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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第15回

2015年04月30日 | 日記

3、絶えずキリストとつながる生活

枝がぶどうの木から切り離された時、命の補給はなくなり、その結果は死だけになります。同じように、私たちがクリスチャンとして生きるためには、命の源であるキリストに絶えずつながっていなければなりません。人がキリストのうちにとどまるのでなければ、彼はやがてしおれて死に、結局は火に焼かれてしまいます。このことは、キリストとクリスチャンの関係は、単に過去のある時、キリストにつながったことがあるという経験に基づいたものではないということを教えています。「わたしたちのいのちなるキリスト」(コロサイ3:4)から流れる命を、クリスチャンが絶えず受け続けている時だけ、人は生きているということが出来るのです。

キリストが語られたぶどうの木のたとえ(ヨハネ15:1~12)は、とてもわかりやすく、誰もがはっきりと理解できます。生きたぶどうの木であるキリストと、それにつながる真実なクリスチャンであっても、つながることを願わなくなればぶどうの木から分離されます。その瞬間から彼らの霊的な命は死ぬことになり、やがて火に投げ込まれて焼き尽くされる運命となります。以前生きていたものが、今はしおれて死ぬことになるのです。永遠の命の保証は、ただ彼らの信仰がキリストに固定され、彼らの心が「わたしたちのいのちなるキリスト」とつながれている時だけ、得ることが出来ます。ですから、私たちが過去にどれほど素晴らしい救いを体験したとしても、今現在キリストと正しい関係にないなら、滅びることもあるのです。


救いは取り消されないのか 第14回

2015年04月29日 | 日記

2、おびただしい魂が危険の中にある

今日のクリスチャンたちは “『Once Saved, Always Saved』(一度救われたらいつも救われている:イエス様を信じることによって一度救われたら、品性と信仰の霊的成長に関係なく、たとえ神様のみ言葉に対して不従順であったとしてもそれに関係なく無条件に救われるという意味で用いる表現)という「救済説」を受け入れています。救いに関して、このような魅惑的な教えがあるため、多くの者が深く考えもしないで、それを受け入れてしまっています。もしこの考えが真実であるなら、それは私たちにとっては最も驚くべきすばらしい教えになるでしょう。しかし、もしそれが真実でなければ、それは世界で最も危険な教えになるでしょう。このどちらを福音として受け入れるかによって、おびただしい魂が救われることもあり、失われることもあります。

私たちの永遠の運命は、この教理の真偽にかかわっています。私たちは、もう一度、自分に対して次のような質問をしなければなりません。「私は信仰と救いについて、聖書の真理によって生きようとしているだろうか。私が悔い改めてキリストを信じたなら、もうこれ以上選びはないのだろうか。救いとは、ある時の瞬間の決定によって、永久に完成されるものだろうか。それとも、その決定の後も、キリストの恵みの中で成長していかなければ、決定は取り消されることがあるのだろうか。そもそも、神様は罪や汚れを、ご自分の王国に持ち込むことをお許しになるのだろうか?」 

幸いなことに、このような質問に答える明確な聖句が、聖書にはたくさんあります。私たちはその聖句を注意深く調べ、同時に「一度救われたら永遠に救われる」という教理を裏付けていると思われる聖句のいくつかを検証してみましょう。


救いは取り消されないのか 第13回

2015年04月27日 | 日記

ところで、私たちに与えられたこの選択権に関して、人々は様々な異なる見解を持っています。多くの人は、次のような考えを教えられています。「あなたの不幸な運命を変える重要な選択があります。一度あなたがキリストの救いを受け入れる選択をするなら、あなたは決して再び滅びることはないのです。あなた自身のどんな行為も、その決定を変えることは出来ません。あなたがキリストを個人的な救い主として受け入れるなら、それはあなたの運命に対する最終的な選択です。後にあなたがその決定を変えたとしても、天の命の書から消されることはありません。あなたが今後どんなに大きな反逆をしても、故意に神性を冒瀆(ぼうとく)して罪の生涯を送ったとしても、神様の愛は変わらないのだから、この決定は変わらないのです。あなたが一度キリストの救いを受け入れたなら、それは永遠にあなたの救いを保証するのです」。

  

基本的に、このような考えが、「一度救われたら永遠に救われる」という教理を信じている人たちの主張です。それに対して、別のグループの人たちは、「神様はいつでも私たちが、救いか滅びかを自分で選択できるようにされた」と信じています。彼らは、救いとは、キリストとの継続的な個人的関係に基づくもので、故意に不従順の道を選んだり、神様との愛の関係が壊れるなら、その人は真のクリスチャンではなくなり、救いのどんな保証も受けることは出来ないと信じています。


救いは取り消されないのか 第12回

2015年04月26日 | 日記

第2部:一度救われたら決して滅びることはないのか?

 

1、序論

 

選択する能力は、神様から与えられた驚くべき賜物です。ところが、人が自分で選択できないことが一つだけあります。それはどんな人であれ、堕落した利己的な本性を持って生まれるということです。人は例外なく誰でも、この生まれつきの利己的な本性を持っているのです。つまり、私たちの生涯で最も大きい影響を及ぼす、人の性質に関しては、すでに古い時代の私たちの先祖の失敗によってもたらされたのです。私たちが生まれながらに持っている利己的な性質については、どんな選択の余地もありません。その結果、私たちはすぐにこの性質に負け、あたかも水を飲むように罪を犯し、皆永遠の滅びに至る死を自ら選んでいくことになるのです。もしキリストのみ力を通して、この利己的な本性が変化されないのであれば、人はいつまでも、生まれては滅びてしまう人生を繰り返していたことでしょう。

 

このような堕落した性質を持って生まれてきた私たちですが、神様は私たちに、この性質に負けることのない強力な力を選択することが出来るようにして下さいました。これは誰にも奪われることの出来ない堂々たる権利であり特権です。この選択こそ、私たちが生きている間にするべき、最も重要な決定です。この選択によって私たちは、罪の本性に従って永遠に滅びるか、キリストを信じる信仰によって、新しい品性に創り変えられ永遠に生きるかを決定します。

 

 ところで、私たちに与えられたこの選択権に関して、人々は様々な異なる見解を持っています。多くの人は、次のような考えを教えられています。「あなたの不幸な運命を変える重要な選択があります。一度あなたがキリストの救いを受け入れる選択をするなら、あなたは決して再び滅びることはないのです。あなた自身のどんな行為も、その決定を変えることは出来ません。あなたがキリストを個人的な救い主として受け入れるなら、それはあなたの運命に対する最終的な選択です。後にあなたがその決定を変えたとしても、天の命の書から消されることはありません。あなたが今後どんなに大きな反逆をしても、故意に神性を冒瀆(ぼうとく)して罪の生涯を送ったとしても、神様の愛は変わらないのだから、この決定は変わらないのです。あなたが一度キリストの救いを受け入れたなら、それは永遠にあなたの救いを保証するのです」。

 


救いは取り消されないのか 第11回

2015年04月25日 | 日記

4、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:14)。

イエス・キリストを着る、つまりキリストと一体になり、キリストの思いによって生きるようになってくると、神様のみ力に対する確信がとても強くなり、罪の勢力に陥ることは二度と考えられなくなります。それ以前の「努力」による方法の時は、大部分失敗するほかありませんでした。

これまで失敗してきた原因について、一つの例話を紹介します。小学生の智君は、お母さんの言いつけにそむいて、子供だけでプールに行って叱られました。「どうしてお母さんの言うことを聞かなかったの」と尋ねられた時、彼は「だって、友だちがさそったのだもの」と答えました。するとお母さんが言いました。「お母さんは、あなたが朝家を出る時、水着を持って行くのを見ましたよ。どうして水着を用意して行ったの?」。智君は「だって、友だちがさそうと思っていたから・・・」と答えました。

勝利を勝ち取ろうとしても、ある人は戦いが始まる前から、負けることを想定して妥協を始めています。むしろ彼らは失敗したらどうするか、あらかじめ言い訳を考えています。

 

ところで、これまで勝利のためのいろいろな方法を試してみたけれども、失敗したという人がいるかもしれません。そして、何度も失敗を繰り返していると、神様の約束が本当なのか、疑うようになる人もいるかもしれません。そうであってはなりません。私たちは、ただ自分の弱さをさらに痛感しなければならないのであって、もっと強くキリストに信頼していかなければならないのです。神様の命令は約束として、必ず実現すると信頼して、もっと強く神様の力に完全に頼らなければなりません。私たちが失敗したからといって、聖書の「尊く、大いなる約束」(2ペテロ1:4)を通して勝利と能力を分け与えて下さる神様の善き計画を変更させることはできません。

しかし、受けとる側に信仰がないならば、神様のお約束であっても成し遂げられることはありません。問題は私たちにあることが、イエス様のみ言葉に明確に記されています。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」(マタイ9:29)。

 

イエス様にある兄弟姉妹の皆さん!勝利は単純さにあります。そしてそれは実際に作用します。皆さんが心から救われたいと願うなら、それは成就するのです。しかし、罪を喜んで捨てようとしない者はどんな助けも受けることができないでしょう。皆さんが罪を捨てることを願うなら、救いはすでに神様の約束の中に準備されています。