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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

黙示録の獣、龍そして女 第3回

2017年05月31日 | 日記

3.生と死を分ける問題

 この二大勢力の戦いの背景について説明しましたが、次はキリストとサタンの間で起こる大闘争の最後の局面について、もう少し詳しく見て行きましょう。まず、黙示録13章に出てくる獣は、神様の権威を完全に破壊しようとする反キリストの勢力であることを理解しなければなりません。黙示録13章1-7節に象徴的な言葉で表現されている反キリストの姿を注意深く読んでみましょう。

 「わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』。この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

ここでは象徴的な表現で、反キリストの勢力が、神様に従う真のクリスチャンたちを迫害する光景を見ることができます。ここに出てくる龍は年をへた蛇、すなわちサタンを意味します(黙示録12:9参照)。獣の支配が地球上の全ての人に及ぶほど勢いを増すと、人々は額や手に獣の刻印を受けるよう強制されます(黙示録13:16)。この時、その刻印を受ける人々は、黙示録14章9-10節に描写された神様の激しい怒りを受けることになります。また、獣の刻印を受けた人々に対する神様の怒りが、黙示録15章1節に次のように説明されています。「またわたしは、天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである」。

さらに、獣の刻印を受けた人々に振り注ぐ災難と苦痛が、ヨハネの黙示録16章に説明されています。ここではその内容について詳しく説明しませんが、今私たちが取り上げている問題は、私たちすべての永遠の生と死がかかっている重大な問題だという点を覚えていただきたいと思います。私たちは獣の正体について、熱心に研究しなければなりません。また、獣の刻印を避ける方法について、真剣に学ばなければならないのです。ですから、この問題に関しては、どんな推測や想像もあってはなりません。私たちはすべての危険がどこにあるのかを正確に知り、それを避ける方法を具体的に理解しなければならないのです。

 多くのクリスチャンが、この重要な問題について、ほとんど教えられていません。この問題が自分の運命と深く関係があるにも関わらず、獣やその刻印について知ることができずにいるのです。多くの牧師たちは信徒たちの心を不安にさせないために、この問題に触れずにいるようです。彼らは「獣の心配は無用です。それは私たちが理解するには非常に難しく、複雑な問題です。皆さんが主を愛してさえいれば、何の問題もありません。皆さんは獣の正体を知らなくても信仰を持っていれば大丈夫です!」と言います。しかし、気をつけてください!神様は最後の時代を生きる私たちのために、黙示録を通して獣の危険について警告しておられるのです。獣に関する問題は、私たちの永遠の運命を決定する、重要な問題です。

 もしある人が「獣の正体は私たちが理解できるものではないから、知らなくてもいい」と言ったとします。それは「皆さんが獣の刻印を受ければ、地獄の炎に投げ込まれます。それは非常に悪いことですが、獣の刻印が何なのかあえて知る必要はありません」と言っているのと同じことです。しかし、神様はそのように教えておられません。神様は私たちが、それを避けるように警告しておられるのです。獣の正体が何なのかを知るなら、私たちは皆、それを避けることができます。また、獣の刻印が何なのかを知ることができれば、それを受けないようにすることができるのです。

 

 


黙示録の獣、龍そして女 第2回

2017年05月30日 | 日記

2.驚くべき能力を持った二人の戦士

 神様とサタンの大闘争のクライマックス(頂点)、すなわち全世界が二つに分けられる驚くべき出来事が人類歴史の最終地点で起こります。しかし、この闘いは約6千年もの間続けられてきました。大闘争は宇宙の統治者である神様の権威に反抗するルシファー(サタン)の反逆から始まりました。イエス様の地位をねたんだ一人の天使の話が旧約聖書に記録されています。イザヤはその美しく輝かしい存在の反逆について、次のように記しました。「黎明の子、明けの明星(ルシファー)よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(イザヤ14:12-14)。

 天使長ルシファーの利己的な反逆の種はあっと言う間に広がり、他の天使たちの忠誠心にも影響を与えました。そして、天使の3分の1がルシファーに加担し、大闘争が始まったのです。「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した」(黙12:3,4)。このように始まった大闘争が6千年も続き、そして今世界の終末となって、すべての人々が、誰を支持し礼拝するかについて最後の決断をする時となったのです。

 天で反逆が起きると、すぐに戦いとなりました。その戦いの結果ルシファーと呼ばれた天使長と、彼に加担した群れは天から追放されました。使徒ヨハネは天で起こった反逆をこのように描写しました。「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」(黙 12:7-9)。

明けの明星という意味を持つルシファー、天使長が反逆してサタンとなったため、サタンという単語には「対抗者」という意味があります。そしてサタンと神様との戦いは天から地球へと移り、最後の時代に地球上の全ての人が、神様に従いその戒めを守るのか、または戒めに背くのかを、個人的に決断することによって、全世界は二つの群れに分けられます。しかし、このような劇的なクライマックスの日が来るまで、神様とサタンの間で繰り広げられた大闘争は、人間とサタンの代理戦争という形で、日々休むことなく続けられているのです。そして神様の権威に挑み、忠誠に背いたことによって反逆が始まったように、神様の権威を表す教え(戒め)を拒み、拒否する者が滅亡することで大闘争は終結します。

 サタンは天から追放されてから現在まで、彼の追従者である悪天使たちと行動を共にしてきました。サタンは神様の救いの計画を破壊し、神様の権威を転覆させるために、非常に狡猾で陰険に働いてきました。そこで、この小冊子を発行した目的は、今も真理の基礎を破壊し、神様に反逆し続けているサタンの策略を暴露し、一人でも多くの方が、真の神様に立ち返っていただくためです。

 人類の歴史がエデンの園で始まってから現在まで、各時代にわたって、この世界を救うための神様の計画を破壊しようとしてきた悪の勢力は、どんどんその力を増してきました。そして、最終時代に繰り広げられるサタンの最後の攻撃は、黙示録13章に出てくる獣の姿として記録されています。神様の戒めを攻撃するために、驚くべき偽の権力が立てられるのです。悪天使たちは、人々を欺き自分たちに引き入れるために、強力な方法を駆使するでしょう。すべての人がこの問題に直面し、誰も中立の立場をとることができなくなります。獣の勢力の支配が全世界を圧倒する時、すべての人は神様かサタン、どちらに従うかを選ばなければならなくなります。

 「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない」(黙 14:9-11)。


黙示録の獣、龍そして女  第1回

2017年05月29日 | 日記

1.恐るべき警告

私たちの時代に対する最も恐るべき警告が、黙示録14章9-10節に出てきます。

「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、おおよそ、獣とその像とを拝み(Worship、礼拝)、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる」。

 この言葉は、聖書の他の箇所に出てくる神様の愛とはあまりにも対照的で、凄まじい恐怖心さえ与えます。これは神様の憐みが、真理と愛を拒み続ける者たちから取り去られる時があるという事実を語っています。悪人に対する神様の審判は、憐みによっておよそ6千年間引き延ばされてきました。しかし、神様の権威に対する人類の反逆と罪が限界に達した時、神様はその罪悪を食い止めるために介入されるのです。

 私たちはここで、愛あふれる神様をそれほどまでに怒らせる罪について、一緒に見ていきましょう。先ほど述べた聖書の言葉を注意深く読んでみると、終末の時代には間違った判断をして、獣に忠誠を誓い従う人々が出てくることが分かります。結局、世界は二つのグループに分けられ、一つは真の神様を礼拝するグループ、もう一つは黙示録13章に出て来る獣を礼拝するグループです。全世界が二つに分けられる要素として、誰を礼拝するかという問題が深く関連しています。また「礼拝」という言葉は、宗教界でのみ使用される言葉です。そのため、神様を礼拝するグループだけでなく、獣を礼拝するグループにも宗教的な立場の人が中心にいることが分かります。

 

しかし、何が世界中の人たちを二つに分けるのでしょうか?使徒ヨハネは黙示録14章9-11節で、獣を礼拝する者たちを描写した後、12節で次のように言いました。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。まさにこれが獣に従う者と、小羊に従う者を分ける明白な境界線です!

 全世界が二つに分けられる基準が、「神の戒めを守る」ことと深く関連していることに注目しなければなりません。使徒ヨハネは獣の刻印を受けない人々を説明する時、「神の戒めを守る」者たちと描写しています。また、神様の戒めを守らない人々には、神の激しい怒りが降り注ぐと言いました。これはローマ人への手紙6章16節で使徒パウロが語ったことと正確に一致しています。「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」。

最も真実な忠誠心は、従順という具体的な行為を通して表明されます。結局、この地球上の大多数の人々は神様の偉大な戒めに従わず、反キリストの偽の権威を受け入れることになるのです。全ての人は、個人的にどちらかを選ぶことになるのです。聖書は黙示録13章に登場する獣への礼拝問題に対する選択とは、最終的に生か死のどちらか一方を選ばなければならない決断であることをはっきり語っています。

しかし、実に不思議なことは、多くの現代の神学者たちが、獣の刻印やそれに関連する黙示録14章の警告を無視するか、おろそかにしていることです。黙示録の預言に出てくる深刻な警告の言葉を宣べ伝えない牧師たちによって、クリスチャンだけでなく、世界中の人々が神様の警告を聞くことができないのです。さらに、黙示録の預言の言葉は、単に初代のキリスト教会に送られた警告文として解釈されたため、現代にはあまり関係がない本と見なされています。また、どうしてなのか分かりませんが、黙示録を封じられた本として、黙示録という名前が持っている「啓示」という明確な意味さえも否定しているのです。しかし、この驚くべき警告を研究する人たちに対する約束が、黙示録の冒頭に記録されているということを決して見過ごしてはいけません。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」(黙示録1:3)。

 キリストとサタンの間で繰り広げられる最後の大闘争のシナリオを、黙示録を通して学ぶ前に、まず大闘争に参加する二人の戦士(キリストとサタン)について学びましょう。


生ける神の印 VS 獣の刻印 最終回

2017年05月28日 | 日記

12.神様のしるしと最後の大争闘

世界歴史の終末時代には、神様の民に対する大きな迫害が起きることが預言されています。

「それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」(黙 13:15-17)。

この「獣の刻印」の大迫害の経験は、旧約聖書ダニエル書から借りてきた表現です。これは、ダニエルの3人の友人が経験したことと重なるものです。ネブカデネザル王はドラ平野に像を建て、それを礼拝させようとしました。その時、ダニエルの友人たちは、王の命令に従わないことで命を失うようになったとしても、その像を礼拝しないと言いました。その理由は明白でした。神様の戒めに背くことだったからです。神様の戒めに、「偶像にひれ伏してはならない」と命じられていたからです。

そしてこれから、神様の真の安息日に従うか、人間が作った日曜日を礼拝の日とするかという問題をめぐって、大きな争闘が起きるのです。間もなく、日曜礼拝の強制という「獣の象」が建てられることでしょう。世界中に、この神様の戒めに全く背く命令が下されます。ダニエル書3章の経験が、霊的な意味で現代において再び繰り返されるのです。神様の戒めと人間の戒めの間で、生死を分ける大争闘が起きます。

 獣の刻印が強要される時に、神様の土曜安息日を守って、日曜日は神様の礼拝日ではないと断言できる人だけが、神様の真の民となり、ダニエルの3人の友達のように、神様に忠実な人として認められるのです。これから世界各地で、大規模な自然災害や戦争、経済危機などの大災難が起きます。それによって、各国が非常事態を宣言し、みんなが集まって神様に祈りを捧げ、救いを求めなければならないと言うようになるでしょう。そして、日曜日を神聖に守ろうという運動を起こすのです。その時に神様の忠実な民は、聖書の真の安息日について語り、バプテスマのヨハネやエリヤのように、大胆に、神様に従うことや、安息日の重要性について証言するのです。それに対して、大きな迫害が起きるでしょう。しかしその時、神様の戒めを守る者たちは、「生ける神の印」を額に受けるのです。

なぜ神様のしるしを額に受けるのでしょうか?額(脳の前頭葉部分)は、私たちの知性、良心、意志、判断力、品性などを司っている場所です。私たちの習慣や思想など、精神生活の多くの機能が、この額の部分に宿っています。私が誰であり、何を信じ、何を目標に生きているかなどは、この額部分で判断しています。自分が本当に神様を信じて、主のお言葉通りに生きる者なのか、それとも、適当に自分の都合がいいように信じる空っぽなクリスチャンなのか、この額部分に記録されています。額に、神様の戒めを守り、神様のお言葉に忠誠を尽くす品性が記録されている者たちだけが、最後の時代に、「生ける神の印」を受けるのです。

 もうすぐ大艱難の時が訪れます。黙示録7章にある、引き止められていた地の四方の風は解き放たれ、地上にかつてなかったような混乱と災害が起きるのです。その時には、継続的な従順と信仰の生活を通して、神様の戒めを守る品性を身につけていたが人たちだけが「生ける神の印」を受けることとなるのです。そして、この「生ける神の印」を受けた者たちだけが、天使の守りを受けられるのです。「生ける神の印」を受けた人たちは、ダニエルの3人の友人たちのように、燃える炉の火の中でも完全に守られるのです。反対に、「獣の刻印」を受けた者たちは、次々に起きる大災難に直面し、神様の愛と警告を無視してきたことを悔やむのですが、もう遅いのです。

 安息日は、私たちが神様のものであることのしるし(Sign)です。また安息日は、最後の時代に神様に忠誠を尽くす者たちの信仰心のしるし(Sign)です。たとえ全世界から受け入れられないとしても、真理の通りに、誠実に生きる者たちに対する神様の証印です。それは、アブラハムがイサクを連れてモリア山に登った、その時の信仰です。皆さんは、真の神様の安息日を守る決心がありますか?この、心に真の安息をもたらす、美しい神様の戒めを守りたい心はありますか?皆様が、最後の日に、「生ける神の印」を受けた人となられることを心より祈っています。

 

 

 


生ける神の印 VS 獣の刻印 第13回

2017年05月27日 | 日記

11.反対論への答え

 ある人々は、だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある 」(コロサイ2:16,17)という聖句を用いて、「十字架以後は、安息日などは守らなくてもよくなったはずなのに、なぜ執拗に特定の日を強調するのですか?」と質問します。ではもし、十字架以降に安息日の戒めが廃されたのだとしたら、なぜ他の9つの戒めは守っているのでしょうか?偶像崇拝をしてはいけないという戒めも廃されたのでしょうか?十戒の中心ともいうべき重要な安息日の戒めが変わったとしたら、なぜ聖書にそのことが記録されていないのでしょうか?「安息日のことで批評されてはならない」という言葉の意味をよく見てみましょう。そして、その誤解を解いてみましょう。

 「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」(コロ 2:14-17)。

ここで言われている、十字架で取り除かれた証書とは十戒のことではなく、ユダヤの各種の祭りや儀式制度、すなわちモーセの律法と呼ばれるもののことです。そのようなものは、もう必要なくなったのです。それらは、メシヤの来臨や働きについての預言であり象徴でした。これから起こることについての影であったため、本体であるキリストが来られた時に、その役割は終わったのです。

 たとえば、過越しの祭はイエス様の十字架を理解するために守る祭であり、揺祭(初穂の祭)はイエス様の復活とその意味を教えるために守る祭でした。そこでこれらの祭は、イエス様が来られた後には守る必要がなくなったのです。そして、このような祭りの中には、必ず週ごとの安息日ではない、祭としての安息日が含まれていました(レビ23:23)。そこでパウロはコロサイ人への手紙2章で、「あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」と言ったのです。

 

また、コロサイ人への手紙2章にあるこの「安息日」という単語はギリシャ語で複数形で書かれています。ですから、英語欽定訳聖書では原語通りに“諸安息日”と複数形になっているのです。レビ記23章39節を見ると、祭を始める日と終わる日が安息日であったことが分かります。パウロがコロサイの人々に語ったのは、このような、すでに守る必要がなくなった安息日であることが分かります。

 パウロの時代に、あるユダヤ人たちはキリストを信じながらも、長年の伝統である祭は守り続けなければならず、祭りの中の諸安息日も守らなければならないと教える人たちがいました。しかし、そのような儀式や祭りの律法は十字架以降にはもう必要なくなったので、そのような諸安息日のことについて、これ以上批評されてはならないとパウロが言ったのです。

 しかし、十戒の中にある第七日目の安息日は、将来起こることについての影ではありませんでした。むしろ、過去に神様が世界を創造された事実を振り返り、思い出すようにする制度でした。“諸安息日”とは、目的において、その意味において全く異なったものでした。安息日は廃されたとか、新約時代には守る必要がなくなり、キリストを信じればいいという人たちは、聖書の本来の意味を誤解してしまっているのです。

 またある人たちは、聖書には、十字架以後に弟子たちが日曜日に集まったという記録があるのを見て、日曜日に礼拝をする根拠としています。その箇所を見てみましょう。週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた」(使徒行伝20:7)。ここで言われている「週の初めの日」とは、「夜中まで語りつづけた」という言葉から分かるように、現在の土曜日の夜でした。これはどういうことかというと、ユダヤ人の1日の考え方は、聖書にもとづいて「日没から日没」までだったからです。聖書時代には、「その夕から次の夕まで」(レビ 23:32)が1日でした。そこでユダヤ人たちは、現在の土曜日の夜を、“安息日後の初日”すなわち“週の最初の日”と表現していました。ですから、この使徒行伝の集まりとは、安息日が終わり、その夜の“週の最初の日”の集会だったのです。またこの日の翌日の日曜日にパウロは出発する予定だったので、お別れの食事会としてパンをさくために集まったのであって、安息日礼拝の代わりとして集まったのではありませんでした。