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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

イエス様は私たちの模範  第4回

2016年01月31日 | 日記

心の安息が人を生かす

そのような心で生きるときに、多くの場合、病気が癒されるのです。私が言っていることがお分かりでしょうか? 死の恐怖を持っている人の多くが、病によって亡くなっていきます。しかし、神様のご計画を心から信頼し、心に本当の安息の経験を持つなら病が癒される、そういうことを、私は自分のミニストリーの人たちの経験から見てきました。これは、神様のみ力なのです。イエス様は、私たちを死の恐怖から救って下さる方なのです。死の恐怖にとらわれている人たちを解放するのです。

ヘブル2章16節を見ます。

確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。

16節の英語訳をみてみますと、“He took not on him the nature of angels but he took on him the seed of Abraham.”「彼は、天使の性質ではなく、アブラハム子孫の性質をとられた」と書いてあります。これは、まさに私たちと同じ肉のことです。しかし、イエス様は、そのような状況の中で罪を犯すことがなかったのです。天使の性質ではなく、私たちと同じ弱さをもった肉体を持ってこの世界にお出でくださったからこそ、イエス様は私たちの模範となることが出来るのです。

いいですか、イエス様は私たちと同じ条件で生きられ、同じように誘惑を受けられたのです。ですから、イエス様は私たちを助けることが出来、執り成すことが出来るのです。皆さん、≪執り成しの祈りというのは、単に私たちの罪をご自身の血潮によって赦し、悔い改めを取り上げ、それを神様に紹介してくださることではありません。それは、罪の勝利を私たちに与える力なのです。これが、イエス様の仲保者としてのお働きです≫。罪に勝利する力を与えるものなのです。そのためにも、主は人としてこの世に生まれてくださったのです。神様が人のうちに宿られたのです。

 


イエス様は私たちの模範 第2回

2016年01月30日 | 日記

 死の恐怖からの解放 

先ほどのヘブル書には、「死の恐怖」と書いてありますが、このことで思い出すことがあります。実は、去年南アメリカに伝道集会に行ったのですが、その時、とても小さな飛行機に乗って行きました。だいたい20人ぐらいの人が乗っていました。その時、天候があまり良くなかったのです。雨が降っていまして、風も強かったのです。そして、飛行機が非常に揺れたんです。すると、ちょうどイースターというカトリックの大きな祭典の時期だったこともあり、飛行機の中には多くのカトリックの方が乗っていって、一斉に、十字をきったり、指輪に口づけをしたりしてお祈りが始まりました。それを見ていて、少し不思議に思ったのです。

多くの人が、死の恐怖に中に生きているということがわかったんです。なぜ、死を恐れるのでしょうか? イエス様を個人的な救い主として受け入れ、復活の希望を持ち、救いの確証を持っているべきクリスチャンが、なぜ死を恐れるのでしょうか? 多くのクリスチャンが、病気になったり、ガンを告知されると、泣きわめいて、死にたくないと叫ぶことがあります。皆に、祈ってください、と頼み、ありとあらゆる手術を受けたりするのです。今日のテーマは、健康改革や、自然療法ではないので、あまりそういったことを話すつもりはないのですが、ガンを告知されたら、それは祝福です。そうではないですか?ちょっと、答えにくいですね。

皆さん、これは本当に大きな祝福です。ガンを告知されたなら、休むことが出来ます。仕事をやめて、「私は半年後、一年後に死ぬでしょう。その時がいつなのかはわかりませんが、主に委ねています」。そのように言えばいいのです。これは、証のための本当によい機会となるはずです。

今までの人生を振り返り、心を吟味して、それを清めていただく時間とすればいいのです。もし、自分の余命がわかれば、霊的な問題に関して、本当に真剣になると思いませんか?ですから、これは、本当に祝福なのです。そうですよね? いまやっと、少し、「アーメン」と聞こえましたね。これは、ほんとうに祝福です。私たちは、物事に対して、クリスチャンとしての視点を持たなければいけません。

また、ほかの病気になったとしましょう。その時、「主よ、なぜ私がこんな目にあうのですか」と、赤ちゃんのように駄々をこねないでください。みなさんは、成熟したクリスチャンです。感謝するのです。どちらにせよ、私たちは死ぬことになるのですから。

ラザロは、どうでしたか? 彼は復活しましたが、やがてまた死にました。私たちは、いずれ死ぬことになるのですから、決して、それを恐れないで欲しいのです。死から逃げ回らないでください。もし、そのような時は、神様に感謝をしてほしいのです。こう祈っていただきたいのです。「主よ、この機会を心から感謝します。この機会に私は、私の人生を振り返り、心から悔い改め、心を清めたいと思います。主よこの祝福を心から感謝します」。


イエス様は私たちの模範 第2回

2016年01月30日 | 日記

 死の恐怖からの解放 

先ほどのヘブル書には、「死の恐怖」と書いてありますが、このことで思い出すことがあります。実は、去年南アメリカに伝道集会に行ったのですが、その時、とても小さな飛行機に乗って行きました。だいたい20人ぐらいの人が乗っていました。その時、天候があまり良くなかったのです。雨が降っていまして、風も強かったのです。そして、飛行機が非常に揺れたんです。すると、ちょうどイースターというカトリックの大きな祭典の時期だったこともあり、飛行機の中には多くのカトリックの方が乗っていって、一斉に、十字をきったり、指輪に口づけをしたりしてお祈りが始まりました。それを見ていて、少し不思議に思ったのです。

多くの人が、死の恐怖に中に生きているということがわかったんです。なぜ、死を恐れるのでしょうか? イエス様を個人的な救い主として受け入れ、復活の希望を持ち、救いの確証を持っているべきクリスチャンが、なぜ死を恐れるのでしょうか? 多くのクリスチャンが、病気になったり、ガンを告知されると、泣きわめいて、死にたくないと叫ぶことがあります。皆に、祈ってください、と頼み、ありとあらゆる手術を受けたりするのです。今日のテーマは、健康改革や、自然療法ではないので、あまりそういったことを話すつもりはないのですが、ガンを告知されたら、それは祝福です。そうではないですか?ちょっと、答えにくいですね。

皆さん、これは本当に大きな祝福です。ガンを告知されたなら、休むことが出来ます。仕事をやめて、「私は半年後、一年後に死ぬでしょう。その時がいつなのかはわかりませんが、主に委ねています」。そのように言えばいいのです。これは、証のための本当によい機会となるはずです。

今までの人生を振り返り、心を吟味して、それを清めていただく時間とすればいいのです。もし、自分の余命がわかれば、霊的な問題に関して、本当に真剣になると思いませんか?ですから、これは、本当に祝福なのです。そうですよね? いまやっと、少し、「アーメン」と聞こえましたね。これは、ほんとうに祝福です。私たちは、物事に対して、クリスチャンとしての視点を持たなければいけません。

また、ほかの病気になったとしましょう。その時、「主よ、なぜ私がこんな目にあうのですか」と、赤ちゃんのように駄々をこねないでください。みなさんは、成熟したクリスチャンです。感謝するのです。どちらにせよ、私たちは死ぬことになるのですから。

ラザロは、どうでしたか? 彼は復活しましたが、やがてまた死にました。私たちは、いずれ死ぬことになるのですから、決して、それを恐れないで欲しいのです。死から逃げ回らないでください。もし、そのような時は、神様に感謝をしてほしいのです。こう祈っていただきたいのです。「主よ、この機会を心から感謝します。この機会に私は、私の人生を振り返り、心から悔い改め、心を清めたいと思います。主よこの祝福を心から感謝します」。


主イエスこそ我らの模範  第2回

2016年01月29日 | 日記

   靴を脱ぐ経験

ヨハネの福音書14章30、31節にこう書いてあります。

「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。

皆さん、ここに、「彼はわたしに対してなんの力もない」とありますが、この状態こそ、最終世代の人々が持つべき品性なのです。さらにわたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」とありますが、これは、私たちが神様の律法を守ることが出来ること、そして律法が愛であることを証明するために来たと言っておられるのです。これは、受肉の経験です。聖書の中で、燃える柴が象徴している経験なのです。

みすぼらしい柴が火で包まれているのに、その木が燃え尽きることがなかったあの現象に象徴される経験です。モーセがこの火をたいへん不思議に思い、それを確認しようとした時に、天から声が聞こえました。「ここは、聖なる場所です。靴を脱ぎなさい」。私たちがイエス様の人性や生涯を語る時、私たちは靴を脱ぐ経験が必要です。それらは、聖なる主題だからです。この燃える柴は、イエス様の受肉の経験を表しているのです。

聖所の儀式において、契約の箱は、アカシアの木で作られていました。その木を純金で覆ったものが、契約の箱でした。アカシアの木は、私たちのこの弱められた肉体を表しています。イエス様も私たちと同じ肉体をとってこられたのですが、そのうちには、天の父なる神様の十戒が収められていたのです。その心に律法が刻まれていたのです。そして、それを掴んでおられたのです。

神様の神格が、その罪のさまである肉体のうちにあっても、その体は燃え尽きることがなかったのです。これが、奇跡なのです。この燃える柴は、イエス様の人性を象徴するものです。そして、これは私たちの今日の歩みをも象徴すべきものなのです。私たちは、堕落した肉体を持っています。しかし、罪に勝利し、神様の恵みよって、つまり、聖霊様の働きを通して、その戒めが心に刻まれ、それを守ることが出来るようになるなら、私たちは、神様の御前に立つことが出来るようになるのです。神様のシェキーナの栄光によって燃え尽きることがないのです。 

そのことがまさに、イエス様の再臨の際に起きるのです。再臨の時、私たちの体は、朽ちないものに瞬く間に変えられます。なぜ、それが可能なのでしょうか? それは、神様の栄光の輝き、シェキ-ナが私たちを焼き尽くすことがないからです。なぜなら、私たちが従順な民に創り変えられているからです。皆さん、イエス様は、私たちの模範です。

ヘブルの手紙2章14-18にこうあります。

 「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。

 ここにはっきりと、イエス様は私たちと同じ血と肉を備えておられるとありますね。言いわけの余地がないくらいはっきりしていることです。イエス様は、私たちと同じ、堕落した、弱まった体を持っておられました


イエス様は私たちの模範 第1回

2016年01月28日 | 日記

   思い込み信仰の危険

 

今日の学びは、ある方にとっては、新しい学びとなるでしょう。また、ある方にとっては、復習ということになると思います。どちらにしても、私の願い、そして祈りは、この短い聖書の学びが皆様の魂の糧となることです。

さて、私たちは、天国へ行ってもどんどん成長していきますよね?そうですね?ということは、完全というのは、決して到達点ではないということです。イエス様にある完全というのは、性質のことなのです。まず、そのことを今日の学びの最初に理解していただきたいと思います。完全は到達点ではなく、性質です。

今回、私たちは、このカルフォルニアに5人で来ました。なぜなら、このセミナーの次に、他のプロテスタント教会の方々へのセミナーも予定しているからです。今日アトランタの空港に着きまして、デルタ航空のカウンターに行ったのですが、本当にびっくりすることがありました。彼らが言うには、私たちの名前がないといのうです。私たちは、水曜に飛行機に乗って、講演会をしなければいけないのに、そのように言われてしまって本当に困ったわけです。そこで調べてみたところ、水曜日のチケットの予約のはずだったのに、なんと次の木曜日の予約ということになっていたのです。その結果、「今日は、飛行機に乗ることが出来ません」、そのようにデルタ航空の受付の人に言われてしまったのです。私たちはこのチケットを、インターネットのサイトから購入したのですが、とても安い料金で購入できました。しかし、私の間違いなのか、それともコンピュータ上のトラブルがあったのか、それは分からないのですが、とにかく一日先の日に予約をしてしまったのです。それで、何とかこの問題を解決しようと、カスタマーサービスや本社に電話をかけたのですが、彼らは、どうすることも出来ないということでした。なぜなら、これは注文をした私たちのミスだからということなんですね。そこで、最終的には追加料金、ペナルティーを払って、今日の飛行機に乗ることになりました。そのペナルティーは、5人分ですので、とても大きい金額になりました。しかし、講演会がありますので、そのペナルティーを払いました。

彼らが言う、注文した私たちのミスだという証拠が何だったかというと、彼らは確認のためのメールを送った、それが証拠だということなんです。そのメールには、日付、どこから、どこへ行くという詳細が書いてあるので、そのメールに対して、返信がなかったということは、この内容で承認したということだ、そのように言われたんです。

確かにメールを受け取っていたのですが、私は正しく注文したと思い込んでいましたから、ちゃんと確認しなかったわけです。私たちは、完全に思い込んでいたんです。いいですか、皆さん、多くのクリスチャンが思い込みという間違いをしていることがあるのです。信仰の問題に対して、思い込んでいることがあるのです。私たちは、黙示録14章の三天使の使命を理解し、教会の教理や神学を理解している、終末時代にどのようなことがあるか理解している、そのように思い込んでいることがあるのです。

今日は、皆さんと一緒に、なぜ、イエス様が私たちの模範となるかについて、考えていきたいと思います。もしかすると、今日のお話で驚かれる方もいるかもしれません。

では、はじめましょう。

 

     私たちの模範キリスト

 

イエス様は、私たちクリスチャンの模範です。まず、一つ質問してみたいと思います。私たちは、イエス様のように生きることが出来るのでしょうか?答えは、YESでありNOです。どういうことかと言いますと、私たちは、イエス様と全く同じ奇跡を行ったり、彼と同等になることは出来ません。しかし、私たちは、イエス様をお手本として、彼に似ることが出来るのです。イエス様のような品性を築くことが出来るのです。皆さん私たちは、二心の奉仕を捧げることは出来ません。中途半端な服従、屈服というのは、決して受け入れられないのです。

皆さん私たちは、この終わりの時代に、4つのグループに分けられます。私も、このグループのどれかに属するのですが、まず、最初のグループ、それは、神様の憐れみのうちに、眠りにつくグループです。終わりの時代の艱難を、肉体的な弱さ、そういったことから乗り越えられないと神様が思われた聖徒たちが、艱難の前に眠りにつくのです。これが、最初のグループです。

次のグループは、反逆するグループです。ユダのように、神の民を売り渡し、真理に背を向けるグループです。信仰がなく、人を恐れるために、裏切るグループです。このグループは、準備が出来ていないのです。なぜなら、主に会う備えというのは、一日で完成するのではなく、日々にイエス様と歩む経験だからです。このことが出来ていないため、彼らは、真理から離れ、兄弟を迫害する者となります。

三番目のグループ、それは、殉教者のグループです。多くの殉教者が最後の艱難の前後に出ることでしょう。日曜休業令が出されるとき、その前後において、多くの殉教者が出ることでしょう。どのくらいの数になるのかはわかりませんが、それは本当に多くの数になることでしょう。

そして、4番目のグループ、それが14万4千人のグループです。最終世代ですね。彼らはエノクのように、生きたまま朽ちない体に変えられて天国へ行く人たちです。

皆さんは、必ずこれらのどれかのグループに属することになります。皆さんは、どのグループに属したいと思われますか? 私たちは、この質問に対して、真剣に考えてみなければいけません。

 

最初にイエス様が私たちの模範であることについて、考えて行きたいのですが、黙示録14章12節にこう書いてあります。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

 

ここにある「イエスを信じる信仰」ですが、ギリシャ語の原文を見ますと、「イエスの信仰」とも訳せるんですね。この聖句の意味を考える上で、私は、「イエスを信じる信仰」というよりも、「イエスの信仰」としたほうが、正確に意味を捉えることが出来ると思います。「イエスの信仰」というのは、イエス様がこの地上で30数年を過ごされた時に持っておられた信仰のことです。同じ性質、同じ種類の信仰ということです。同じクオリティーの信仰です。