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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 127

2013年09月30日 | 日記

 


  福音の道しるべ 127

VIII.聖所のメッセージの結論

 

神はなぜ、地球の歴史を速やかに終わらせようとなさらないのだろう?犯罪、飢きん、災害などは、悪化の一途をたどっている。なぜ神は、私たちが罪と苦しみを永久に終わらせることができるように、ご自分の働きを終わらせようとなさらないのだろう?時が長く延びればのびるほど、救われる者たちに対して、滅びる者たちの割合は大きくなる一方であるように思われる。

 一つの魂の価値は計り知れない、と多くの人は言う。それなのに、一握りの人が救われるまでに、何千何万もの人が苦しみながら死んでいく。少数の人たちが救いを選ぶのを待っている間、悲惨な状態は続いてもよいのだろうか?否、地上歴史の終わりが早まれば早まるほど、神にとっても人にとっても、それに越したことはないのである。

 ではなぜ、神は遅らせておられるのか?もし私たちが地球の状態を嘆き、心を痛めているなら、神の悲嘆はなおさら大きいのである。すべての被造物は、神のものである。神は愛のお方であられるが、すべての苦しみを忍耐しておられるのには理由がある。神の贖いの計画を理解すれば、その理由も分かるであろう。神が何を待っておられるのか、またなぜ待っておられるのかを正確に悟るとき、私たちは、神が地上歴史の最終回にセブンスデー・アドベンチスト教会を起こされた目的を認識できるようになる。

 

   7  弟子としてのテスト ①

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。

 人は、いつどこで悔い改めたのか、あるいはどんな段階を経て改心したかをはっきり語ることはできないかもしれませんが、それだからといってその人が悔い改めていないとは言えません。キリストはニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それとおなじである」(ヨハネ3:8)と言われました。風は目には見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうどそれと同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです。聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実を証明します。

 


福音の道しるべ 126

2013年09月29日 | 日記

 

     126

 

特に、教会にとっての最後の働きにおいて、神の御座の前で非の打ちどころのない者として立つ十四万四千を印する時にあって、彼らは、神の民と公言する者たちの誤りを最も深く痛感するであろう(教会への証3巻266ページ)。

 

十四万四千の中に入るために、神が我々に与えて下さった力を尽くして努めよう(SBN578ページ)。


   新生への道 6 信仰と受容 ⑧

 疑い、おののく人々よ、目を上げようではありませんか。イエスはなお生きて、私たちのために執り成しをしておられます。神が愛するひとり子をお与えになったことを感謝するとともに、彼の死が無駄にならないよう祈りましょう。聖霊は今日、あなたを招いておられます。全心をささげて、イエスのもとに行きましょう。そうすれば主の祝福を自分のものとすることができるのです。

 み約束を読むとき、そのみ言葉は言いあらわすことのできない愛とあわれみの表現であるということを覚えましょう。無限の愛の神のみ心は、はかり知れないあわれみをもって罪人を引きつけています。「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」(エペソ1:7)。そうです。あなたを助けることができるのは、ただ神のみであることを信じてください。神はご自身の真のかたちを人間のうちに回復したいと望んでおられます。告白と悔い改めによって神に近づくならば、神はあわれみとゆるしをもって私たちに近づかれるのです。(この項終わり:あすからは弟子としてのテストが始まります)。




福音の道しるべ 125 

2013年09月28日 | 日記

   

  福音の道しるべ 125

 「ここに、聖徒たちの忍耐がある。ここに神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける彼らがいる」(黙示録14:12―欽定訳)。私たちは、最後まで、しかも十字架上の第二の死に至るまで、天父の戒めに従ったキリストの信仰を持たなくてはならない。最終世代は、イエスの信仰そのものを通して、天と地の前で神の義を擁護し、キリストにふさわしい冠を、そのみかしらにかぶらせることになっている。

 十四万四千の一員となることを、私たちはどれほど真剣に求めるべきか。彼らは、小羊の行くところへは、どこにでもついて行く。彼らの口には偽りがない。彼らは、非の打ちどころのない者となっている。私たちはこれを、最大の希望とすべきではないだろうか?私たちが罪を犯し続けるならば、小羊は天の聖所で苦しみ続けなければならない。彼の苦しみを思いやり、罪をこよなく憎む心を育て、彼のご品性を擁護したいという熱意を発達させようではないか。これらの思いが私たちを駆りたてて、敬虔な生き方をさせるのである。

 私たちは、十四万四千についてすべてを知り、すべてを理解することはできない。エレン・ホワイト自身も、彼らについての完全な理解を持っていたかどうかは疑わしい。彼女はただ、「神の選ばれたこれらの人々が誰であるかは、近いうちに疑いもなく分かるであろう」と書いている(SBN588ページ)。そして私たちは、彼らが、全宇宙の前で果たすべき特別な使命を帯びた、特別な民の一団であることを知っている。

   新生への道 6 信仰と受容 ⑦

これは 実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、「わたしは、限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)と言われました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。そして、神へ帰りたいと言う気持ちを彼の心に起こさせるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。

 聖書には、こうした約束がたくさんありますから、疑う余地はどこにもありません。哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は罪を憎まれますが罪人をお愛しになります。

 神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)



福音の道しるべ 124 

2013年09月27日 | 日記

 

  福音の道しるべ 124

「ヨハネはシオンの山の小羊と、額に小羊の父の名が記されている十四万四千が小羊と共にいるのを見た。彼らは天の印を帯びていた。彼らは神のかたちを反映していた。彼らは聖なるお方の光と栄光で満ちていた。もし我々が、神のかたちとみ名を持ちたければ、我々はすべての悪から離れなければならない。我々はすべての悪しき道を捨て、キリストのみ手に自らを委任しなければならない。・・・なぜ彼らは特別に選ばれたのだろうか。彼らは驚くべき真理をもって、全世界の前に立ち、その反対を受けねばならなかったからである。そして、この反対を受けている間に、彼らは、自分たちのうちに栄光の望みであるキリストを形づくっていただかねばならないこと、自分たちが神の息子、娘であることを覚えていなければならなかった」(SBN587-588ページ)。

 

「クリスチャン品性の理想は、キリストに似ることである。人の子キリストが、その生涯において完全であられたように、キリストに従う者も、その生涯において完全でなければならない。・・・イエスは、われわれと同じように、肉体をおとりになった。・・・イエスは、人と同じ身分でありながら、しかもきずのない神のみ子であられた。・・・キリストのご品性がわれわれのものとなるのである」(各時代の希望中巻20ページ)。

  

    新生への道 6 信仰と受容 ⑥

 神は、人間がお互いを取り扱うように私たちを扱われるようなことはありません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主はゆたかにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)と言っておられます

 「わたしは何びとの死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32)。悪魔は、この尊い神からの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸してはなりません。「イエスは私が生きるために死んでくださったのです」と言いましょう。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き「わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪をおかしました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」と言わなければなりません。このたとえは、さまよい出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした」(ルカ15:18~20)。


福音の道しるべ 124 

2013年09月27日 | 日記

 

  福音の道しるべ 124

「ヨハネはシオンの山の小羊と、額に小羊の父の名が記されている十四万四千が小羊と共にいるのを見た。彼らは天の印を帯びていた。彼らは神のかたちを反映していた。彼らは聖なるお方の光と栄光で満ちていた。もし我々が、神のかたちとみ名を持ちたければ、我々はすべての悪から離れなければならない。我々はすべての悪しき道を捨て、キリストのみ手に自らを委任しなければならない。・・・なぜ彼らは特別に選ばれたのだろうか。彼らは驚くべき真理をもって、全世界の前に立ち、その反対を受けねばならなかったからである。そして、この反対を受けている間に、彼らは、自分たちのうちに栄光の望みであるキリストを形づくっていただかねばならないこと、自分たちが神の息子、娘であることを覚えていなければならなかった」(SBN587-588ページ)。

 

「クリスチャン品性の理想は、キリストに似ることである。人の子キリストが、その生涯において完全であられたように、キリストに従う者も、その生涯において完全でなければならない。・・・イエスは、われわれと同じように、肉体をおとりになった。・・・イエスは、人と同じ身分でありながら、しかもきずのない神のみ子であられた。・・・キリストのご品性がわれわれのものとなるのである」(各時代の希望中巻20ページ)。

  

    新生への道 6 信仰と受容 ⑥

 神は、人間がお互いを取り扱うように私たちを扱われるようなことはありません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主はゆたかにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)と言っておられます

 「わたしは何びとの死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32)。悪魔は、この尊い神からの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸してはなりません。「イエスは私が生きるために死んでくださったのです」と言いましょう。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き「わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪をおかしました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」と言わなければなりません。このたとえは、さまよい出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした」(ルカ15:18~20)。