福音の力を体験せよ 86 (福寿草は開き切れませんでしたが、庭の隅の蝋梅が一輪だけ咲いていました)
イエス様は皆さんの罪を覆ってくださるのではなく、その罪を持って行かなければなりません。彼は、私たちを罪から救うために来られたのであって、罪のままで救うために来られたのではありません。ただし、自分が罪人であることを悟らなげれば、主は私たちを救うことがおできになりません。
では、救いの第二段階は何でしょうか?私たちが主に抵抗せず、主と共に過ごす時間を持つとき、主は第二段階へと導かれます。ヨハネ1章8節には、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とあります。
私はいつも、何かに対して少しでも誤ったときは、すぐに罪の意識を感じていました。ずいぶん幼い頃から、ほんの少し嘘をついたり、だましたり、ほんの少し過ちを犯しただけでも、心の中に罪悪感が生じました。その過失を償うか、悔い改めるかしなければ、心に平安はありませんでした。にもかかわらず、ほんとうの義とは何かをはっきり知りませんでした。
主の幕屋の中へ 20
≪真面目な、教会執事を努めていたあるご夫婦は, 神様を信じる人でしたが、趣味の旅行に明け暮れ、神様が与えられた目的を理解することなく、心に本当の満足感もないまま過ごしていました。心の寂しさを満たすために、あれこれやってみた結果、最後に、全ての財産を失って、目の前には莫大な借金だけが残ってしまうような試練にあって、やっと正気を取り戻し、真剣に神様を求めるようになりました。その結果、心を変えて下さる神様の恵みを体験し、すべてが神様の恵みであったと告白しました≫
エルサレムの崩壊から70年後、 神様は、イスラエルをバビロンの捕囚から帰ることができるようにされました。その時、イスラエルは謙遜にされ、改革された民でした。神殿を再建して奉仕する意識を回復しました。ところが、しばらくたつと、再び背教が起こりました。全く同じような事が繰り返されたのです!
ただ、現地で老人ホームや刑務所の教会の伝道活動を見てこれたのは祝福でした。
また、辺鄙な島のゴミ集積所で暮らす人々に奉仕しているミッショナリーの方々と交われたのも良い経験でした。
考えさせられました。