デビット・カン 福音の道しるべ 101
例えば、もし人が自分の息子に犯罪を教えるならば、彼は息子の行為について幾分かの責任がある。同様にサタンは、人類が犯してきたほとんどすべての罪に対して責任がある。もし誰かが、花瓶を運んでいる通りがかりの人をつまずかせ、その人がころんで花瓶を割ってしまったら、責任はつまずかせた人にある。このように、聖徒たちが罪を犯すきっかけとなった諸状況をつくり出した責任を、悪魔は負わなくてはならない。赦され、取り除かれた罪の罰は、キリストが受けて下さったが、自らの罪を彼に明け渡さなかった者たちの罪責は負って下さらない。従って、根絶されるべき罪は、贖罪の日の儀式が終わる前に、すべて悪魔に移されねばならない。アザゼルがこれらすべての罪を負って、荒野に追いやられねばならない。この後、なおも罪を犯し続ける者たちは、刑罰を受けるであろう。
真の贖罪は、罪の問題が完全に解決されたときに、初めて成し遂げられる。あなたの罪は、現在どこにあるだろうか?すべての罪は、天の聖所に送られているだろうか?それともあなたは、今でもそれらを保有しているだろうか?私たちは、これらの質問を真剣に熟慮すべきである。
レビ記16章によると、アザゼルのヤギは、「定めておいた人」によって荒野へ連れて行かれねばならなかった。ユダヤ人の歴史によると、この定めておいた人は、一年前にあらかじめ大祭司が選んだそうである。まる一年間、この選ばれた人物は、この役割のために心を備え、自らを鍛えた。贖罪の日の締めくくりとして、彼はイスラエルの民の面前で、アザゼルのヤギを人の住んでいない荒野へと引いて行った。もしも定めておいた人がこのヤギを逃がしてしまったら、イスラエルの全宿営が滅ぼされるのであった。主のヤギの運命を目の当たりにした、このアザゼルは、この人の手から逃れようと懸命になる。人も獣も、命がけで奮闘した。この定められた人は、悪魔を千年の荒廃した荒野に連れて行く、十四万四千を象徴している。罪を拭い去られ、天に移されるにふさわしい品性を有する彼らは、ヤコブの悩みの時を通過し、彼らに罪を犯させようとするサタンの最後の試みに耐えねばならない。
新生への道 : 悔い改め⑦
神の栄光のただ一筋でも、あるいはキリストの純潔の一瞬のきらめきでも、人の心に差し込むなら、心の汚れの一つひとつが、痛いほどにはっきりと見せられ、人の性質の欠点、欠陥がすべてさらけ出されます。それは汚れた欲望、不誠実、汚れた会話などをはっきり見せるのです。罪人の目には、神の律法を無視した不誠実な行いが、はっきりと見せられ、人の心を探る聖霊に打たれ苦しめられます。そして、キリストの純潔無垢のご人格をながめて、自分を忌みきらうようになります。
かつて預言者ダニエルは、自分に天使がつかわされたとき、その天使の栄光をながめて、自分の弱さと不完全さを感じ、気を失ってしまいました。その驚くべき光景に打たれ、「力が抜け去り、わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」(ダニエル10:8)と言いました。このように、神と出会った魂は、利己心を憎み、自己愛を忌みきらい、キリストの品性に調和した心の純潔を求めるようになります。
パウロは「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ3:6)と言いましたが、ひとたび、律法の霊的精神が理解されたとき、自分は罪人であると悟ったのです。人が律法を外的生活にあてはめ、律法を字義的に解釈するなら、彼は罪を犯していなかった、と言えるでしょう。しかし、その聖い条文の深い精神を見つめ、神がご覧になるように自分を見つめたとき、心はへりくだり、神の前にひれ伏し、自らの罪を告白したのです。彼は、「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」(ローマ7:9)と語りました。ひとたび、律法の霊的精神がわかったとき、罪の醜さがそのまま、はっきりと見せられ、自尊心は消え去ったのです。