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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 69

2013年07月31日 | 日記

  

  69

民数記21章で、イスラエル人たちはマナのことで文句を言い出した。民数記11章の4節では、イスラエルの人たちを扇動して、マナはあまりにも味気ないと言わせたのは、烏合の衆であったことが分かる。彼らがエジプトで培った食欲は、マナを受けつけなかったのだ。今日も、同様の原則を当てはめることができる。世俗の本やその他の印刷物、また世的な考えは、天来の命のパンに対する関心を失わせてしまう。さらに、イスラエル人が文句を言ったとき、火のヘビが現れて人々を噛み、病に倒れさせた。神はモーセに、真ちゅうのヘビを作り、さおの上に掛けるように言われた。信仰によってそれを見上げる人は、誰でも生きるようになるためであった。同様に私たちも、神の単純なみことばに頼って生きる経験をしなくなると、罪という火のヘビにかまれて死んでしまうのである。神に向かって救いを叫び求め、信仰によってふたたび十字架上の救い主を見上げるとき、私たちはいやされる。そのとき私たちは、再び罪祭の経験をし、魂は再び清めにあずかる。永遠の生命を相続しようと思うなら、生ける神の言葉をだらだら食べてはいけない。さて、あなたは毎日マナを食べているだろうか?

 

 原稿:職場新聞への寄稿より:来たるべき日に備えて 4 母の涙

翌朝、それが母の父、私の祖父が亡くなったのだと知らされた。私にとっては母方の祖父であり、遠くに離れていて、夏休みと冬休みに少し会うだけの存在であったが、母の父への思いの深さ、死への悲しみの深さは、強烈な印象として残ることになった。そして、その日学校を休み、汽車とバスを乗り継いで3時間ほどの所にある母の実家へ葬式に出かけた。そのとき、お棺に納められた祖父の痩せた青白い顔と、死に装束の白さは私の目に焼きついた。初めて人の死に直面した私の心に浮かんだ、「人間は死ぬとこうなるんだ。死ぬってどういうことなんだろう」という思いは、その後の私の人生にずっと何らかの形で影響を与えて続けていたのだと思う。


福音の道しるべ 68

2013年07月30日 | 日記

 

 

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B.供えのパンの机

 聖所内の第二の物品は、供えのパンの机であり、それは神の言葉を象徴している。みことばを通して聖霊が提供する力と恵みによって、神は私たちの聖化の経験を導かれる。みことばはキリストのことである(ヨハネ1:1参照)。聖化に至る道は、他にない。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。キリストは、次のようにも言われた。「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。・・・よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:48-51,53)。

 勝利を得るために、私たちは隠されたマナを食べなければならない。マナは、この地上におりて来られたキリストを表している。マナは生ける神の言葉、命のパンでもあり、それを食べる者は生きるのである。イスラエル人は荒野でマナを食べたが、それは契約の箱にも納められた(出エジプト16:32-35参照)。マナが地上に降ったとき、イスラエル人たちは、「これは何だ?」と尋ねた。「マナ」というのは、まさにそういう意味である。ちょうどマナが天から降ってきて地上を覆ったように、命のパンであられるイエス・キリストは地上におりて来られ、人の罪深い性質をとられた。彼はひとりの人間となられ、飼い葉桶で寝ている赤ん坊イエスを見た人たちは、「これは誰だ?」と尋ねた。キリストが真のマナである。マナが夜間に天から降ってきたように、世界が罪と誤謬で非常に暗くなっていた頃、キリストはこの地上におりて来られた。マナは早朝に集められた。一定の時刻を過ぎると、マナはとけてなくなった。同様に、私たちも早朝に霊的マナを集め、その日に必要な霊的食物を食べなくてはならない。時間が経過して、俗事が心を占めるようになると、天のマナは消失してしまう。霊的マナも、荒野のマナと同様、自分で植えて収穫できるものではない。それは、神からの賜物である。私たちは、それを作ることができない。しかし、マナを見つけようとして、遠くをさがす必要はない。イスラエルの人たちが朝起きて外へ出てみると、そこらじゅう至る所にマナが落ちていた。神がお与えになる命のパンも、私たちの近くに見出される。そのマナを食べるとき、私たちは生き返り、すべての罪に勝利できる力を得るのである。


    原稿:会社の新聞への投稿より:来たるべき日に備えて ③ 母の涙

 私が中学生の時である。家族みんなが寝静まった真夜中に、突然玄関の戸をたたく音がして「電報です。電報です」という声が聞こえた。夢み心地の中で、玄関の戸を開ける音が聞こえたかと思うと、突然、「とうとう死んだ!」という母の大きな叫び声と、その後はしゃくりあげる泣き声が聞こえてきた。布団の中で私は、こんなに取り乱した母の声を聞き、「いったい何が起きたのだろう。母はどうしたんだろう」と心配で、その夜は眠られなかったのを覚えている。小学校教師の妻で、近所でも評判の美人と噂される母を、私は内心誇りに思っていた。その母をこんなに悲しませるものとは何だったのだろう。



福音の道しるべ 67

2013年07月29日 | 日記

    67

あなたは、神の言葉も絶えず補給しているだろうか?十人のおとめの譬えの中で、愚かな五人は、ランプに油がなかったために追い返された。彼女たちは、神の言葉に従って絶えず生きることをしなかった。賢い五人は、「自分たちのあかりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた」(マタイ25:4)。彼女たちは、みことばの研究を通して、あかりを保ち続けた。その上、ランプの油を蓄えるための別の器を用意していた。この追加された器は、預言の霊〔証の書〕を象徴しているのかもしれない。聖化を持続させる唯一の方法は、預言の霊を含む神の言葉を日ごとに吸収することである。これが、救いの経験を維持する唯一の方法なのである。問題が浮上し、誘惑が押し迫るとき、みことばに没頭して、魂の扉を閉ざそうではないか。神の言葉だけを根拠にして生きよう。神の言葉が私たちを清めるのである。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119:105)。「あなたの真理によって彼らを清めてください。あなたのみことばが真理です」(ヨハネ17:17―欽定訳)。


  原稿:職場新聞への投稿より : 来たるべき日に備えて ② 生い立ちが問う問い

「人は自分の生い立ちが問う問いを問い続けていかなければならない」という言葉を誰かが言っていた。私は多分、自分が生まれてから十数年の間に受けた強烈な印象の意味、人生の疑問、そういうものを引きずり、その答えを無意識のうちに探していたのだと思う。というのは、高校時代の私は、偶然ではあったが、浄土真宗のお寺に一年間下宿し、そこで小説を読み漁る傍ら、『歎異抄』などの仏教書や外国の哲学書などを読み、人は何のために生きるのか、死とは何かなどを考えていたのである。そして私の心をそのような方向に向けさせた一つの大きな出来事は、母の涙にまつわるものである。

 

福音の道しるべ 66

2013年07月28日 | 日記

    

 66

「生きた、焼き尽くされるべきいけにえとして自我が祭壇に置かれない限り、神は最上のささげ物もお受け入れにならない。根は清浄でなければならない。さもなければ、健全な実を結ぶことはできない。健全な実だけが、神に受け入れられるのである。心は回心し、清められなければならない。動機は正しいものでなければならない〔ここでは外庭の経験が描かれている〕。心のともしびは、天の使者〔旧新約聖書〕から流れ出る油で給油されねばならない。その油は、金の管を伝って金の器に注がれる」(教会への証7巻248-249ページ)。

 上の引用文は、ゼカリヤ書4章の場面に言及しており、そこには、金の燭台の両側に生えている二本のオリーブの木が登場する。これらの木は、絶えず油を供給するためのもので、燭台につながっている。読者諸君は、聖霊の満ちあふれるほどの供給を日々経験しているだろうか?絶えずみことばを研究し、そこに書かれてあることを実践するときにのみ、私たちは聖霊を受けることができるのである。


 原稿:職場新聞への投稿より   来るべき日に備えて  ①

   聖書との出会い

 今からおよそ2000年の昔、当時強大な軍事力によって地中海世界を支配していたローマ帝国の片隅で、一人の思想家が次のように書いた。「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠がわたしを待っているばかりである」。

 彼の名は使徒パウロ。彼は武力によるローマ帝国の絶対支配に対し、愛による精神の自由を唱えたことにより、権力に反逆するものとして投獄され、やがて斬首の運命にあうのであった。薄暗く汚い独房の中で、近づきつつある死の足音を聞きながら、しかし、彼の心は限りなく明るい未来に向かって開かれていた。

 私がこの言葉に出会ったのは、今から40年以上前、受験浪人として京都の予備校に通っていた時であった。その頃は学生紛争が最も激しい時代で、自分が翌年受験するべき大学の学生たちが、勉強そっちのけで機動隊との衝突を繰り返しており、多くの大学が長期の休校を余儀なくされていた。その中で私は、自分が何をしたらいいのか進むべき道が見つからないあせり、生きる意味の不確かさ、湧き上がる欲望、死への漠然とした不安などを抱えながら予備校通いをしていた。そんな時、ふとしたきっかけから、教会へ行くようになり、この言葉と出会い、このように力強く堂々と生きそして死んでいった人の生き方を知りたいと思うようになっていった。



福音の道しるべ 65

2013年07月27日 | 日記

   

 65

 光の威力を例証してみよう。たとえマッチ一本でも、真っ暗な部屋の中で点火すれば、闇は消失する。光がどんなに小さくても、闇は光に勝つことができない。太陽が昇ると、地を覆っていた闇は追い散らされる。光が照り輝くと、木々やつるの陰は退いてしまう。

 キリストは、「わたしは世の光である」と言われた(ヨハネ8:12)。光が私たちの心に入ってくると、あらゆる誤りと罪は追い散らされる。私たちの魂は、肉体となられたみことばなるキリストを通して純潔にされる(Ⅰペテロ1:22参照)。つまり、キリストが私たちの内に宿り、私たちが彼の内に宿るとき、私たちは光の子らとなるのである。キリストの内に宿るとは、彼が歩まれたように、みことばと戒めに従うことである。「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)。真理に従うことによって、キリストが聖霊を通して私たちの内に宿られるように、私たちはキリストの内に宿るのである(ローマ8:5参照)。


  説教集:永遠の愛  ⑥ よき死はよき生から

 大阪に淀川キリスト教病院という所があります。ここは、日本の終末期医療・ホスピスの草分け的な働きをしてきた病院です。この病院のホスピス長をしておられる、柏木哲夫先生という方がこのように書いておられます。

 「私は今まで臨床医として400人近い人の死に、直接、間接にかかわりを持ってきました。中には本当に平安な死を迎える人があるかと思うと、苦しみ悩みながら死を迎える人もあります。そのありさまは人それぞれ、実にさまざまです。しかし、多くの人々の死を看取ってきて、もっとも印象に残り、また教えられたことは、人は生きてきたように死んでいく、ということです。言いかえれば、人は生きてきたようにしか死ねないということです。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいきます。人に感謝しつつ生きてきた人は、人に感謝しながら死んでいきます。人をいたわって生きてきた人は、残される者をいたわりながら死んでいきます。いっぽう、まわりに依存して生きてきた人は、医者や看護婦に、そして家族に依存しながら死んでいきます。すべて、その人の生きざまが死に反映するというのが患者さんから教えられた一番大きなことでした。よき死を迎えるためには、よき生を生きなければならない。これは私自身がこれまでホスピスの働きを通して学んだ最大のチャレンジであると共に、私の人生に対するチャレンジでもあります」。(『安らかな死を支える』)

 よき死を迎えるためには、今日という日をよく生きる必要があります。そのよき生を、そしてよき死をイエス・キリストは私たちに教えて下さるのです。

  《 あなたによき生が与えられますように 》