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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

麦と毒麦(人を救う真の福音とは) デイビット・カン 第3回

2017年01月31日 | 日記

1 律法主義者たち

クリスチャンは神様の十戒に従わなければなりませんが、自分の力では従うことが出来ません。しかし神様のおきてに従うたった一つの方法があります。それは新生の経験を持つこと、そして、信じる者と共におられるキリストのみ力に頼ることです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。

 律法主義者は、神様の律法を尊重してそれを守るために絶えず努力しますが、自分の心と人生をすべて捧げていないために、汚れた自己中心的な心をもって神様のおきてに従おうと、無謀な努力をします。彼らはこの世や財産に対する徹底的な決別と、新しく生まれ変わるという霊的な経験がないまま、自分の意志と努力に頼って、神様の尊い律法を守ることで義なる者となろうとし、その対価として救いを得ようとするのです。弱い人間の力では、全く到達不可能な目標を立てて走るマラソン走者のように、最後には律法主義者は敗北と挫折の渦の中に入ってそこから逃れることが出来なくなります。これが律法主義者の最終的な運命です。

 ここでひとつ確認しておきたいことは、今日多くのクリスチャンが、自分の良い行いに頼るのではなく、ただイエス・キリストの十字架の血の恵みによってのみ救われるということを信じると言います。しかし、日々の生活で神様の力を信じなかったり、神様の恵みに頼らなかったり、良心にささやく聖霊のかすかな声に耳を傾けて生きていないなら、そのようなクリスチャンも、実際には自分の力に頼って生きる律法主義的な信仰を持っているということです。

 自分は律法主義を信じないと言いながらも、実際の生活においては律法主義的な生き方をしているので、とても注意が必要です。神様の尊い律法と裁きに圧倒され、神様を畏れ敬う心で聖書のみ言葉に従おうとしますが、自我と欲を捨て切っていないので、失敗と挫折の経験を繰り返すクリスチャンは律法主義的な信仰をもっていると言えます。


麦と毒麦(人を救う真の福音とは) デイビット・カン 第2回

2017年01月30日 | 日記

しかし弟子たちや使徒たちが歴史の現場からいなくなった後、教会は形式主義と義務感にとらわれはじめ、徐々に律法主義のドロ沼に陥るようになりました。こうしてサタンは中世宗教暗黒時代のカトリック教会を通して、各種の儀式や巡礼、つまり行いを通して救いを得ることができるという、律法主義を広めるのに成功しました。このため世界は深い霊的な暗黒期を迎え、この名残が今日まで受け継がれ、キリスト教会の中に深く根を下ろしているのです。

 

そのような中、16世紀の初めから、宗教改革を通してイエス・キリストと弟子たちが確立した真のキリスト教会の信仰がよみがえります。その後ジョン・ウェスレーの時代になると、福音と律法とのバランスや調和が回復して、プロテスタント教会の全盛期を迎えました。

 

しかし、この全盛期は長くは続きませんでした。いつからと正確に言うことは出来ませんが、産業革命以降、科学と産業が発達して、富に対する人間の欲求が頂天に達しはじめ、そのような世俗的な潮流が、厳粛な神様の教会の中にも浸透してきました。そしてちょうどこの頃から、キリスト教会の中に「神様の道徳律である十戒を犯す生き方をしても救いを得ることができる」という奇異な教えが出てきました。世俗化した教会は、成長と繁栄が最高の目的となり、その目的を成し遂げるためには、もっと多くの信徒を教会の中に呼び込まなければなりませんでした。

 

生まれ変わっていない一部の牧師や神学者たちが、この世に対して教会の敷居を低くするというもっともらしい名目で、十戒をないがしろにするようになり、その権威を失わせてしまいました。神学的にはこれを、道徳律(十戒)廃棄論または自由主義と呼びます。

 

不幸なことに、彼らの主張は、すでに世俗化し、流行やお金が与えてくれる魅力に屈してしまっていた教会には、大変肯定的に受け入れられました。そのような妥協の結果として、現代キリスト教会の中には、聖書が認める真の救済論だけでなく、律法主義と自由主義(道徳的敗北主義)が共存する奇異な状況が起きてきてしまったのです。教会の中に、救いについての異なる立場の信仰が共存するようになり、信徒は迷路の中にいるように、進む方向を見失ってさ迷う羊になってしまいました。ある人たちは「結局はどれも一緒でしょう。救いさえ得られればいいのだから、あれこれ何が正しいか議論しても、平行線で意味がないですよ」というような、無知で愚かとしか言いようがない態度をとります。このような人が、神様の教会に増え続けていく現実を見て恐れを覚えます。

 

この冊子の中で私たちは、すべての教派と宗派とを超えて、クリスチャンが持つ救済論を大きく三つに分け、その違いを比較し、どの救済論が聖書の言おうとしている本当の救いを与えるものなのかを調べたいと思います。冒頭で述べたように、その三つとは、①聖書の述べている真の救済論(信じることによって得られる義)、②律法主義、③自由主義(道徳律廃棄論)です。


麦と毒麦(人を救う真の福音とは) デイビット・カン 第1回

2017年01月29日 | 日記

人を救う真の福音とは?

 

教会の中に二つの福音が存在します。一つは真の福音で、もうひとつは偽の福音です。真の福音は聖書の言う「永遠の福音」で、神様が人類を救おうと計画された本当の救いの方法です。ところが偽の福音は、堕落した人間の心が、自分たちに都合がいいように勝手にその内容を作り変えたものです。

 

ところで問題は、この二つの福音は、同じような聖書の言葉とイエス様の名前を使うところにあります。そのために多くのクリスチャンが、この二つの間で混乱しています。しかも、人はそれぞれ自分に合う福音を、自分の中の真実の動機と希望によって選んでいるのです。すべての人は、この二つの福音のうちのどちらかを選んで信じています。

しかしこの選びの結果として、真の福音は良い実を実らせ、偽の福音は毒麦を育てることになります。

 

では、この二つの福音はどのようにして生まれてきたのでしょうか。その歴史的な側面については最後の第4部で学びますが、その前に、まず教会の中に存在する救いについての三つの立場について調べていきましょう。この問題を正しく理解することによって、自分がどちらの福音を信じているかが明らかなります。

 

第1部:教会の中に存在する三つの救済論

 

私たちはクリスチャンとして、どんな救済論を信じて生きているでしょうか?私たちが認めようと認めまいと、実は私たちは、次の三つの救済論のうちのどれかを信じているのです。

 

1)聖書の言う真の救済論(信じることによる義)

2)律法主義の救済論(行ないによる義)

3)自由主義の救済論(神学的な用語では‘道徳的敗北主義’ともいう)

 

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、いつの時代にも神様の教会を堕落させてきたのは律法主義と自由主義(道徳的敗北主義)という二つの救済論です。律法主義は救いの問題において、律法に対する従順と善い行いを通して救われると信じる危険な教理です。もう一つの自由主義の救済論は、キリストを信じているのだから律法は守る必要がなくなったと言うもので、その結果多くのクリスチャンが世俗的で自由奔放な信仰生活を送るようになりました。この立場のクリスチャンは、罪の中で世俗的な状態にいながらも、自分は救われていると勘違いしてしまうので、これも恐ろしい教理といわなければなりません。サタンはこの二つの偽りの教理を通して、神様の教会を執拗に攻撃してきました。

 

サタンはかつてユダヤ教会に徹底した律法主義を植えつけることで、メシアを十字架につけるのに成功しました。しかしイエス・キリストの奉仕と死を通して、初代のキリスト教会が起こされ、まことのキリスト教会の信仰が始まりました。

初代のキリスト教会の信仰とは、消し去ることの出来ない自分の罪を赦されたマクダラのマリヤが、自分のすべてのものを売り払って高価な香油を買い、キリストの頭に注いだような信仰のことを言います。イエス・キリストに対する感謝と愛のゆえに、自分の生涯のすべてをキリストとその真理に捧げた信仰が、初代のキリスト教会の信仰です。愛はマリヤの心を真理にとらえられた、義の僕としました。そこでイエス様は「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と言われたのです(マルコ14:9)。マリヤがイエス様に対して表した信仰が、聖書が伝える救いの経験の一例です。


ヨブとヤコブの経験 私たちの未来 最終回

2017年01月28日 | 日記

最終回

神様の承認、天使たちと宇宙の住民の認定を受けるのです。 ヨブ記1:8の言葉を読む時、ヨブのかわりに皆さんの名前を入れて読んでください。

「主はサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」

(ヤコブの手紙にもヨブの名前が出ていますが、 誰の名前を変わりに入れましょうか? 今度も皆さん自身の名前を入れて読んでください)

 「 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」(ヤコブ5:11)。

 どのような結末を見たというのですか。 全宇宙の天使たちが私たちの姿を見て、神様の福音の力が人をどのように変化させたのか、その結末を認めて賛美するのです。

勝利の歌は艱難の中で作曲されます。 ヨブのような苦難は14万4千人の経験の歌になります。 私たちが皆、この歌を歌う主の真の民になることを切に望みます。

    祈り

人間の創造以来、一度も私たちを忘れたことがなく、待ち続けてくださっている父なる神様!ヨブの忍耐の経験が、すぐに試練の時を通過する残りの民の姿であることを教えていただきありがとうございます。私たちにどのような試練の嵐が押し寄せてきても、それが私の周りの人から、または人生の中に起きてくる様々な病や困難、さらに苦しみと死の脅威の前であっても、神様を信頼し、信仰を守ることができるように私たちを助けてください。精神的な大争闘の中で、私たちを主の<証人>として立たせてくださる方はあなただけです!私たちは、主の喜びとなり推薦していただける者になることを望んでいます。この試練を通して、私たちは神様の性質を反映し、主の愛に満たされ、主のために生きる聖なる民になるようにしてください。この宇宙戦争の終結をもたらす神様の生きた証人になって、永遠に経験の歌を歌うことができますように力をお与えください。 再び来られるイエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 ≪人生の試練≫

生涯の試練は、わたしたちの品性から不純で粗野なものを取り去る、神の職人である。切り出され、角材とされ、削られ、刻まれ、磨かれるのは苦しい工程である。といし車におしつけられるのはつらいことである。しかしこうして石は、天の神殿に置かれるように整えられるのである。主は無用の材料に対しては、こんな注意深い、行き届いた手間をかけられない。主の尊い石のみが、宮の型にならって磨かれるのである。主は、ご自分にたよるすべての者のために働かれる。忠実な者は尊い勝利を得る。貴重な教訓を学び、すばらしい体験をすることができる。  (山上の説教より)


ヨブとヤコブの経験 私たちの未来 第20回

2017年01月27日 | 日記

ブとヤコブの経験がなぜ私たちの未来でしょうか?

 

(1)第一に、本当の信仰による義人を説明しているからです。

サタンがどのように私たちを攻撃しようと、どんな苦難の中でも、イエス様を見上げて神様を喜ばせて、サタンの口を封じるほどの勝利を収める人になられることを願います。神様が信頼できる人になられることを願います。 永遠に疑う余地のないほどの義人にするため、しばらくの苦難が許されます。 神様は私たちを推薦したいのです。「サタンよ、 ○○を見たか?」「何を言ってるんですか?利益があるからあなたを信じるんじゃないですか?」 「そうではない。利益のために私を愛しているのではない!」。

 

私たちが苦難に打ち勝つなら神様に栄光が帰せられます。 神様が皆さんを誇らしげに紹介されます。 皆さんは苦難のうちにいますか? それでは「神様が今私を信頼しておられる! 苦難の時、神様につぶやかせるのがサタンの目的だ。サタンよこれはお前のミスだ。 なぜなら私はもっと神様に信頼するから。 サタンよ、こんなことをしても無駄だ」。

今神様と全宇宙の天使たちが注目しています。 しかし、神様が私たちを苦難の中から救ってくださる時が必ずきます。

 

(2)神の品性を十分反映するためです

ヨブ記13章にこうあります。“彼が私を殺しても私はその方を信頼しよう””(ヨブ13:15、KJV)“ Though he slay me, yet will I trust in him”

これはなんと美しい告白でしょうか! 人生の苦難さえ神様の祝福であることをヨブは悟りました。 それでヨブ23:10を見ると、

「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられる時、わたしは金のように出て来るであろう」。

 

しかし、私たちが、サタンの外部的な権力から救われるに先だって、サタンの内部的な力から 救われなければなりません。そこで世俗心や利己心、粗野でキリストにふさわしくない性質を清めるために、主は、試練がやってくることをお許しになります。苦難の大水が押しよせてくるのは、私たちが、神様と、神様がつかわされたイエス・ キリストを知り、汚れからの清めを熱望するようになるためです。こうした試練を経ることによって、さらに清く聖なるものとなり、幸福になるためです。わたしたちが試みの炉に入る時、魂はしばしば利己心のために暗くなります。しかし、その厳しい試練を忍耐するなら、神様の性質を反映して出てくるのです。