SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人は何のために生きるのか?ソン・ケムン 最終回 

2017年08月29日 | 日記

アブラハムがテストを受けたように、現代でもクリスチャンはテストを受けなければなりません。彼らは克己と苦難と犠牲のように見える道に入るため、富と名誉と安定を保障する職業を捨て、便利な生活を去り、親族とも別れるかもしれません。皆さんはどうしますか? 神様はキリストのために、自分の損害を利益と考える人を探しておられます。このような歩みをする人は、アブラハムの信仰を持った人です。そのような人は「 今のこの時の苦しみは … 栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)「永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである 」(2コリント4:17)と心から言うことができます。

神様の真の民の特徴は「神様の戒めを守る」人たちです。人の伝統や権威に従いますか? それとも、神様が自ら制定された日を聖としますか。

□マタイによる福音書7:13、14にはこうあります。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」

誰の権威に屈服しますか? 神様の権威に屈服しますか? それとも人間と、教会の権威に屈服しますか? 皆さんは誰に服従しますか? 誰に服従するかという大きな闘争がもうすぐ起きます。

十字架は、人類に与えられた最高の贈り物です。十字架の恵みによって救われた人は神様を愛するようになり、その方の望む通りに生きたいという願いが溢れるのです。もし神様の御心通りに生きることが重荷でつらいと感じているなら、皆さんは、クリスチャンではないということを覚えてください。神様が何を要求されても喜んで服従する人、神様を最優先にして、命も惜しまない人を神様は探しておられます。

 皆さん、私たちはこの最後の時代に出エジプトの叫びを聞いています。この出エジプトの隊列に、共に歩まれることを切に望みます。


人は何のために生きるのか?ソン・ケムン 第20回 

2017年08月28日 | 日記

□黙示録14:12

「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」

今静かにこの聖書の言葉を黙想してみましょう。

私たちには忍耐が必要です。非難を浴びて誤解され、うるさい人たちだと文句を言われても、神様の是認を最善と考え、心を定めたクリスチャン! 神様を正しく礼拝しないように、あらゆる侮辱や非難、あざけりを受けても、イエス様に認めていただけるなら、この世が与えることのできない平安を得られることを知っているクリスチャン! 神様を愛して神様の御心の通りに生きることを切望するクリスチャン!

安息日は誰が本当の神様かを表すしるしであるため、サタンは天地創造以来、たえず安息日を憎んできました。サタンはクリスチャンを滅亡させるために、非常に巧妙かつ老練な戦略を立てました。どうすれば人々の信仰を破壊して、人々の崇敬を自分に向けることができるか? それには、神様の創造力と神様の支配の権威を象徴する第四の戒め、安息日を破壊することが最も効果的な攻撃だったのです。

安息日の目的は、神様を創造主として記憶することですから、もしその日がずっと遵守されていたなら、地球上には一人の異教徒も偶像崇拝者たちもいなかったはずです。今日、この社会を操り、安息日の遵守を難しくさせた張本人はサタンです。しかし、神様は私たちに不可能なことを要求されない方です。どんな状況も、神様の戒めを犯すことの正当な理由にはなりません。神様の御子が、ただ一つの戒めを犯すよりはむしろ死を選ぶことを決心されたのは愛の力でした。安息日に関する問題は、日に関する問題ではなく、愛の問題です。

カルデヤのウルは、最古の文明と施設と便利さを備えた完璧な都市でした。ところでアブラハムはそこを去りました 。目的地も知ら分からず「行く先を知らないで」無条件に出ました。アブラハムに与えられたテストは軽いものではありませんでした。彼に要求された犠牲も小さなものではありませんでした。しかし、彼は命令に従うことをためらいませんでした。彼は約束の地に関して聞きませんでした。そこは土地が肥沃ですか? 気候は健康に適していますか? そこはより良い環境と食べていけるだけの広さがありますか?  聞きませんでした。 神様が言われたのでただ従いました。アブラハムにとって、この世で最も幸せなところは、神様がいなさいと言われた場所にいることでした。そこがどんな所でも、神様が導いてくださった場所が一番幸せなところです。


人は何のために生きるのか?ソン・ケムン 第19回 

2017年08月27日 | 日記

[訴え] 

□ジョン・ウェスレーは 「旧約の犠牲の祭祀と聖殿の礼拝に関連した儀式を含む律法を主は廃止に来られた。 しかし、道徳法である十戒は廃止されなかった。 …福音の敵が‘私たちの主は戒めを廃した。 私たちはただ信じることだけすれば済むのだ、と人々に教える。 父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです!」と祈りました。

□黙示録14:6、7を見ると

「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわちあらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」

創世記から展開してきた神様の大いなる救いの歴史は、黙示録でこのように締めくくられながら、人類に最後の訴えをします。「裁きの時が近い!あなたを造られた方を礼拝しなさい! お金を礼拝しないで、食べるための奴隷暮らしをやめて、人々の評判や評価を恐れないで、それらは結局滅び、消えるものだから、創造主なる神様を礼拝しなさい!」。

□伝道の書12:13

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。

人の本分は何だとありますか? 神様の命令を守ることです。つまり、神様の戒めを守らなければ、人ではありません。動物と変わらないのです。安息日は、皆さんが人として存在する唯一の根拠です。安息日は、旧約時代も、新約時代も、十字架の後も、イエス様の復活・昇天後にも守られただけでなく、新しい天と新しい地でも、永遠に守られるものです。永遠の福音です!


人は何のために生きるのか?ソン・ケムン 第18回

2017年08月26日 | 日記

□しかし、すべての人たちがテストされる時が迫ってきています。 黙示録12:17を見ます。

「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」。

 サタンは神の戒めを守る人に怒りを発します。そして獣の刻印を受けるように強要します。一歩ずつ世の中の要求を受け入れ、この世の習慣に妥協してきた人たちは、嘲笑と侮辱を受け異端と言われて軽蔑され、投獄や死刑を受けるより、むしろ権力に屈服することを選ぶようになります。最後の試練を乗り越える信仰が足りないことが、その時になって分かるのです。

 特にサタンは最後の時代に、食べて生きるために安息日を犯さざるを得ないような状況を作り出します。その時人は、神様になぜ仕えてきたのか、各個人の信仰の動機が全宇宙の前に明らかにされます。大多数が獣の刻印を受けるようになります。 なぜでしょうか? イエス様に命を捧げるほどの信仰は、救われようとして頑張ってできるものではないからです。今まではある程度できたかもしれませんが、安息日守ることがこの世の中で最も憎むべきこととされた時、本当にイエス様を愛する心がなければ、イエス様のために命を捧げる献身と、愛の心がなければできないからです。十字架の前で完全に屈服し、神様を喜ばせたい心で従うこと、それが戒めを守る人です。そのため最後の時には、安息日が神様の印となり、忠誠の印になるのです。

 [結論]

あなたは神様を愛しますか? でしたら戒めを守りましょう。魂の休みや癒しが必要ですか。戒めを守ってください。多くの人が「安息日を必ず守らなければなりませんか。私は魂の安息を持っています」、そう言います。「私は自由になりました。 私は律法に縛られません」。「安息日を守ると、社会生活ができません。必ず守らなければなりませんか」。そう言います。

まず従ってみてください。人間的などのような理屈をあげるよりも、ただ単純に従ってください。それがアブラハムの信仰ではありませんか。神様が“行け”と言われたら行くのです。全部理解できるまで待ったら、一生理解できません。ヨルダン川に足を踏み入れたら二つに分かれました。従ったらその時に道が開かれます。それが約束です。 ひとり子のイサクを殺せと言われた時、アブラハムは問いませんでした。そのまま従いました。アブラハムが従わなかったら、一生、彼の心の中に疑問として残ったはずです。「なぜ神様はあんな不合理なことを言われたのか」「神様も異邦の神のように子供を生贄に捧げることを望まれているのだろうか?」。彼の心に永遠に解決できない疑問として残ったはずです。人間がどうして神様を理解できるでしょうか。

しかし、従えば分かるようになります。多くの人たちが、従いさえすれば、気になっていた多くの問題が解決されるのに、先に問題が解決されれば従うと思っています。

神様と共に歩むことがどういうことか知りたくても、経験できず、もどかしい気持ちを持っている人はいませんか? 受けた光に完全に従ってください。神様の戒めを守りなさい! それは心を開いていただくことです。聖書を見る目が変わることになります。もどかしさが消えるのです。それが変わらない神様の誠実な約束です。


人は何のために生きるのか?ソン・ケムン 第17回  

2017年08月25日 | 日記

日曜日を安息日として守るようにした最初の法令は、疑う余地もなくAD 321年ローマ皇帝コンスタンティヌスの勅令です。しかし、キリスト昇天後300年が経った後も、キリスト教著述家の誰も、日曜日遵守の起源がキリストや使徒たちによるものだと言ったことはありません。

カトリック教会の洗礼を受けるために学ぶ『教理問答集』にある十戒と、聖書に記録されている十戒の内容が異なることを知っていますか? カトリック教会の教理問答集では、偶像礼拝を禁じる第二戒が抜けています。当然です。それは彼らが多くの偶像を教会の中に置いたからです。彼らはそれにひれ伏し口付けをします。そして二番目の戒めをなくしたので、十番目の戒めを二つに分けて足りなくなった分を補いました。しかも、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という第四の戒めを「主の日を守れ」と変更しました。この勢力が中世紀の1260年間、世界を支配して、神様の真の民を迫害すると、聖書にはすでに預言されていました。

 

しかし、問題は、ここで止まらないことです。ダニエルが言った"小さな角"(ダニエル7、8章)、パウロが言った"不法の秘密"(2テサロニケ 2:7)、使徒ヨハネが明らかにしている"反キリストと獣"の正体は教皇権であり、彼らは間もなく"獣の刻印"を世界に強要して、中世紀の栄光を取り戻そうとしているのです。

 

□黙示録13:15-17

「それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」。

 

獣の刻印が何であるかは、聖書の預言第21回の講義をご参照ください。マイクロチップではありません。また、EUが統合し、それを支配する大統領が反キリストと言う人もいますが、それも違います! だまされないでください。