私は白く塗った墓だ。よそ目に敬虔そうに見えていれば、心は汚くてもいいのか?」。