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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

天国、それは本当にあるのか? 第15回

2016年07月31日 | 日記

ⓓ  病気も死もない

「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録 21:4)。天には病気や苦痛、死などありません。失望や悲しみ、ストレスや罪もないのです。そのため、葬列やため息、別れや傷つくこともありません。ただイエス様がそこにいらっしゃり、平和がそこにあるのです。「彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ」(イザヤ 49:10)。

 ⓔ 天の国での生活

① 労働、成長、研究

「彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。」(イザ 65:21,22)

 ある人が、天は永遠に何もせず、ただ腕組みだけして楽に暮らすような所だから、つまらない所だと言いました。しかし聖書は、私たちがそこで農作業したり、ブドウを栽培したり、美しい庭園を飾ったり、家を建てたりして暮らすと言っています。しかし、天で行う仕事には、地上の時のような疲れや、つらさはありません。救われた人たちは、最初にアダムとエバが感じていたような、幸福と満足感を味わい、愉快な楽しい気分ですべての事を行うようになります。私たちは、エデンの園の生活と同じような日々を過ごすのです。

 そこでは、私たちの体力と知能は啓発され、全ての才能が増進されるでしょう。どんな高遠な希望もかなえられ、どんな高い抱負も実現されますが、そこにはまだ上っていくことの出来る新しい目標、感動させられる経験、理解しなければならないより深い真理、心と体と頭脳の全ての能力を傾けて探究するべき新しい研究材料があるのです。そして、私たちの性質や品性が、悔い改めと生まれ変わりを通していくら変化したとしても、まだ成長すべき分野があり、目指すべき品性があるのです。神様の完全な品性を求めて、救われた人々は無限の成長発展を繰り返すのです。またこのような成長は、精神的なことばかりでなく、肉体的にも起こるでしょう。なぜなら、最初アダムとエバが創造された時にくらべて、人類は罪の結果として退歩しているので、創造当初の人間の大きさまで回復される必要があるのです。おそらく、命の木の実は、万国民をいやすだけでなく、神様の民を元気づけ、肉体的にも成長させることでしょう。

 また私たちは、神様が私たちを救って下さったあがないの科学を研究することになるでしょう。あがないの科学は、まさしく科学の中の科学で、天使たちや堕落してない世界の住民全てが知りたいと望む学科です。天使たちでさえ学びたいと思うこの救いの科学は、永遠の歳月を通して、救われた者たちの歌となります。私たちを愛するために、ご自身の栄誉と命さえも捨てられた神の子イエス・キリストの受肉の神秘は、私たちにとって尽きることのない研究のテーマです。またそのほかに、私たちは神様の創造の神秘と科学も学ぶことになるでしょう。


天国、それは本当にあるのか? 第14回

2016年07月30日 | 日記

Ⓒ 城の中の住居と、田園の生活

「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇 16:6)。イエス様が私たちのために準備して下さった住居に、私たちは満足するでしょうか?イエス様は、「私はあなた方のために、場所を用意しにいく」と言われました。あなた方のために!私のために!天に住まいを用意して下さるのです!・・・今からでも望めば、その家の表札にあなたの名前を書くことが出来ます。イエス様はあなたのために、家を準備しに行かれました。私たちは、イエス様が用意された家をとても気に入るはずです。なぜなら主は、私たちが最も望むものが何なのかを、とてもよく知っておられる方なのですから。

私たちが天へ行った時、主は聖なる新エルサレム城を見せてくださることでしょう。私たちは黄金の道を歩き、主はエルサレム城の興味深い所を案内してくださるのです。長い間、罪の世界で苦しんできた神様の子供たちが、そこでようやく安息を得られるのです。イエス様と共に生命の川の岸べを歩く時、私たちの人生の歩みの中で、どうしても理解できなかった疑問や未解決の問題、神様の導きの神秘について、イエス様自ら説明してくださるでしょう。生命の川の上に伸びた、毎月異なる実を結ぶ生命の木を見ていると、その向こうの方にあるマンションが目に入り、私たちは一瞬にしてそれに魅了されるのです。「あぁ!これは私たちが望んでいた家だ!あんな家に住めたらなぁ」と思うはずです。その時、イエス様が「この家は、あなたのものですよ。あなたのために、特別に建てたのです!」と語って下さいます。その家は銀色に輝き、きらめく真珠が散りばめられた柱で出来ている素敵な家です。そして、聖徒たちが受けた冠を脱いで置ける、金の陳列棚もあるでしょう。そんな光輝く美しい家で、聖徒たちは暮らすのです。

罪と呪いの痕跡などない天の国は、神様が創造された本来の姿がそのまま反映され、美しさを極めた風景が私たちの目の前に広がっています。日の光が必要ないほど神様の栄光が常に頭上から降り注ぎ、聖徒たちは絶えず大きな声で神様を讃えるでしょう。そこには、一面花で覆われた平原が果てしなく広がり、野の花を摘みながら、「この花は永遠に枯れないのだ!」と叫ぶのです。また、背丈の高い草でいっぱいの野原もあり、生き生きした緑色の葉は、風になびくたびに、金と銀の色に光り、王であるイエス様の栄光を誇らしげに歌います。私たちはそのような光景を見るたびに歓声を上げることでしょう。 

また私たちは、いろいろな種類の動物たちで埋め尽くされた野原も目にするでしょう。そこにはライオンや子羊、ヒョウやシカが、みんな完全に調和し、平和な生活を送っています。森の中は、この世の薄暗い森とは全く異なり、栄光の光で満ち溢れています。明るい光を反射して風になびく木の枝を見ながら、私たちは「野原でも安全に暮らせて、森の中でも安心して眠れるのだ!」と叫ぶでしょう。


天国、それは本当にあるのか? 第13回

2016年07月29日 | 日記

ⓑ 私たちは互いに知ることになる

私たちが天での生活を想像する時、こんな疑問が浮かぶかもしれません。「私たちはそこでお互いの顔が分かるのだろうか?」。ある人たちは、天とは非物質的な、霊魂のようなものが存在している場所という間違った観念を持っています。しかし、聖書は反対のことを言っています。昔の苦痛や悲しみは消え去りますが、友だちや家族を見間違えたり忘れたりはしないのです。私たちはお互いをはっきり認識し、識別することが出来、会話したり思想を交換したりすることが出来るのです。

 使徒パウロは、「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(Ⅰコリント 13:12)と言いました。これは、私たちが地上でお互いを知ることより、天国の方がもっとよくお互いを知ることができるという意味です。地上の生活では、私たちは物事をぼんやりとしか理解することができないため、よくお互いを誤解します。新しい世界では、このようなことは絶対に起こりません。私たちは互いを明白に知ることとなるでしょう。

イエス様は、「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが」(マタ 8:11)と言われました。明らかにこれは、私たちが旧約聖書の英雄たちを知ることになるという意味です。天国で私たちは、地上で愛した人たちと永遠に共に住むばかりでなく、聖書の中に登場する、霊的な巨人たちと親しく交流することが出来るのです。

 多くの人たちは、故郷へ帰ることや、昔の友人に会うことが好きです。数十年ぶりに昔の友だちと会い、旧交を温め合ったりすることはとても嬉しく楽しいことですね。天国で、自分が愛した人々や、友人たち、自分が主に導いた人たちと再び会う日の事を考えてみて下さい。どんなに嬉しく感動的なことでしょうか!また、一人の人の信仰から、周囲の人々に次々に信仰が伝えられていった、その信仰の連鎖を見ることはどんなに楽しく喜ばしいことでしょうか!


天国、それは本当にあるのか? 第12回

2016年07月28日 | 日記

2.天での聖徒たちの生活

 

ⓐ 肉や骨がある体を得る

天の美しさと栄光は、人間の言語で語ることは不可能ですが、天はとても実際的な場所だということを忘れないでください。私たちは目に見えない霊の存在ではなく、具体的な体を持ち、実際にいろいろな活動をすることとなるでしょう。驚くべきことですが、私たちは肉と骨があるリアルな体で、天で暮らすのです。これこそ、聖書が教えることです。聖書の中の2つの文章を見ただけで、その問題はきちんと理解できるはずです。

 ピリピ人への手紙3章21節には、「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」という言葉があります。私たちの肉体は再臨の時に変化するのです。そしてそれは、よみがえられたイエス様と同じような体なのです。復活されたイエス様がどのような体だったのかは、弟子たちに説明されているので、疑う余地はありません。よみがえった後、主は、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(ルカ 24:39)と言われました。

 復活の後で、イエス様は弟子たちの前に現れ、ご自分に肉と骨があることを告げられました。そして、彼らと共に食事をし、生活され、その体で天へ上られたのです。主のこのような一連の出来事は、来世での私たちの生活に関する多くの疑問を解いてくれます。私たちは天で、イエス様が復活された後に持たれた、目で認識することが出来、手で触ることが出来るような体と同様の体を得ることとなるのです。


 天国、それは本当にあるのか? 第11回

2016年07月27日 | 日記

ⓐ 新エルサレム城の大きさ

その城の大きさは、どのくらいでしょうか?ヨハネの黙示録21章16節を見ると、「都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである」とあります。

 聖書に出てくる新エルサレム城の大きさを換算してみると、その城壁は完全に立方体で、周囲が約3,000㎞で、城の一面が約750㎞位になります。その広さは具体的には、アメリカの5つの州、バージニア、コロンビア、ペンシルベニア、ニュージャージー、ロード・アイランドを合わせたくらいになります。その巨大な城壁の中にニューヨークほどの都市が450個ほど入ります。

ⓑ 新エルサレム城の景観

ヨハネの黙示録第21章には、エルサレム城の景観が描写されています。そのようすは、言葉では表現できないほど、美しく輝いています。その城壁は極めて貴重な宝石のようで、碧玉と水晶のように清く澄んでいます。また、その城の12個の基礎石は各々違う宝石で出来ていることが分かります。

使徒ヨハネは、彼に示された幻の中で新エルサレムの栄光の姿を見て、そのきらびやかさに気を失いそうになりました。彼が幻の中で城壁に近付き、12個のそれぞれ違う色の宝石からなる基礎石を見ると、その光り輝く宝石一つ一つに、名前が刻まれていました。その基礎石の中から、自分自身の名前を見つけた瞬間の感激を想像してみてください!

 その城の道は、ガラスのように清く輝く純金で出来ており、大きな門は1つの大きな真珠で出来ています。その城には、太陽や月の光は、必要はありません。なぜなら、神様の小羊の栄光の光でいつも明るく照らされているからです。それはどんなに美しい光景でしょう。神様が、私たちのために準備された場所・・・その美しさと栄光は、人の目がかつて見たことがなく、想像することも出来ないほどなのです。