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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 61

2013年12月31日 | 日記

  

 福音の力を体験せよ 61

その後、私たちが訪問したときには、すっかり変わった人になっていました。聖書のみ言葉が大好きになりました。全くの別人になっていました。姑の場合、このようになるまで九十三年もかかったわけです。 

しかし、天の父なる神様が心の奥に入るまで、それほど長い時間をかける必要はありません。皆さんは今日、イエス様に仕えることができます。現在、私の姑は百三歳です。相変わらず、主にある喜びの日々を過ごしています。

私の母親は八十五歳です。私の母も、毎日毎日イエス様と共に生きる秘訣を見出したことを喜んで過ごしています。私の末の弟はまだですが、他の兄弟姉妹は全員、このメッセージを受け入れ喜んで生活しています。

誰であれ、信仰をもってみ前に出る者を、主は救うことがおできになります。

  新生への道 13 主にある喜び ⑯

キリストは山上の説教の中で、神を信頼することの大切さについて、尊い教訓を与えられました。これはすべての時代の神の子らを励ますためのもので、今日においても教えと慰めに満ちています。救い主は、空の鳥が楽しく神をたたえ、少しも心配せず、「まくことも、刈ることもせず」にいるのを見よ、と言われました。それでも、大いなる父は、小鳥の必要を満たされるのです。「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」(マタイ6:26)と救い主は問いかけられました。人にも生き物にも豊かに与えられる神は、すべての造られたものの必要を満たされるのです。空の鳥でさえ、神の見守りからもれることはありません。神は食物をくちばしの中に落とすことはなさいませんが、必要は満たされます。小鳥は、神が散らされた穀類を集めなければなりません。また、巣を作る材料を用意し、ひなを養わなければなりません。小鳥はそれでも、歌いながら働きに出ていきます。というのも、「あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」からです。「あなたがたは、彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」と言われています。理性を備え霊をもって神を礼拝する人間は、空の鳥よりはるかに優れているのではないでしょうか。私たちを造られた神、命を支えられる神、また、私たちをご自分のかたちに似た者として造られた神は、ただ私たちが神に信頼してさえいれば、私たちの必要を満たして下さるのではないでしょうか。


福音の力を体験せよ 60

2013年12月30日 | 日記

   

   福音の力を体験せよ 60

私の姑は、主人が十一歳の時に教会員になりました。けれども、新しく生まれることについては知りませんでした。彼女は、自分がクリスチャンであると思っていました。しかし、問題は勝利の経験がないということでした。

私たちが真のクリスチャンになる秘訣を見出したとき、姑とこの問題について話しました。その頃、姑は老人ホ-ムにいました。彼女は、私たちの話がまるっきり分からない様子でした。それから、主人の妹がこのメッセ-ジを見出した後、母親に教えようと努めました。

ある日、義理の妹はある友だちを呼んで、自分の母親に、話をしてくれるよう頼みました。彼女は来て、姑に向かって次のように尋ねました。「あなたは今までに、一度でもイエス様に心を明け渡した経験がありますか?」姑は、「はい」とも「いいえ」とも、返事ができませんでした。

彼女が再び、「だとすれば、今日、イエス様に心を明け渡しますか?」と尋ねました。その時、「はい!」と答えてから、姑は突然わんわん泣き出したのです。

皆さん、イエス様がついに、彼女の心の奥に入ることができるようになりました。以来、彼女はすっかり別人になりました。当時、彼女は九十三歳でした。最晩年になって、とうとうキリストとの生きた関係を築くことができたのです。

   新生への道 13 主にある喜び 15

仕事の上でいろいろな困難が起こり、前途はますます暗くなり、損失が目前に迫ることもあるでしょう。しかし失望してはなりません。心配をみな神にまかせて、平静、快活にしていましょう。賢く物事を処理できる知恵を神に祈るとき、損失、失敗を免れることができるのです。良い結果をもたらすように、全力を尽くして自分の分を果たさなければなりません。イエスは助けを約束しておられるからといって、何も努力しなくてよいというのではありません。私たちの助け主により頼んで最善を尽くしたならば、結果はなんでも喜んで受け入れましょう。

 神の民が、心配して心を重くしているのは神のみ心ではありません。主は私たちを欺かれません。主は私たちに、「何も恐れることはない。前途には何の危険もない」とは言われません。試練や危険があることをよく知っておられて、はっきりとそのように言ってくださいます。民を罪と悪の世から取り去ろうとはされず、確かな逃れの場所を示しておられるのです。イエスは、弟子たちのためにこのように祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ17:15、16:33)


福音の力を体験せよ 59

2013年12月29日 | 日記

    


   福音の力を体験せよ 59

しかし多くの場合、キリストのみ前に出ることについて、あまりにも誤った観念をもってきたため、実際はイエス様の前に出てきた経験がないのに、出てきていると思いながら過ごしているのです。そのため、本気で新しく生まれる経験なしにイエス様に従おうと努力します。しかし、そのような状態では、クリスチャンとして生活することが難しくなります。

ロ-マ人への手紙7章にあるように、私たちは「ああ、私が願わない事をしばしばやってしまうのは、なぜですか?」と尋ねます。本当の理由は、間違った信仰を持っているからです。パウロは、どのように十字架の前に出てくればよいか分かりませんでした。しかし、イエス様が彼にご自身をあらわされたそのとき、パウロは新しく生まれ、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と証しました(ピリピ4:13)。パウロの書簡は、勝利の秘訣であふれています。

    新生への道 13 主にある喜び ⑭

また、ある人は絶えず恐れ、意味のないとりこし苦労をしています。彼らは毎日神の愛のしるしに囲まれ、神の摂理のうちに恵まれていながら、祝福を見過ごしにしています。そのような人々は、何か不愉快なことが起こりはしないかと、そういうことばかり考えています。また実際に当面する困難は、ほんの小さいものであっても、そのために目がくらんで、感謝すべき多くのことを見ることができません。ですから、困難に会ったとき、唯一の助けの源である神のもとに行くかわりに、かえって不安と不満の心を起こして神から離れてしまいます。

 このように不信仰であっていいのでしょうか。どうして感謝と信頼の心がないのでしょうか。イエスは私たちの友です。全天は私たちの幸福を願っています。日常生活の困難、または、労苦に悩まされることがあっても、失望してはなりません。もし、そうしたことを気にしていれば悩みの種はいつまでも尽きないのです。心配してはなりません。それはただ、私たちを悩まし疲れさせるばかりで、試練に耐えるなんの助けにもなりません。





福音の力を体験せよ 58

2013年12月28日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 58

義認とは、ただ義と思われるというだけの意味ではありません。義認は皆さんを義とすることで、それは新しく生まれることを含んでいます。まさしくそれは、完全に新たにされる、そのような洗浄のことです。誰も、新しく生まれず、神に受け入れられることはできません。

このようなことが私たちに起きるには、どれほどの時間を要するでしょうか?イエス様が皆さんを十字架の前に導くまでには、二十年、三十年、四十年もの歳月がかかるかもしれません。しかし本来は、そんなに長くかかる必要はありません。今日、十字架の前にひざまづくことができるのです。

    新生への道 13 主にある喜び ⑬

もし、私たちが、他人の不親切や不正な行為を心にとめて忘れないでいるならば、キリストが愛されたように、その人々を愛することはできません。けれども、もしキリストの驚くばかりの愛とあわれみのことを考えているならば、その同じ精神が他の人へも流れ出ていくのです。私たちは、どんなにお互いの欠点や不完全さが見えても、お互いに愛し尊敬しなければなりません。謙遜な心を養い、自分に頼ることをやめ、他人の欠点に対して優しく忍耐強くならなければなりません。そうすれば、狭い利己心は根を断ち、寛大な心を持つことができるようになります。

 詩篇記者は「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る」(詩篇37:3)と言いました。「主に信頼して」いくのです。私たちは一日として重荷や心配、苦労のない日はありませんから、すぐにそうした困難や試練を他人に話したくなります。いろいろなとりこし苦労をしたり、恐れや心配を口に出したりするので、まるで、すべての祈りを聞き、必要なときにはいつでも助けて下さる、愛とあわれみとに満ちた救い主がおられないかのように人に思わせてしまいます。


福音の力を体験せよ 57

2013年12月27日 | 日記

   

   福音の力を体験せよ 57

皆さん、水はバプテスマを受けるときの水を指しているのではありません。人は新しく生まれずに、幾らでもバプテスマを受けられます。 

「多くのクリスチャンがキリストを信じると言うが、彼らは新しく生まれず、清められていない心を持っている。」彼らは、まだ自己に死んでいません。ゆえに彼らは、キリストのうちに新しい人として生まれ変わることがないのです。 

テトス3章5~8節にある言葉は、私たちが神様との正しい関係を保つために、何をするべきかを説明しています。 

“わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊はわたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。

   新生への道 13 主にある喜び ⑫

私たちの救い主は、実に真面目で熱心でしたが、決して憂うつでもなければ、気難しくもありませんでした。救い主にならう人々もまた、熱心に目的を持って励むようになり、個人的な責任を深く感じるようになります。軽率な行為はなくなり、騒々しい楽しみや礼儀をわきまえないような冗談はなくなります。しかし、イエスの宗教は川のような平和を与えるのです。それは喜びの光を消したり、快活さを抑制したり、明るい笑顔を曇らせたりするものではありません。キリストは仕えられるためでなく、仕えるために来られたのです。そして、キリストの愛が心を支配するなら、私たちは彼の模範に従うことができるようになるのです。