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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か? 第13回

2016年05月31日 | 日記

2.奇跡を行うことが神様の僕という証なのか?

 

では、最後の時代に今後どのようなことが起きていくのか、聖書の預言の言葉を見てみましょう。信じ難いことですが、大いなる欺瞞者であるサタンのトリックによって、多くの人々が彼の策略に引っかかることが預言されています。そして多くの人が、クリスチャンという名前を持っていながら、神様の律法に従わないようになるのです。このことについて警告されたキリストの言葉を注意しながら見てみましょう。

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ 7:21-23)。

 主の警告の言葉の意味をよく考えてみてください。ここに出てくる人たちは、クリスチャンであることを自称し、その上、預言し、病を治し、悪霊を追い出すなど目覚ましい働きをしていました。彼らはこのような奇跡をイエス様の名前で行いました。しかし、イエス様は彼らを知らないと言われました。明らかなことは、イエス様が彼らを知らないと言われるのですから、彼らはイエス様からその力を受け、そのような活動を行ったのではないということです。だとしたら、誰が彼らに超自然的能力を与え、そのような奇跡を起こしたのでしょうか?そのような能力が出てくる根源は、神様とサタン以外いません。イエス様が彼らに「不法を働く者ども」と断定されたことを見ると、この人たちは、実は不法の創始者であるサタンの能力によって病を治し、預言していたに違いありません。


異言とは何か? 第13回

2016年05月31日 | 日記

2.奇跡を行うことが神様の僕という証なのか?

 

では、最後の時代に今後どのようなことが起きていくのか、聖書の預言の言葉を見てみましょう。信じ難いことですが、大いなる欺瞞者であるサタンのトリックによって、多くの人々が彼の策略に引っかかることが預言されています。そして多くの人が、クリスチャンという名前を持っていながら、神様の律法に従わないようになるのです。このことについて警告されたキリストの言葉を注意しながら見てみましょう。

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ 7:21-23)。

 主の警告の言葉の意味をよく考えてみてください。ここに出てくる人たちは、クリスチャンであることを自称し、その上、預言し、病を治し、悪霊を追い出すなど目覚ましい働きをしていました。彼らはこのような奇跡をイエス様の名前で行いました。しかし、イエス様は彼らを知らないと言われました。明らかなことは、イエス様が彼らを知らないと言われるのですから、彼らはイエス様からその力を受け、そのような活動を行ったのではないということです。だとしたら、誰が彼らに超自然的能力を与え、そのような奇跡を起こしたのでしょうか?そのような能力が出てくる根源は、神様とサタン以外いません。イエス様が彼らに「不法を働く者ども」と断定されたことを見ると、この人たちは、実は不法の創始者であるサタンの能力によって病を治し、預言していたに違いありません。


異言とは何か? 第12回

2016年05月30日 | 日記

この最後の欺瞞のための彼の強力な作戦は、宗教界だけでなく、あらゆる人々を、天の権威に敵対させるようにすることです。そのためにすべての教派に属しているクリスチャンたちが、律法を犯しながら、良心に何の罪意識も感じないようにしたのでした。一方では神様の律法を犯していながら、もう一方では、キリストの教えを伝えるために熱心に活動するというような欺瞞です。サタンはこのような計画を成就させるために、信仰問題において、聖書を最終的な権威とする伝統的な見解を崩し、聖書以外の異なる権威を確立しようとするはずです。そして今後サタンは、全キリスト教会がその信仰や教理の違いを越えて連合するように働きかけてくるでしょう。教派間の違いやライフスタイルの違いを乗り越えて一致させる、ある素晴らしい論理や行動目標を提案してくることでしょう。それによって、全キリスト教会が背教するような、もっともらしいある何かが持ち出されてくるはずです。

 キリスト教界全体が神様の教えに背くように仕向ける、驚くべきサタンの目標を成功させるためには、次の4つの基本的な要素が必要です。

 ❶ クリスチャンが律法を犯しながらも、安心を感じられるようにする。

 ❷ 真理と誤りを見分ける唯一のものである聖書の言葉に対する不信感を抱かせる。

 ❸ 聖書の代わりに、真理のように見えてすべての人の関心を引き付けるような別の基準を提示する。

 ❹ 各教派間の違いをもたらしている教理や標準の違いは無視されるような雰囲気を作り出す。

 神様のお言葉(特に十戒)に背くよう、クリスチャンを導くために、このすべての要素がサタンの巨大な反キリスト戦略の中に入って来るでしょう。

 


 異言とは何か? 第11回

2016年05月29日 | 日記

第2部:奇跡はすべて、聖霊の賜物なのか?

1.序論

神様が最初にこの地球を創造された時、この世界全体がエデンの園のようになることを望んでおられました。その時神様は、人類の始祖アダムとエバに、神様のかたちに似た存在として多くの贈り物を与えられました。それは生命、神様に似た品性、自由意志、美しい家、この世界を統治する権勢などです。そして彼らは、禁止された果実についての神様のお言葉に、単純に従うことを選び続けるなら、その贈り物を永遠に所有することが出来ました。創造主である神様の愛のいましめに従うことは、自然の法則のように当たり前で、人間の永遠の幸福を保障するものでした。

 ところで、聖書に教えられている最も明確な最後の時代の徴候の一つは、すべての魂の運命が決定する世界最終戦争のため、サタンの勢力が目に見える形で出現することです。ヨハネの黙示録は、この最後の戦いをハルマゲドンの戦いと呼んでいますが(黙示録 16:16)、この戦いで神様とサタンは最後の大闘争を繰り広げ、全人類を巻き込んできた善と悪の大闘争は、最終的にここで幕を下ろします。聖書によると、サタンはこの時、世界全体を自身の陣営へ引き入れるために、欺瞞的な作戦やあらゆる狡猾な方法を用いると記録されています。ヨハネは、「悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」と言いました(黙示録 12:12)。6000年間も準備してきたこの戦争のために、サタンは政治的勢力や宗教的力のすべてを利用するのです。ずば抜けた頭脳の持ち主であるサタンは、人々を救われないようにするための戦略をこれまでずっと立ててきました。彼の最終目標は人々が罪を犯すよう仕向けることです。なぜなら、人々を天国へ行けなくするたった一つのものが罪だからです。

 聖書は罪を「不法(法を犯すこと)」と定義しています(Ⅰヨハネ 3:4)。パウロはもっと具体的にこう言っています。罪とは「律法(十戒)」を犯すことだと(ローマ 7:7)。だとしたら、最後の大闘争の争点は神様の律法に従うか、従わないかという問題になることは、疑いの余地がありません。サタンは神様の法と天の政府の法則を無視する存在です。遠い昔、サタンは神様を不公平な要求をする方として非難し、天の平和を破壊しました。彼は神様とは、被造物がとうてい守ることの出来ない法に従えと要求する、不当な方だとして非難したのです。その時から、彼は自分の非難が正しいことを立証するために、人々が神様の法を犯すように仕向けてきました。キリストを信じない人々は、サタンにとってそれほど厄介な存在ではありません。問題は神様を信じるという巨大な宗教集団の中にいる人たちを欺いて、どのようにして自分の反逆計画の中に引き入れるかということです。


異言とは何か? 第10回

2016年05月28日 | 日記

コリント教会と現代の教会の状況を比較してみると、霊的賜物をどう扱うかということについての基本的な考えが違っているように思われます。おそらくパウロは、コリント教会に対して、サタンの支配下に陥った悲しむべき状態と宣言したかったはずです。しかし彼はそうしませんでした。耐え忍び、親切に、彼らと労苦を共にしながら、正しく彼らを指導しました。その結果コリントの教会員たちは、成熟したクリスチャンになることが出来ました。同様に、未熟なクリスチャンを愛で養育し、聖書の真理によって育てることが、今日の成熟したクリスチャンたちの責任です。現代の異言をすべてサタンの仕業だと言うのは正しくありません。それは、福音の活動に逆効果となります。たとえサタンが今日、いろいろな異言や聖霊の賜物を与えて不思議な現象を起こしているように見えても、神様は熱心に神様を探し求める者たちを知っておられ、彼らを安全に守ってくださるのです。使徒パウロがコリント教会にしたように、今も忍耐を持って救われるべき魂を探し出し助け続ける、そのような聖徒たちが必要です。未熟なクリスチャンというのは、キリストの周りに集まってくる幼い子供のようなものであり、キリストはご自身に従う者たちに、彼らの面倒をみる責任を与えられます。ですからこのように語ることが出来たのです。「また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」(マルコ 9:42)。

 皆さん自身の生活を振り返ってみてください。皆さんの生活の中には聖霊の果実が実っていますか?皆さんの証しは聖霊の能力によって力と愛と慎みがみなぎっていますか?「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか」(マタイ 7:4)。私たちは、自分自身の足りなさを深く認識した時、自分たちよりもっと弱い人たちを、愛と配慮によって見守ってあげることが出来ます。一人の魂が真理の中へ導かれるためには、聖霊の臨在によってその人の心が動かなければなりません。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ 4:23,24)。

 

3.あなたは知っていますか?

歴史をたどってみると、宗教的礼拝において、無意識の没我的状態を起こさせるようなやり方は、キリスト教会が成立する何世紀も前の異教主義に由来しています。一心不乱に経や呪文を唱えたり、意味のない音節を反復して没我状態を引き起こしたり、人を夢幻の世界に誘い、一種の催眠状態にして宗教的な高い境地に導こうとするのです。聖書でも、「自分を捨てる」とか「自己に死ぬ」「自己を十字架につける」などと教えられていますが、聖書の場合には、明確な意識と目的があり、神様と人のために自分を忘れて奉仕することを意味しています。それに対して、聖霊運動や異教の没我状態というのは、自己陶酔であり心理的なトリックと言えるもので、理性を失わせる危険な要素を持っているものと言えます。「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない(新改訳)」(箴言 21:23)と言った賢者の忠告を、しっかり心にとめる必要があります。