3、絶えずキリストとつながる生活
枝がぶどうの木から切り離された時、命の補給はなくなり、その結果は死だけになります。同じように、私たちがクリスチャンとして生きるためには、命の源であるキリストに絶えずつながっていなければなりません。人がキリストのうちにとどまるのでなければ、彼はやがてしおれて死に、結局は火に焼かれてしまいます。このことは、キリストとクリスチャンの関係は、単に過去のある時、キリストにつながったことがあるという経験に基づいたものではないということを教えています。「わたしたちのいのちなるキリスト」(コロサイ3:4)から流れる命を、クリスチャンが絶えず受け続けている時だけ、人は生きているということが出来るのです。
キリストが語られたぶどうの木のたとえ(ヨハネ15:1~12)は、とてもわかりやすく、誰もがはっきりと理解できます。生きたぶどうの木であるキリストと、それにつながる真実なクリスチャンであっても、つながることを願わなくなればぶどうの木から分離されます。その瞬間から彼らの霊的な命は死ぬことになり、やがて火に投げ込まれて焼き尽くされる運命となります。以前生きていたものが、今はしおれて死ぬことになるのです。永遠の命の保証は、ただ彼らの信仰がキリストに固定され、彼らの心が「わたしたちのいのちなるキリスト」とつながれている時だけ、得ることが出来ます。ですから、私たちが過去にどれほど素晴らしい救いを体験したとしても、今現在キリストと正しい関係にないなら、滅びることもあるのです。