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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約(デビット・カン講演)

2012年05月31日 | 日記



  ひまわりさんより(5月31日)
5月6日に播いたほうれん草を、今朝収穫して、ジュースにしました。
取りたてのほうれん草ジュースは、甘くてとてもおいしかったです。
いつも朝は、野菜と果物をミックスしてジュースにするのですが、コップに入れるとすぐに、
果物の層と野菜の層に分離するのに、今日のほうれん草は、新鮮だったためか、
全然分離しなくて驚きました。何か意味があるのかもしれません。

    新しい契約の経験(デビット・カン講演26)

そして次に何をしますか。動物の、足とか、手とか、体の部分を切り刻みます。
そのあとで祭壇の上に置いて燃やしました。これが燔祭なんです。これが悔い改めの経験なんです。
聖書によると燔祭を燃やした時に、煙が立ち昇ります。その煙が神様への香ばしい香りなると書かれています。
脂肪分を燃やしたその煙が、どうして神様には香ばしい香りとなるのでしょう。
町に行ったとしますと、マクドナルドとか、ケンタッキーとか、そういったファーストフード店があります。
その前を通ったとします。そのとき、どんないい香りが漂ってきますか。「ああ、いいにおいだなー」。
そのように感じるならば、皆さんの食欲の何かがゆがんでいると思いますね。
なぜ燔祭でささげられた動物の脂肪が、焼けて燃やされて、煙が上がったとき、
それが神様とって香ばしい香りとなるのでしょう。なぜならそれは、神様のみ前で、
私達が罪を捨てたことを表しているからです。動物の脂肪は罪を表しています。
私たちが真の、新しい契約の経験をするならば、私たちは神様と一つになります。
なぜなら罪の問題がことごとく、なくなってしまったからです。





二つの契約(デビット・カン講演25)

2012年05月30日 | 日記



    ひまわりさんより(5月30)

今日の日課には、「魂と体が天の原則に調和しているからである」とあり、
この言葉に私はとても感動しました。体の原則は、適度の運動と、
胃に負担を与えないようにして、人間が手を加えないで、できるだけ自然な未精白のものと、
野菜、果物を適度にとっていくことが大切なのだと思います。今は何でも手に入る時代ですから、
この原則は、十分にできることなのです。
要は、創世記のアダムとエバの食生活に、限りなく近づけることだと思います。
そのことを、今、少しずつ体験させられています。

   すべてをキリストにささげる(デビット・カン講演25)

次のステップは何ですか。屠った動物の腹を切ります。
腹を開いて、すべての器官、内臓を切り取って水で洗います。
これは何を象徴しているのでしょうか。
私たちの命のすべてを、キリストにささげるということを表しているのです。
「私はかつて自分の肺の中にタバコの毒を取り入れていました、お許しください。
神の真理を表している水で、それを洗いたいと思います」。心臓も切り取って、
「私は自分の心臓を自分の栄光のために使ってきました。私は自分の心をあなたにささげたいと思います」。
そのようにして、内蔵の一つ一つを切り取って水で洗います。
この燔祭の経験をすることによって、リバイバルと改革の両方を表したわけです。
そのあとに、神様に向かって言うわけですね。
「神様、私のうちにまだ罪が残っているなら、私の心を探って、どうぞ清めてください」





二つの契約(デビット・カン講演)

2012年05月29日 | 日記



   ひまわりさんより(5月29日)

私の訪問先のお年寄りで、自宅の玄関でよろけて転倒し、
それが原因でパーキンソンの症状が進行し、寝たきりになってしまわれた方がおられます。
今日その人を訪問したら、酸素濃度が低くなり呼吸困難を起こした状態でした。
そこで、救急車を呼び大学病院まで緊急搬送となりました。
この方は、その前の訪問では、すごく体調が良くなり、800メートルも歩けたと言って喜んでいました。
私たちは、どんなに元気そうにしていても、明日どんなことになるか全くわからないのですから、
今日、イエス様を精一杯証していかなければならないと思いました。

 燔祭の意味(デビット・カン講演24)

一つのことを理解すべきです。イスラエル全体の罪のために動物が屠られるときには、
その動物の血を聖所の第1の部屋に持っていって、垂れ幕ではなくて、垂れ幕の下の方に7回注ぎます。
ところが、個人個人の罪のために連れてきた動物の血は、聖所には運ばれないのです。
イスラエル全体の罪祭として屠られた動物の血だけが、聖所の中に持って行かれるのです。
罪人が動物を屠ったあと、何をしますか。
動物を燔祭として捧げます。燔祭とは、私たち
の悔い改め、回心の経験を表しているものです。
動物を殺したあと、その皮をはぎ取るのです。これは何を意味していますか。自分の義は汚れた衣、
ボロ布のようなものであるから、それを脱いで、イエス・キリストの衣を着たいということを表しているのです。




二つの契約(デビット・カン講演23)

2012年05月28日 | 日記


    ひまわりさんより(5月28日)

今日は職場の朝礼の担当でしたので、4月13日に少し紹介した104歳のおばあちゃんの、
長生きの秘訣について話しました。そのおばあちゃんに、ある時、長生きの秘訣を聞いてみました。
そうすると、おばあちゃんは、自分の畑で作った野菜しか食べない、朝しっかり食べて、
夕食は軽めにする、間食はしない、体をよく動かす、という、
まさに教会で教えられている健康原則と同じことをやっておられたのです。
私も、この方法を実行していったら、これまでに書いているように、本当に体調が良くなってきたのです。
それでおばあちゃんに、自分がおばあちゃんの方法を実行したら、すごく健康になってきたことを話したら、
おばあちゃんがすごく喜んで、私の健康のお師匠さんになってくれました。
医療や介護の世界では、どうしても、介護する側、される側というのがはっきりしています。
しかし、長年生きてきて、たくさんの知恵を持ったお年寄りから、私たちがその知恵を学ぶということで、
お年寄りがすごく元気になって来られるのです。
お年寄りが、してもらうだけの存在から、やってあげる立場になったら、がぜんやる気も出てきます。
それがお年寄りにとっての、生きがいにつながるのだと思いました。

   身代わりの犠牲(デビット・カン講演23)

罪人はこのいけにえの前にひざまずいて、頭の上に手を置いて、みずからの罪の告白をします。そして自分のすべての罪が、告白を通してその動物に移されたことを信じます。そのいけにえというのは、イエス・キリストを象徴しているわけですね。そして、そのいけにえの動物は殺されなければなりません。誰が動物を殺すのですか? 祭司ですか。罪人ですか。罪人が、自分で刃物持って、耳のあたりからもう一つの耳のあたりまで、首をバッサリ切ります。その動物は、罪人の目の前でブルブル震えながら死んでゆくわけです。目を開いたまま・・・。
祭司はその時、したたり落ちる血を器に入れます。この血を祭司はどうしますか。聖所に持っていって注ぐんですか? 燔祭の祭壇の四隅に四つの角があって、その角に血をつけまして、残りは祭壇の下の部分に注ぎます。




二つの契約(デビット・カン講演22)

2012年05月27日 | 日記



  ひまわりさんより(5月27日)

私はお花が大好きで、特に、ユリやバラは好きな花です。
プレゼントにしたり、自分で育てたりして、楽しんでいました。
でも、花の命は短いし、本当に花をよく育てようとすると、時間も費用もかかるので、
やはり、神様の愛を伝えることに専念したいと思って、今日、植木鉢や道具類を最低限にして、
他のものはほとんど処分してしまいました。
ところが、主人が、通勤途中の道路から少し奥に入ったところに、
個人のバラ園があるから行ってみようかと言われ、出かけてみました。
すると、本当によく手入れされたすばらしいバラ園がありました。
自宅の庭をオープンガーデンにして、道路には案内の掲示板が出ているそうですが、
毎日通っているのに全く気がつきませんでした。地植えのものが120本、
鉢植えが20本ということでしたが、全部に花の名前のプレートがつけられていて、
それはそれは色とりどりの、美しいばらがちょうど見ごろを迎えていました。
あたり一面、バラの香りが漂い、幸せな気持ちになることができました。
昼休みや、通勤の途中でちょっと立ち寄ることもできますので、
自分で育てるよりはるかにいいと思いました。5月9日に紹介した、通勤途中のユリにしても、
今日のバラにしても、自分で育てることをやめようと思ったとたんに、
もっと素晴らしいものを、神様は紹介して下さったように思い、神様の愛の深さに感謝しました。
(写真はサイトからとったものです)

   信心の奥義(デビット・カン講演22)

私たちのこの堕落した性質を着て、イエス様は地上においでになりました。
そしてなおも、罪に打ち勝たれたのですね。
これこそ、聖書で「信心の奥義」と言われているものなのです。
これが福音の力であります。
そのような経験をして初めて私たちは新しい契約のもとで生きるようになります。
旧約聖書レビ記の1章において、燔祭をどのようにささげればよいか、
そのプロセスが示されています。この燔祭というのは、私たちの悔い改めの経験をさしています。
どうして新しい神学がセブンスデー・アドベンチスト教会に見事に入ってきたと思いますか。
なぜなら、私たちが聖所のメッセージの理解を失ってしまったからなのです。
この燔祭をささげる過程を覚えているならば、――ぜひ聞いていただきたいのですが、
罪人が犠牲となる動物を連れてきます。それから何をしますか。その動物を祭司に渡すわけですね。
祭司の仕事とは何でしょう。祭司は、動物を連れてきた罪人に、罪の告白をして、
罪を象徴的にその動物に移したあと、どのようにしてこの動物を殺すかその手伝いをしてあげます。
現在の牧師である多くの人々が、この働きをしていません。
もし皆さんの教会の牧師が、このことを教えていないならば、
いつまでもその教会に出席して間違った教えを聞き続けないでください。
真理によって皆さんが養われる、そのような適切なメッセージを探すのは、皆さんの義務であります。
私が言っていることは強すぎますか?きつすぎますか? そうは思いません。
皆さん、自分の魂をそのような異端的な教えにさらして、魂を危険にさらすべきではありません。