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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか 第41回

2014年11月30日 | 日記

    

救いは取り消されることがあるのか 第41回

英語の聖書には、より明白にこの三つの時制が表されています。

① ローマ人への手紙8章24節「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか」(過去: We were saved;私たちは救われた)

② 第一コリント1章18節「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(現在:We are being saved;私たちは救われつつある)

③ 使徒行伝15章11節「確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」」(未来: We shall be saved;私たちは救われるであろう)

このように、私たちは聖書から救いについて説明している三つの時制すなわち、過去、現在、未来のすべてを見ることができました。

   これが真の福音です 第13回

一つ質問したいと思います。イエス様がこの世で暮らされた時、どのようにして奇跡を起こされたのでしょうか?イエス様は神様だから?イエス様は、どのように水の上を歩かれたのでしょうか?その方は神様だから?死んだラザロを生き返らせたことはどうでしょうか?その方は神様だから?

ほかの質問です。イエス様は、どのようにして罪に勝利されたのでしょうか?その方は神様だから?イエス様は一度も罪を犯されなかった。それはどうしてでしょうか?その方は神様だから。イエス様は神様だから。だって、神様は罪を犯すことができないでしょう。そうでなかったら神様ではないですから。でも、私は人間だから罪を犯すしかないんですよ。

皆さん、イエス様の人性をどのように考えるか、これがなぜ重要なのか、分かってきましたか?この問題をどうとらえるか、私たちがイエス・キリストをどう見ているかで、私たちの信仰が変わってしまうのです。ほとんどすべてのクリスチャンは、存在もしない、とんでもないイエス・キリストを信じています。多くの人は、イエス様がこの地上に来られた時、人間とは違う存在として来られたのだと思っています。それは、実際には存在していないキリスト、ただ神学的に作りあげられた、学者の言うキリストです。それはどういうものかというと、「神様は罪を犯すことができない。だから、イエス様は罪を犯すことができなかった。イエス様は、私たちとは全く違う存在だから、罪を犯すことができなかった。イエス様は、罪を犯す前のアダムの性質で来られたのだから、罪に勝つことができたのだ」。イエス様をこのように考える時、イエス様は、私たちと遠くかけ離れた存在になり、私たちの信仰の模範でも、兄弟でもなくなります。


救いは取り消されることがあるのか 第40回

2014年11月29日 | 日記

    

救いは取り消されることがあるのか 第40回

  9、過去、現在、未来の救い 

ある人が陸地から遠く離れた海の上で、小舟に乗って釣りをしていました。ところが、突然舟がひっくり返って、水の中に沈んでしまいました。その人は泳ぎが出来ませんでした。ちょうどその時、他の舟が近づいて来ました。しかしその舟はたくさんの荷物を載せていたため、それ以上人を乗せることは不可能でした。しかし溺れているこの人を助けてあげたいと、縄を投げました。「ここにある縄をつかんでください!私たちがあなたを陸地まで引いてあげます」と言いました。その人は縄をつかんですぐに「神様、本当に感謝します!私は助かりました!」と言いました。彼が縄をつかんでいる限り、彼は救助を受けた状態にあるのです。

救いはまさしくそのようなものだと言えます。神様の救いの中では、その人がやるべき役割があります。もし彼が、つかんでいた縄を離して、再びつかむことを拒むなら、これ以上彼を救助できなくなります。そのように、罪から救われた者も同じです。彼がキリストの手をつかんでいる限り、彼は救われた状態にあります。しかし、彼がつかんだ手を離そうと決心して、代わりに悪魔の手を掴むなら、彼は滅びるでしょう。人の救いは、その人自身の選択にかかっていす。

実際には私たちは、救いを、過去、現在、未来の、三つの時制に分けて考えることが出来ます。彼が縄をつかんだ時「私は救われた」ということができます。その舟によって引かれている時、「私は救われている」と言えます。彼が陸地に足を置く時「私は救われた者になった」と言えます。悔い改めた人は赦され、罪の刑罰から救われました。神学的に私たちはそれを「義認」と言います。同じく彼が現在、罪の勢力から救われているならばこれを「聖化」と言います。そしてイエス様が来られる時、彼は罪の本性と弱い肉体から救われることになるでしょう。それを「栄化」と言います。この三つの時制は皆、聖書が救いに関して説明する場合に用いられています。

     これが真の福音です 第12回

プロテスタントの誤り

ところが、このキリストの人性については、カトリックだけではなく、ほとんどのプロテスタント教会も、間違ったことを信じています。もちろん、マリヤが罪のないまま生まれたとは信じていないのですが、イエス・キリストが無原罪のマリヤの本性を取ったという点で、同じことを受け入れています。しかし、それは間違っています。

もっと説明したいと思います。「罪の肉の様」、これはどういう意味でしょうか。神様がアダムを造られた時には、どのような者として創造されましたか。完全な人間として創られました。アダムは、エデンの園の中では最初とても忠実でした。全く罪に汚染されていませんでした。しかし、アダムは罪を犯しました。そして、アダムが罪を犯した後、アダムが堕落したその後の本性を、イエス様はとられたのです。

ところが、今教会では、イエス・キリストは、アダムが堕落する以前の本性を持って生まれたと言います。多くのプロテスタント教会の教えは同じです。私たちの教会もそうですよね。それがどんな意味か、皆さん、分かりますか?イエス様がどんな肉体を持って生まれられたか?それが私たちと何の関係があるのでしょうか?


救いは取り消されることがあるのか 第39回

2014年11月28日 | 日記

    

救いは取り消されることがあるのか 第39回

今や私たちは、救いが過去や現在の一度だけの公約によって、永遠に取り消されることはなくなるという教えが誤りであると言う結論を下す時が来ました。救いを受けるということは、神様が着せて下さる義と分け与えて下さる義を、絶えず受け続けていくクリスチャンの生涯の経験です。それは、永遠の命の源泉であるキリストとの、継続的で生き生きとした関係によってしか、現実のものとなっていきません。

救いの問題を、聖書的に完全に理解するためには、救いを過去、現在、未来の、三つの時制の中で注意して調べて見なければなりません。救いは過去に起きて、現在に起きていて、未来にも継続するべきものです。

      これが真の福音です 第11回   

さて、イエス・キリストはどのような肉体で来られたのでしょうか。これは、皆さん、とても大事な問題です。実は、カトリックの公式的な教理の中に、こういうことが載っています。「無原罪」の教えです。これはどんな意味でしょうか。これは、イエス・キリストが、罪のないまま生まれたという意味ではありません。イエスの母マリヤが、罪のないままで生まれた、という意味です。母マリヤ自体が、罪のないまま生まれたという教えです。そのため、マリヤは、私たち人間とは違う存在だと言います。カトリックの教理を見ると、マリヤは私たちとは違う、他の本性を持っていると教えられています。

キリストがこの世に生まれた時、キリストは人間の本性を持って生まれたのではなく、マリヤの本性をもって生まれたというのです。しかしそれは、イエス・キリストが、肉体をとって来られたことを否認することにほかなりません!

この、マリヤが罪のないまま生まれた、という教えは、「無原罪懐胎」とか「聖母マリヤの無原罪の御宿り」の教義として、1854年、時の法王ピウス9世によって宣言されました。“幸いな聖母マリヤは、その母胎に宿る瞬間、神の恵みの特別な計らいによって、原罪のけがれと咎を存在の初めから、いっさい受けていなかった”(カトリック教会の教理p.124)というものです。

そしてさらに、カトリックの教理では、イエス様は乙女マリヤより生まれ、ご自身がマリヤと同じ本質の人性をとられたと言います。イエス・キリストは、私たちと同じ肉体をとって生まれたのではなく、マリヤの本性を持っていたというのです。

また、このような教えもあります。“マリヤの多方面の執り成しを通して、彼女は今日われらに永遠の救いの賜物を与えられ、我らの魂を死から救って下さる、われらの代弁者、助け者、恵みを施す者、仲保となる”(キリスト教問答p252)

イエス・キリストが、私たち人間の本性ではなくて、罪のないマリヤの本性をとられたという教えは、私たちとイエス様を完全に引き離すことです。そして、カトリックでは、イエス・キリストに直接結びつくことを教えません。マリヤを通して、法王を通して、神父を通して、人は神様の前に、誰か仲介者を通して進んでいくといいます。

また、マリヤは罪のない女性だから、人を救う権利を持っていると教えます。

『ローマ人への手紙』8章3節を見ると、

「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様(さま)で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである」(ローマ8:3)と言われています。イエス様が何の様(さま)だと言われていますか?「罪の肉の様」だと言われています。英語の聖書では“sinful nature”、 これは何ですか?罪に浸された肉体の意味です。聖書にはっきりこう書いてあります。イエス様は「罪の肉の様」で来られたと。カトリックでは、マリヤが罪に対して汚染されていなかったので、マリヤの本性を受け継いだイエス様も同じだった、それで、他の兄弟たちとは全く違っていたと話します。しかし聖書のみ言葉を読めば、「罪の肉の様で罪のためにつかわ」されたのです。


救いは取り消されることがあるのか 第38回

2014年11月27日 | 日記

 

救いは取り消されることがあるのか 第38回

もし背教が不可能であるならば、背教の危険について警告している聖書の数々のみ言葉は、全く無用のものとなってしまいます。もし人の滅亡が不可能なのであれば、なぜ聖霊や、パウロやペテロあるいはその他の使徒たちは、永遠の滅びについてあれほど熱心に警告と勧告を与えたのでしょうか?かりに、一度受けた救いが永遠に保証されるものであるなら、悪魔はクリスチャンたちを誘惑して信仰を捨てるように努力することなど何の意味もないことですから、そのようなことに時間を費やしたりは決してしないでしょう。しかし私たちは、サタンが聖徒たちに、キリストに従わないようにさらに熱心に働いている事実を、体験として十分に知っているはずです。

  これが真の福音です 第10回

     反キリストの教え

ちょっと難しいでしょうか。でも皆さんが、最後まで聞いて下さるならば、ほんとうに宝を見つけられると思います。これは神学的、教理的なものではありません。聖書は単純なものです。しかし神学者たちが、とても難しく伝えたので、私たちがこれに接する時、難しく感じるかもしれません。でも、聖書をありのまま読んでいただくと、とても理解しやすく簡単です。

これが反キリストと何の関係があるのでしょうか。あの『ダニエル書』7章を見たら、「いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法を変えようと望む」という勢力が出てきます。これはローマ・カトリックです。『黙示録』13章には、猛獣、獣が出てきます。それはローマ・カトリックです。『テサロニケ人への第二の手紙』を見れば、そこに不法の者(2:3)が出てきます。それもローマ・カトリックです。私は、他の宗教を批判しているのではありません。この反キリストが法王権であることを主張したのは、宗教改革者たちです。そしてこれは、私が言うからではなく、聖書が、そして歴史が証明しています。


救いは取り消されることがあるのか 第37回

2014年11月26日 | 日記

 

救いは取り消されることがあるのか 第37回

サタンとその手下たちによって、救いからふるい落とされないで、そのお方の内に留まる方法は、そのお方のみ言葉に聞き従う事です。神様は、檻の中にいる羊を盗もうと、機会を狙っている敵から守って下さるのであって、羊の檻の主人であられるキリストに、これ以上従わないと決心して檻の外に出てしまった不従順な羊たちを保護すると言っておられるのではありません。檻の中にいる羊を、誰も父なる神様のみ手から奪い去ることはできませんが、彼らは、いつでも自ら天のお父様の保護の外へ飛び出して行くことが可能です。

神様は、決してご自分に従う人たちから、選択の自由を奪われることはありません。罪人にはいつでも、神様が賜物として与えてくださる救いを受け入れることも、拒むことも、自由に選択できます。

   

 これが真の福音です 第9回

もちろん、イエス様は聖霊によって生まれられたので、罪はありませんでした。しかし、罪を犯して倒れてしまう、人間と同じ弱さを持っておられました。イエス様は、アダムのように、神様が特別に創られたのではなく、10か月間、マリヤのお腹の中に宿っておられました。小さな小さな細胞となって来られたのです。人類の歴史の中で、宇宙の歴史の中で、33年半ばかり、天にはイエス様はおられませんでした。その中の10か月間も、イエス様は一つの子宮の中に存在されました。いわば、神様は存在しておられなかったのです。ただの細胞です。小さな細胞になって、マリヤの体の中で成長されました。

皆さんこれは非常に重要な問題です。イエス様は、マリヤが食べる栄養をもらいながら、病にさらされる人間の体の中で、肉体として育って来られました。またマリヤのお腹の中で、完全にマリヤに依存しておられました。そして、オギャーと生まれました。全く私たちと同じ誕生です。弱い、無力な赤ん坊として誕生されました。

イエス様は、罪だけはない方でした。その生涯の初めから終わりまで、罪はただ一度も犯されませんでした。しかし、イエス様は、完全に人間と同じ姿をとられました。(『へブル人への手紙』2章17、18節)

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(へブル2:17、18)

イエス様は、私たちと、“あらゆる点で同じようになられ”、同じ肉体で、同じように試練を受けたと言われています。ですから、私たちが試練や誘惑にあう時、イエス様は私たちに、誘惑に打ち勝つ力を教えて下さることができるのです。