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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備えて デビット・カン講演6

2012年07月31日 | 日記


    ひまわりさんより(7月31日) 

7月24日に紹介したおばあちゃんは、パッチワークの腕が上がって、目がそろってきました。
そして、「こんな年でこんな楽しいものを作れるなんて思ってなかった。
これが上手にできたら、もっと腕を上げてあなたのおばあちゃんにも作ってあげる」と言ってくれました。
人の生きがいというのは、やってもらうことではなくて、
自分のできることを見つけて、それに打ち込んでいくことなんだということを改めて感じました。
それだけでなく、生きがいが見つかると、ただ自分の楽しみのためにやるのでなく、
人のために何かやってあげようという気持ちになるのだということを感じました。

   神から生れた者は罪を犯せない(デビット・カン講演6)

私は今、孫と離れており寂しく思っています。私の孫はとても可愛い男の子です。
彼を抱っこするとき、本当に愛をもって可愛がります。この赤ちゃんは、純心無垢なのです。
人間のいやしい心、そういった汚いものを持っていません。
私はこの孫に対して、罪を犯すことはできません。孫に対して罪を犯すなんて、私には不可能なことです。
聖書を読んでみましょう。ヨハネ第1の手紙3章7,8節。
「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に義を行う者は義人である。
罪を犯す者は悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、
悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」 9節「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。
神の種が、その人のうちにとどまっているからである。
また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」
神から生れたものとなるならば、私たちは罪を犯さなくなるだけでなく、
罪をおかすことができなくなる、と書かれています。聖書にそう書かれています。どういうことでしょう。
わたしは妻に対して、罪を犯すことができません。不可能です。彼女から、どうして何かを盗むことができるでしょう。
彼女に対して偽証することができるでしょう。妻に隠れて、別の女性と関係を持つことができるでしょうか。
私はそれをしないというだけでなくて、できないのですね。そのことは不可能なのです。
なぜでしょうか。彼女を愛しているからです。





後の雨に備えて デビット・カン講演5

2012年07月30日 | 日記



     ひまわりさんより(7月30日)

新しい家には、生ごみを堆肥に変える大きな容器が2個置いてありました。
これを使わないのはもったいないと、まず1個を使ってみることにしました。
我が家は菜食なので野菜の皮や芯、野菜ジュースのカスなどが結構たくさん出ます。
今日1日で、バケツ1杯分ありました。今まではこれをごみとして出していたのかと思うと、
なんともったいないことをしていたのかと思いました。
特に今日は、父が朝5時半に、自分で作ったトウモロコシを届けてくれたので、
その皮や芯がかなりたくさん出ました。トウモロコシの芯は固くて大きいので、
堆肥になるには時間がかかりそうでした。小さくした方がいいと思いましたが、
包丁で切るには固いので、何かいい方法はないかと考えたら、ミキサーで細かくする方法を見つけました。
数秒回すと細かくなっていい感じです。この調子で、資源の有効活用につなげたいと思いました。
そして、これをやっていたら、今まで捨てていたものにも感謝の気持ちが起きてきました。

 心を尽くして神様を愛する(デビット・カン講演5)

私たちが神様の戒めに従うとき、私たちがすべての知っている罪に勝利するならば、
神様はその人を完全と見なされます。そして、私たちが神様の戒めに従うという時、
私たちがそのすべてに従おうが、全然従わなかろうが、その戒めというのは一つです。
それは何ですか。神を愛し、隣人を愛するということです。まず神様を愛さなくてはいけません。
そうする時に、神様は隣人に対する愛を私たちに供給してくださいます。私たちのうちには、
そのような愛はありません。私たちは受けなくてはいけないのです。
『祝福の山』という本を読まれたならば、義と愛について、ホワイト夫人は次のように言っておられます。
「義は愛である」と・・・。それを読んだとき、私は理解しました。はっきりとわかりました。
私たちが神の愛について理解するとき、神様の愛に深く感銘を受けた時、神様との恋に落ちた時、
神様の愛が私たちのうちに流れてきます。私たちが心を尽くして神様を愛すること、これが私たちの義であります。
その時から私たちは、今までと違った感じを持ち、違った考えを持つようになります。
私たちは新しい心を受けるのです。




後の雨に備えて デビット・カン講演4

2012年07月29日 | 日記



    ひまわりさんより(7月29日)

新しい家には、いろんなものが無造作に転がっています。
夫は、庭の隅から、大きな睡蓮用の鉢を見つけてきました。
それで睡蓮を育てたいというので、近くのコメリへ行くと、睡蓮の値札に、
「メダカと一緒に育てましょう」と書いてありました。私はメダカを飼いたいと思っていたので、
結局メダカを入れることにしました。
わずか2センチほどの小さな小さなメダカですが、神様は命を与え生かしていて下さるのだなと思って、
命の尊さを感じました。

   完全とは知っている罪に勝利すること

では、完全を信じることとは、完全とはどういうことでしょうか。
できるだけ単純に説明したいと思います。私たちは天国に行った後も、もっともっと成長しますか?
 救われて天国に行っても、永遠に成長し続けるのではないでしょうか。
だとするならば、完全というのは、私たちが到達してそこでおしまいというものではないですね。
天国に行ってもさらに、もっと親切に、もっと愛情深くなっていくものですよね。
もっともっと忍耐強くなり、柔和になっていきます。さらに成長していくわけです。
ですからそこには、もう到達すべき地点に達した、というところはないわけです。
そのようにいう事が完全主義です。そのようなことを私たちは信じていません。
ではクリスチャンの品性完成とは何でしょうか。これはその人の状態なんですね。
私がどのようなものであるか、私の心が神様との関係においてどのような状態であるかということです。
あるレベルに達するというよりは、その人の存在の状態なんです。では聖書による完成とは何でしょう。
神様の戒めに完全に従うということです。それでも少しはっきりしないところがありますね。
それについては何といえるでしょう。すべての知っている罪に勝利するということです。
知らないことについては、神様はそれを罪とはみなされません。
私たちがすべての知っている罪に勝利するならば、神様はその人を完全とみなされます。






後の雨に備えて デビット・カン講演3

2012年07月28日 | 日記



  ひまわりさんより(7月28日)

今年の6月九州の夫の実家へ帰った時、タケノコの塩保存の方法を教えてもらいました。
タケノコの皮をむいて、そのまま、たっぷりの塩で漬け込むだけなのですが、
シャキシャキしてとてもおいしかったので、ダメもとでやってみました。
今日、そのタケノコや、クリ、ワラビ、シイタケなど以前から保存していたものと合わせて
、混ぜご飯風にしてみたら、結構おいしいと言われました
(田舎のおばあちゃんが作って道の駅などで売っているような味だね、と言われただけなのですが・・・)。
タケノコを塩漬けにすると何か月も腐らせずに保存する塩の力に驚きました。
聖書には、私たちは地の塩だと言われています。
塩のように、サタンのまき散らしている腐敗の力から、心を守る働きをするような人になりなさいというメッセージが、
この聖句に含まれているんだということを思いました。

   完全を信じることと完全主義の違い

完全主義とは何でしょうか。完全主義の人は、自分たちは完全にならないと救われないと説きます。
完全になることを救いの条件とするわけです。
完全主義とは、神様のすべての言葉を、その通りに従わなければ完全にはなれないということです。
そのような完全主義にはたくさんの努力を要します。パリサイ人たちは、
完全がなければ救われることはないと信じるわけですね。そして彼らは神の律法の一点一画も、
もれなくそれに従おうとしたわけです。それは間違いです。
聖書が教えていることではありません。





後の雨に備えて デビット・カン講演2

2012年07月27日 | 日記



    ひまわりさんより(7月27日)

暑い毎日が続きますが、皆様お元気でお過ごしのことと思います。
今日は午後から休みを取って、子供たちが使う、ぬいぐるみ人形を買うために出かけたいと思っていました。
ところが、いつも金曜日は使っている車を息子が使うということで、急きょ夫が使っている車を、日中使うことにしました。
そして、人形を買うために、いつも行っているM市のダイソーでなく、
今日は大きなショッピングセンター内のダイソーへ行くことにしました。
そこのダイソーへは、あまり行ったことがなく、途中で道を間違ってしまいました。
何度も思いがけないことが起きると、つい、不満やつぶやきが出てきてしまいそうになりましたが、
つぶやかない、不満を口にしない、ことを実行して行きました。そして、ショッピングセンターのダイソーへ着くと、
ちょうど手頃な人形がありました。回り道をしましたが、
つぶやかないことがとても大切だということを改めて感じました。



 クリスチャンの品性完成とは?(デビット・カン講演2)

クリスチャンの品性完成とは何でしょう。間違いを犯さなくなるということですか。弱さがなくなるということですか。
全然倒れなくなるということですか。イエス・キリストのように完全になるということ、品性完成とはどういうことでしょう。
皆さんどのように理解しておられますか。
ある人達は、完全主義と品性完成を混同してしまっているかもしれません。
私たちは完全主義を信じるわけではありません。これはパリサイ主義と同じです。完全主義ではなく、品性の完成を信じています。