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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 38

2013年06月30日 | 日記


いつもブログを見ていて下さる皆様、今回は2日間郷里の熊本へ里帰りのためお休みとなりましたことをお詫びいたします。また再開いたしますのでよろしくお願いいたします。今回の九州行では、このブログの愛読者の方二人とお会いすることができ、とてもうれしく思いました。 皆様の信仰のお役に立てればと願っています。なお今回から、私の牧師時代の説教「すべてを与える愛」を少しづつ紹介させていただきます。お読みいただければ幸いです。

 

     38

同様に、悔い改めも賜物である。「・・・イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右にあげられたのである」(使徒行伝5:31)。キリストがこの世界に来られたのは、賜物として、私たちに悔い改めを与えるためであった。罪人が十字架を仰いで、究極の愛と犠牲を目の当たりにし、神の真のご品性を悟るとき、彼はその場にひざまずいて、自らの悪の道を告白し、悔い改めるよりほかに、なすすべはない。この意味において、十字架の御業を通して神が人の心に入れられる悔い改めは、賜物なのである。

 罪祭は、罪の赦しよりもはるかに多くのことを説明した。罪祭は罪人に、彼の罪のために支払われねばならない大きな代価を示した。罪の恐るべき結果を悟るとき、彼は罪を憎み、義を愛するようになる。罪祭は、罪人を悔い改めへと導くために意図された儀式であり、それゆえに、罪祭は特別に重要な儀式であると言える。

 

  《 すべてを与える愛 ・・・ヨハネ3:16より 》           

 

    「この世」への愛

 世界中で、一番愛されている聖書の言葉があります。それは、日本語(口語訳)の聖書で、わずか二行半という短い言葉ですが、その中に福音(よい知らせ)が余すところなく語られているということから、「小さな福音書」と呼ばれています。この一句の中に、私たちの喜びと救いに関するすべての知識がまとめられているのです。ですからある人は、この一句を覚えていれば、聖書全体がどのようなものであるか、容易に想像することができるとさえ言いました。

 その聖句は、ヨハネによる福音書3章16節です。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

神様はこの世を愛して下さる。神様が愛しておられるのはほかでもない、この世であり、その中に住んでいる私たち一人一人である。このみ言葉はそのように告げています。けれども、神様が愛されるというこの世とはいったいどういう世なのでしょうか。この世というような言葉を聞くと、私たちはすぐに、憂き世とか、はかない世、わずらわしい世という言葉を連想するのではないでしょうか。私たちが毎朝開く新聞が、おそらくこの世の姿を一番よく表しているのではないでしょうか。そこには、おびただしい数の犯罪、悲しい出来事、争いの記事が載っています。そしてそれを見ると、暗い気持ちにさせられてしまいます。かといって、この世の持つ問題の根は広く深く、私たちは、関心や同情をもってもどうすることもできないのです。ときには、神様の愛がどこにあるのだろうという気持ちも起きます。

 ですから、ある人たちは、子育てに疲れ、対人関係に悩み、仕事に行きづまった末に、この世を捨てて、かの世とやらへ行くことを願ったりします。この世に住み、この世を愛し、この世をよりよく生きていくべき私たちが、しばしばこの世に疲れ、この世に望みーー愛すべき根拠――を見失ってしまうのです。

 ところが私たちが、そのようにこの世に対して悲観的な気持ちになっているときに、聖書は依然として神様が関心を持ち、交わることを願っておられるのは、この世であるといいます。この世がどれほど暗くなっても、私たちが悪くなっていっても、神様は神様としてこの世を愛し続けて下さるというのです。いやむしろ聖書は、この世の問題や暗さを一気に吹き飛ばしてしまうように、明るく神様のこの世への愛を宣言しています。(続く)

 


福音の道しるべ 37

2013年06月27日 | 日記

    

  37

罪祭は、罪の赦しが得られる唯一の供え物であった。聖所の儀式において、この供え物だけが、聖所の中にそのいけにえの血が持ち込まれた。祭司はその血を幕の前に七回ふりかけ、とりなしの祈りをささげ、そして赦しが与えられた。愆祭〔けんさい―愆はあやまつ、あやまちの意〕も、聖所における祭司の司式を伴うもので、罪祭の一形式とみなされたが、その人が他者に与えた傷害または損害の償いも要求された。それには、意図的に犯した罪の赦しも含まれていた。但し、燔祭と酬恩祭は、赦しをもたらさなかった。これら二つは、罪祭の後にささげられた、献身と感謝の供え物であった。このようなわけで、罪祭こそが、あらゆる供え物の中で最も重要なものであると筆者は考える。

 罪祭について説明する前に、信仰と悔い改めについて、しばし考えてみよう。信仰と悔い改めは賜物〔贈り物〕であると言われている。これは、どういう意味であろうか? 子供が母親を信頼することを覚えるのは、そうするように言われるからではなく、経験の積み重ねの結果である。子供は、いかなる境遇にあっても、母親からあたたかな愛と保護を受ける。自分が本当に愛されていることを経験によって知った子供は、母親に頼ることを自然に覚えるのである。仮にだれかから、母親に信頼してはいけないと言われても、生まれてこのかた培われた信頼を揺るがすことはできない。母親に対する子供の信仰は、愛の経験から生じたものである。ゆえに、信仰は賜物なのである。


福音の道しるべ 36 

2013年06月26日 | 日記

        

    36

C.罪祭

 罪人は、赦しを受けるために罪祭をささげた。従って、それは最も重要な供え物であった。罪祭は、子羊の血が罪を清めることを罪人に悟らせる、実物教訓であった。血は命であるから、そこには重要性がある。私たちは罪を犯したので、私たちの血は汚れている。ゆえにそれは、罪を清めることができない。罪を犯したことのないキリストの血には、罪を清める力がある。律法を手ずから書かれた罪なきお方の血が、私たちの身代わりとして流された。それは、私たちが再び新たな命を生きるようになるためであった。「インマヌエルの血管から湧き出る血の泉があり、その泉に身を投じる罪人は、あらゆる罪の汚れから清められる」(英語讃美歌より)。

 祭司、またはイスラエルの全国民が罪を犯すと、犠牲の中でも最も高価な雄牛が連れてこられた。神の御目からは、祭司が罪を犯すというのは、全国民が罪を犯したくらいに由々しい事態であった。個々の罪の重大さは、犯した人の霊的責任に比例して増していった。通常、教会の指導者が背教すると、民がそれに倣う。人を教える立場にある者たちの責任は、いかに重いことか! もしも彼らが、信仰による義の誤った概念を説いたならば、教会全体が失われかねない。もしも指導者が、真摯な罪祭の経験をしていなければ、どうやって民を指導することができるだろう? 雄牛の罪祭は、霊的指導者には重大な責任が伴うことを示している。

 民の支配者が罪を犯した場合は、二番目に高価ないけにえである、雄の子ヤギをささげることになっていた。一般人が罪を犯した場合は、メスの子ヤギか、その人が貧しければ一対〔雄と雌〕のハトをささげることになっていた。これによると、たとえ同じ罪であっても、犯した人の社会的立場に応じて、その処分が異なっていたことが分かる。つまり、個々人の罪の重大さは、その人の社会的地位〔責任〕が高ければ高いほど、増していったということである。


福音の道しるべ 35

2013年06月25日 | 日記

   

     35

外庭における犠牲においては、罪から清めるために三つの媒体、すなわち血と火と水を用いた。血は、罪の根源である、心と内面の動機の清めを表していた。火は罪を焼き、水は罪の行為を象徴的に洗浄した。レビ記は、血液が生命の主要素であることを教えている。血液は体内を循環し、各細胞に栄養分と酸素を供給する。一方で血液は、体内の不純物を集め、体外に排出する。同様に、霊的生命を活気づける福音の原則が心に入ると、福音は罪を取り除き、心を清めてくれるのである。

 外庭でささげられた、あらゆる犠牲の供え物のうち、罪祭の血だけが聖所の中に持ち込まれ、そこでふりかけられた。聖所〔第一の部屋〕の幕の前でふりかけられた血は、私たちの告白した罪が、天の聖所に移されたことを表している。もし私たちの罪が天の聖所に移されないとしたら、とりなしの祈りを通して得られるはずの、赦しを受けられなくなる。たとえ赦されたとしても、私たちの罪の記録は、罪そのものが除かれる時まで天の書に残っているであろう。この重要な概念は、罪の除去について研究するときに詳しく学ぶことにする。次に、罪祭について研究してみよう。


福音の道しるべ  34

2013年06月24日 | 日記

    

   34

祭司に与えられた右肩は、罪人が全生涯をキリストの双肩にゆだねた後に、人生におけるすべての出来事について、神が責任を負って下さることを意味していた。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、・・・」(イザヤ9:6)。幼い頃、父親に肩車をされて、何ともいえない安心感にひたった覚えがあるだろうか? 私たちは、生涯を神の双肩にゆだねる必要がある。

 次に、両頬の部分が切り取られて、祭司に与えられた。誰かに片方の頬を打たれたら、もう一方の頬も向けなさいと、キリストは教えられた。「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」(イザヤ50:6)。祭司に頬の部分を与えた罪人は、実質的に罪なき完全な生涯を送る誓いを立てたのであった。今日これは、私たちがキリストの品性を持たねばならないことを意味する。

酬恩祭は、神と和睦する方法を説明、要約している。救済の計画に関する、この詳しい効果的な実物教訓を与えて下さった神に感謝し、御名を讃えようではないか。