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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 福音の力を体験せよ 149

2014年03月31日 | 日記

 

  福音の力を体験せよ 149

ロ-マ人への手紙6章の1節から19節までのみ言葉を読みましょう。 

“では、わたしたちは、なんと言おうか、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。”

“断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。”

“すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。”

“もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。”

“わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人は、キリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。”

“なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。”

“だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。”

“それでは、どうなのか、律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。”

“あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。”

“しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から従って、罪から解放され、義の僕となった。”

“わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

 

   宇宙戦争23

サタンは天において、神様に反逆しました。サタンは、自分の考えは正しい、どこも間違っていないと思いこんで、自分の主張をしたのでしょう。自分が神様のようになりたい、神様のように宇宙の中心になりたいという野心は隠して、もっともらしい理屈をつけて、神様への不満をあおって、神様に戦いを挑んだのです。しかしサタンは、結局この宇宙戦争において、自分が敗北することは分かっているのです。創られたものが、命の与え主であられる方に、勝つことなどできないからです。サタンの敗北は決定しています。それにもかかわらず、サタンは、なぜ絶え間なく神様に挑戦し続けているのでしょうか?


福音の力を体験せよ 148

2014年03月30日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 148

7、どうすれば、罪を犯さない生涯を送れるのか? 

ここでは、どうすれば罪を犯さない生涯を送れるかについて、述べたいと思います。これまでずっと述べてきた階段の七段目にあたります。誘惑を受けるとき、イエス様は私たちを助けてくださいます。ただし、私たちにもなすべき分があります。果たして、それは何でしょうか?

“信じる魂は罪から自由でいられるとの、豊かな恵みが準備されている。なぜなら、我々の求めに応じて、その限りない資源とともに、全天が提供されているからである。”(1SM394)

必要なら、天の全軍が私たちを助けるために動員されることが約束されています。神様は、私たちがつまずかないよう、巧みに助けてくださいます。それなのになぜ、私たちはつまずくのでしょう?その理由は、どうやって主と協力するのかが、良く分かっていないためです。

   宇宙戦争 22

イエス様はこのように言われました。「あなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。皆さんは神様を愛していますか?それなら皆さんは、本当に神様の戒めを守っていますか?ただ信じれば救われるという信仰、現在では、もう多くの人が信じ込んでいる信仰がありますが、そのような信仰では、神様の戒めを守ることも、罪に勝利することも出来ません。神様を本当に愛するとは、神様が愛されるものを愛し、神様が嫌われるものを嫌うのです。神様は、義を愛し、罪を憎まれる方ですから、神様を愛するなら、私たちもそうなるのです。


福音の力を体験せよ 147

2014年03月28日 | 日記

 

  福音の力を体験せよ 147

“あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。”(Ⅰペテロ2:21-23) 

“あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしりかえさず、正しくさばかれる方にお任せになりました。”(欽定訳参照)

イエス様は、他の人たちの裁きを神様に委ねられました。彼は、いちども仕返しをなさいませんでした。イエス様は、他の人たちの言動に過剰反応なさいませんでした。そして、私たちにも、そうするように求めておられます。

    宇宙戦争 21

“あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。”(Ⅰペテロ2:21-23)

“あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしりかえさず、正しくさばかれる方にお任せになりました。”(欽定訳参照)

イエス様は、他の人たちの裁きを神様に委ねられました。彼は、いちども仕返しをなさいませんでした。イエス様は、他の人たちの言動に過剰反応なさいませんでした。そして、私たちにも、そうするように求めておられます。


福音の力を体験せよ 146

2014年03月27日 | 日記

  

   福音の力を体験せよ 146

“このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。”(Ⅰペテロ4:1、2)

“このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたもおなじ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。”(欽定訳参照)

    

        宇宙戦争20

  十字架は愛のしるし 

このような、神様の自己犠牲の愛のしるしが十字架です。十字架でイエス様が死なれることによって、私たちは救われたのです。それでは皆さん、その十字架の下で、十字架を見上げながら、「ああ、私の罪のために、このようにイエス様が死なれたのねー。だから私がまた罪を犯しても赦されるのねー。わー、よかった、ラッキー、感謝だねー」こんなふうに言えるでしょうか。皆さんが本当に、十字架の下にいるならば・・・、今、イエス様は苦しみのあまり叫んでおられるのです。血はだらだら下に落ちてくる・・・、そのような姿でイエス様が苦しんでおられるのです・・・。

私たちが、本当に十字架を見つめて過ごしているのなら、罪がどんなに忌まわしいものであるかが分かるのではないでしょうか。イエス様を、これほど苦しめたのが自分の罪だということが分かったならば、二度と罪を犯したくないと思うのではないでしょうか。イエス様の十字架を見て、罪を犯したくないと思い、罪に勝利する力を受けること、それが十字架の力なのです。


福音の力を体験せよ 145

2014年03月26日 | 日記

 

  福音の力を体験せよ 145

彼は「人類の強力な激情をすべて持っておられた」とは、どういう意味でしょう?激情というのは、必ずしも悪いものではありません。激情とは、「感情の力」という意味です。私たちは、聖なる感情か、または悪感情のどちらかを抱くことができます。誰もが、どちらかの側の感情を持つ可能性があるという意味です。ただしイエス様は、良からぬ感情に屈したことは一度もありませんでした。

しばしば私の母は、父のうっぷん晴らしの的でした。父は、家の事であれ子供たちのことであれ、何であっても間違えばかんしゃくを起こしましたが、そのようなとき、母は賛美歌をうたい出しました。すると、子供だった私たちも、なんだか幸せな気持ちになりました。

母がどうしてそのようにできたかは分かりません。まだ真理を見出してはいませんでしたが、母は苦しいときには、賛美歌をうたっていました。その後、イエス様を真に見出したときの母の喜びようは、ひとしおでした。彼女は、「マーガレット、主と私の間には、何の隔たりもなくなったわ」と言いました。

   宇宙戦争 ⑲  

その間に、お母さんペンギンは、卵が孵化したら食べさせるように、海に行って泳ぎながら餌の魚を取り、それを全部自分のものにするんですね。それから60日がたちました。お母さんペンギンが戻ってきて、卵からかえった子供たちに餌を与えるのですが、横にいるお父さんペンギンには、餌を全く与えないのです。本当は、60日間何も食べなかったのだから、憐れみをもって食べさせてもいいと思うのですが、食べさせてもらえません。それだけでなく、子供のペンギンは、まだ小さくて、外へ行けないから、寒さで凍らないように、お父さんペンギンは、あと60日間、子供たちを守って立ち続けるのです。合計約4か月間立ち続けて、子供たちが成長して歩けるようになったら、お父さんペンギンは、ようやく餌を求めて海へ行くのですが、その時には、もうすっかり疲れ切って、途中で何度も倒れてしまいます。4か月間飲まず食わずで、ふらふらになっていますから、海にたどり着く直前に、たいていの父親ペンギンは倒れて、起き上がることが出来ずに死んでしまうのです。

天の父なる神様の愛は、少しこれに似たものですね。神様は、人間を愛するゆえに、このペンギンの父親のように、自分を犠牲にして人を救おうとされました。ペンギンの父親は、子供たちに対する命がけの無償の愛を示しますが、そのような行動をどこで学んだのでしょうか。これは学んだことではなく、天の父なる神様が、ペンギンを通してご自身の愛を示すために、本能の中に植え付けて下さったものかもしれません。神様が私たちのために、身代わりとして死んで下さる、その愛の大きさを、ペンギンたちが教えているのかもしれません。