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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 101

2013年08月31日 | 日記

 デビット・カン  福音の道しるべ  101

例えば、もし人が自分の息子に犯罪を教えるならば、彼は息子の行為について幾分かの責任がある。同様にサタンは、人類が犯してきたほとんどすべての罪に対して責任がある。もし誰かが、花瓶を運んでいる通りがかりの人をつまずかせ、その人がころんで花瓶を割ってしまったら、責任はつまずかせた人にある。このように、聖徒たちが罪を犯すきっかけとなった諸状況をつくり出した責任を、悪魔は負わなくてはならない。赦され、取り除かれた罪の罰は、キリストが受けて下さったが、自らの罪を彼に明け渡さなかった者たちの罪責は負って下さらない。従って、根絶されるべき罪は、贖罪の日の儀式が終わる前に、すべて悪魔に移されねばならない。アザゼルがこれらすべての罪を負って、荒野に追いやられねばならない。この後、なおも罪を犯し続ける者たちは、刑罰を受けるであろう。

真の贖罪は、罪の問題が完全に解決されたときに、初めて成し遂げられる。あなたの罪は、現在どこにあるだろうか?すべての罪は、天の聖所に送られているだろうか?それともあなたは、今でもそれらを保有しているだろうか?私たちは、これらの質問を真剣に熟慮すべきである。

レビ記16章によると、アザゼルのヤギは、「定めておいた人」によって荒野へ連れて行かれねばならなかった。ユダヤ人の歴史によると、この定めておいた人は、一年前にあらかじめ大祭司が選んだそうである。まる一年間、この選ばれた人物は、この役割のために心を備え、自らを鍛えた。贖罪の日の締めくくりとして、彼はイスラエルの民の面前で、アザゼルのヤギを人の住んでいない荒野へと引いて行った。もしも定めておいた人がこのヤギを逃がしてしまったら、イスラエルの全宿営が滅ぼされるのであった。主のヤギの運命を目の当たりにした、このアザゼルは、この人の手から逃れようと懸命になる。人も獣も、命がけで奮闘した。この定められた人は、悪魔を千年の荒廃した荒野に連れて行く、十四万四千を象徴している。罪を拭い去られ、天に移されるにふさわしい品性を有する彼らは、ヤコブの悩みの時を通過し、彼らに罪を犯させようとするサタンの最後の試みに耐えねばならない。


   新生への道 : 悔い改め⑦

 神の栄光のただ一筋でも、あるいはキリストの純潔の一瞬のきらめきでも、人の心に差し込むなら、心の汚れの一つひとつが、痛いほどにはっきりと見せられ、人の性質の欠点、欠陥がすべてさらけ出されます。それは汚れた欲望、不誠実、汚れた会話などをはっきり見せるのです。罪人の目には、神の律法を無視した不誠実な行いが、はっきりと見せられ、人の心を探る聖霊に打たれ苦しめられます。そして、キリストの純潔無垢のご人格をながめて、自分を忌みきらうようになります。

 かつて預言者ダニエルは、自分に天使がつかわされたとき、その天使の栄光をながめて、自分の弱さと不完全さを感じ、気を失ってしまいました。その驚くべき光景に打たれ、「力が抜け去り、わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」(ダニエル10:8)と言いました。このように、神と出会った魂は、利己心を憎み、自己愛を忌みきらい、キリストの品性に調和した心の純潔を求めるようになります。

 パウロは「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ3:6)と言いましたが、ひとたび、律法の霊的精神が理解されたとき、自分は罪人であると悟ったのです。人が律法を外的生活にあてはめ、律法を字義的に解釈するなら、彼は罪を犯していなかった、と言えるでしょう。しかし、その聖い条文の深い精神を見つめ、神がご覧になるように自分を見つめたとき、心はへりくだり、神の前にひれ伏し、自らの罪を告白したのです。彼は、「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」(ローマ7:9)と語りました。ひとたび、律法の霊的精神がわかったとき、罪の醜さがそのまま、はっきりと見せられ、自尊心は消え去ったのです。


福音のみちしるべ 100

2013年08月30日 | 日記

 

    100

 厳粛に心を探っている間、ひたすら聖所に目を向けて、大祭司が至聖所から出てくるのを待った、昔のイスラエル人のように、私たちは自らの心を探りつつ、天の聖所に信仰の目を向けているべきである。贖罪の日の経験にあずかったイスラエル人だけが、仮庵の祭りを喜んで祝うことができた。同様に、罪の赦しを受け、キリストのご品性を完全に反映する者たちだけが、印されて、ガラスの海の上に立ち、実体としての仮庵の祭りを祝うであろう。聖所のすべての象徴と祭りは、聖書に啓示されている通りに成就するであろう。贖罪の日の裁きは、私たちの目の前で成就されつつある。信仰によって、私たちは恵みの座の前に立つのである。十四万四千は、神の御前にとがなき状態で立つ。それは一体、どういうことなのだろう?彼らの過去の罪はすべて赦され、これらの罪を二度とふたたび繰り返すことのない、聖なる品性を兼ね備えたのである。花婿の前に出る準備をととのえた花嫁のように。

信徒らのすべての罪を除く上で、大祭司は、彼らの罪のために最後のとりなしの祈りをささげた。イスラエルの子らの一つひとつの件が処理された。が、もう一つ重大な働きが残っていた。アザゼルのヤギを、荒野に連れて行かなくてはならなかった。この通称スケープゴートは、サタンを表している。サタンは、自らの罪と、彼が人に犯させたすべての罪の審判を受けるであろう。アザセルのヤギは、贖罪の働きの一部ではなかった。贖罪が完成した後に、すべての罪の責任〔重荷〕がヤギに負わされた。ほとんどの罪の責任は、二人以上の者に科せられるべきである。サタンと、彼にそそのかされて罪を犯した個々人が、それぞれ責任の相当分を負うのである。

 

   新生への道 : 悔い改め ⑥

罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒むこともできますが、逆らいさえしなければ自然にイエスに引き寄せられるのです。そして救いの計画を知るようになると、自分の罪が愛する神のみ子をこのように苦しめたことを悔いて、十字架のもとにひざまずくのです。

 自然界にも働いているこの同じ神のみ心は、人の心に呼びかけ、人が持ち合わせていない何ものかに対する表現しがたい渇望を起こさせるのです。この世のものではどうしても彼らの渇望を満たすことはできません。聖霊は、心に真の平安を与えることができる唯一のものであるキリストの恵みと、清めの喜びを求めるように訴えています。私たちの救い主は絶えず、さまざまの力を用いて、満足のない罪の快楽を離れ、キリストによって与えられる限りない祝福を求めるよう、私たちの心に働いておられます。この世の渇ききった泉のほとりで飲もうとしても、飲むことのできない人々に、み言葉は、「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録22:17)と呼びかけています。

 あなた方のうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めておられる方は、その心の願いが、魂へ呼びかける神のみ声であることにお気づきになるでしょう。どうかその時は、神が悔い改めを与えてくださるように、そして限りない愛にあふれ、全く純潔そのものの姿のキリストを、お示しくださるように祈っていただきたいのです。救い主は、神のおきての原則、すなわち神と人とを愛するということを、その生涯において完全に実行されました。また、慈しみと無我の愛が救い主の命でした。ですから私たちが救い主をながめ、救い主の光に照らされるとき、はじめて自分の心の罪深さが見えてくるのです。

 私たちもニコデモのように、自分の生活は正しくて、道徳的にも間違ったことはしていないとうぬぼれて、ふつうの罪人のように神の前にへりくだる必要はないと考えているかもしれませんが、ひとたびキリストの光が心の中にさしこむとき、自分たちがどれほど汚れているかがわかるのです。また、何をするにも自分の利益ばかり考え、神に逆らい、日常のあらゆる行動が汚れていたことを悟るのです。そして、私たちの義は汚れた衣のようであって、キリストの血だけが罪の汚れを清め、彼の品性にかたどって、私たちの心が新しくされることを知るのです。

 



福音の道しるべ 99

2013年08月29日 | 日記

 


   99

ガラテヤ人への手紙5章の19節から21節に、私たちが二度と繰り返すことなく、永久に休止しなければならない、肉の働きが記されている。「すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」。「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」(24節)。贖罪の日に徹底的な罪の清めにあずからなかった人たちは、宿営の外で石打ちの刑に処せられた。最終的に、悪魔が人類の罪の責任を負わされる。ただし、自らを徹底的に罪から清めなかった人たち、すなわち今後も決して罪から離れることのない人たちは、サタンや悪天使の軍勢と共に、自ら大切にしてきた罪もろとも滅ぼされるであろう。

「天で調査審判が行われ、悔い改めた罪人の罪が聖所から除かれているその間に、地上の神の民の間では、清めの特別な働き、すなわち罪の除去が行われなければならない。・・・この働きが成し遂げられると、キリストの弟子たちは、主の再臨を迎える準備ができるのである」(各時代の大争闘下巻141ページ)。


     新生への道 : 悔い改め ⑤

キリストはすべての正しい動機の根源であって、彼だけが人の心のうちに罪を憎む心を植えつけることがおできになります。ですから、真理や純潔を慕い求めること、自分の罪深さを認めることなどは、キリストの霊が私たちの心に働いておられる証拠です。

 イエスは、「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)と言われました。キリストは世の罪のために死なれた救い主として、罪人の前に示されなければなりません。カルバリーの十字架にかけられた神の小羊をながめるときにはじめて、説明することのできない救いの計画の神秘が私たちの心にも理解され、神の深い恵みが私たちを悔い改めへと導くのです。キリストは罪人のために死なれ、はかり知れない大きな愛をあらわしてくださいました。罪人がこの愛を知るとき、深い感銘を受けて心はやわらげられ、悔い改めへと導かれるのです。

 もちろん、人は自分がキリストに導かれていることを意識する前に、罪深い行為を恥ずかしいと思い、悪い習慣をやめることがあります。けれども、人が正しいことをしたいと切望して改めようと努力するときはいつでも、キリストの力が働いて彼らを引きつけているのです。自分たちが意識していなくても、その力が心のうちに働いて良心を呼びさまし、行為が改められるのです。やがてキリストに導かれて十字架を見せられ、自分たちの罪が彼を刺し通したことを知るとき、おきての精神が良心にはっきり焼きつけられ、悪に満ちた生活や、心の底深くに根ざした罪が示されます。彼らはキリストの義が何であるかを幾らかでも理解するようになり、「ああ、なんと罪は恐ろしいものだろう。罪のとりこになった者を救うためには、このような大きな犠牲が払われなければならなかったのか。私たちが滅びないで、永遠の生命を受けるためにはこのような大きな愛、恐ろしい苦しみ、また、はずかしめが必要だったのか」と叫ばずにはおられなくなります。



福音の道しるべ 98

2013年08月28日 | 日記

 

デビット・カン著『 福音の道しるべ』より

  98

 魂を悩ますことには、その日、断食することも含まれていた。この断食は、今日の私たちにとって何を意味するのだろう?それは、健康に関するメッセージを通して与えられる光を指している。ウェブスター辞典に、断食とは、「控えめに食べること、また特別な食物だけを食べること」と書かれている。断食は、必ずしも食を断つことではなく、厳格な食事という意味もある。食事は健康に影響すると同様、脳の機能にも影響する。要するに、食事は私たちの決断力に影響を及ぼすのである。最終世代に与えられている健康に関する光、特に食事の法則に従わない人たちは、品性完成の最終段階でつまずき倒れることだろう。健康のメッセージは、実体としての贖罪の日に、より鋭敏な知力と善悪の観念を与えてくれる、神からの大きな祝福なのである。

 贖罪の日の間、イスラエルは全く仕事をしなかった。この点は、今日の私たちに、どう当てはめられるのだろう?聖書によると、仕事を休むことの他に、別の種類の休みがある。この休みについては、ヘブル人への手紙4章の1節から11節が光を放っている。「それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル4:1-2)。「したがって、わたしたちは、この安息に入るように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル4:11)。神への全的服従を通して罪から完全に休止するという経験こそが、真の安息なのである。3節から10節では、その安息が、カナンに入ったイスラエル人の経験以上のものであることが説明されている。それは単に、第七日安息日を守ることのうちに見出される休息ではないことが強調されている。それには、悔い改めや告白や赦しを受けること以上の意味がある。それは、罪に対して勝利を得、二度と倒れない術(すべ)を会得する民を指している。絶えず罪や誘惑や自我と戦うことにより、神の安息に入る民は、絶えざる勝利を得る術を身に付けるのである。

 

   新生への道 : 悔い改め

ところがここで思い違いをして、せっかく、キリストが与えようとしておいでになる助けを受けない人が多いのです。つまり彼らは、まず悔い改めなければキリストに近づけない、悔い改めは罪のゆるしを受ける準備であると思っています。もちろん悔いくずおれた心だけが救い主の必要を感じるのですから、悔い改めが罪のゆるしに先だつのは当然です。それでは、罪人は悔い改めるまではイエスのもとに行かれないのでしょうか。悔い改めが罪人と救い主との間の障害物となってよいでしょうか。

 聖書は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けられないとは教えていません。罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私たちは、キリストなくしては赦しが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心を呼びさまさなければ悔い改めることができないのです。



福音の道しるべ 97

2013年08月27日 | 日記

  

  97

われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に罪を悔い改め、心を低くすることによって、身〔原文では「魂」〕を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは、民の中から絶たれるのであった。それと同様に、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願うものはみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身〔魂〕を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。多くの自称キリスト者がいだいている軽薄な精神は、捨て去らねばならない。われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、はげしく戦わなければならない。準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない。一人の者の純潔と献身は、これらの資格を欠く他の人の埋め合わせにはならない。すべての国民が神の前で審判を受けるのであるが、しかし神は、あたかもこの地上にその人一人しかいないかのように、厳密に一人一人を審査されるのである。すべての者が調べられねばならない。そして、しみもしわもそのたぐいのものがいっさいあってはならないのである(2GC224ページ)。

 

   新生への道 : 悔い改め ③

けれども、人の心が神の聖霊の感化に服従するならば、良心は呼びさまされ、罪人は神のおきてがいかに深くまた聖いものであるかを悟り、これこそ天地を治めておいでになる神の政治の基礎であることを知るようになるのです。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)とあるその光に、心の奥底を照らされ、また暗闇にかくされていた事柄を照らし出されて、心も魂も、自分は罪ある者だという思いでいっぱいになります。そして、正しく、また人の心を探られる神の前に、罪と汚れのまま立つことを恐れます。こうして、神の愛、聖潔の美、純潔の喜びを認め、自分も聖められて神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのです。

 ダビデが罪を犯した後にささげた祈りは、罪に対する悲しみをよくあらわしています。彼は真面目に、心の底から悔い改めたのです。自分の罪を弁護しようとするのでもなければ、恐ろしい刑罰から逃れようという気持ちから祈ったのでもありません。ダビデは自分の罪の恐ろしさと魂の汚れを認めて、自分の罪を憎んだのです。彼が祈ったのは、罪のゆるしばかりでなく、心が清められることでした。また聖潔の喜びを切望し、もう一度神とやわらぎ、神との交わりに入りたいと願ったのです。彼の心から次のような言葉があふれ出ました。

 「そのとががゆるされ、

 その罪がおおい消される者はさいわいである。

 主によって不義を負わされず

その霊に偽りのない人はさいわいである」

    (詩篇32:1、2)

 「神よ、あなたのいつくしみによって、

  わたしをあわれみ、

  あなたの豊かなあわれみによって、

  わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。・・・

  わたしは自分のとがを知っています。 

  わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

  ヒソプをもって、わたしを清めてください。

  わたしは清くなるでしょう。

わたしを洗ってください、

わたしは雪よりも白くなるでしょう。・・・

神よ、わたしのために清い心をつくり、

わたしのうちに新しい 正しい霊を与えてください。

わたしをみ前から捨てないでください。

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

あなたの救いの喜びをわたしに返し、

自由の霊をもって、わたしをささえてください。・・・

神よ、わが救いの神よ、

血を流した罪からわたしを助け出してください。

わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

   (詩篇51:3~16)

 このような悔い改めは、とうてい自分の力でできるものではありません。これは天にお上りになって、人間に聖霊の賜物を与えてくださるキリストによるほかないのです。